はやく人間をやめたーい
ファーリーイベント、JMoFの小説企画「ケモノ三題噺」に出品したものです。
テーマは「やっと」「やりなおし」「におい」でした。
昔から、獣への願望が強かった。
CGもない時代に作られた狼男映画の生々しい変身シーンをくりかえし繰り返し観ては、あのSFXが現実の自分に起こることを夢想し、いもしない獲物の血肉の匂いに鼻をひくつかせるような少年時代だった。
ヒトではなく、いっそ狼や野犬に生まれたほうがずっと幸福だったろうと信じ、長じて世間を知ってからは「さりとてヒトに生まれた以上はいかにして獣になるか」を模索する人生だった。
さりとて私の望む獣としての生はジーキルとハイドなど言うに及ばず、あるいは満月の世にだけ許される人狼のような、束の間の二重生活では決してなかった。まして人間社会のなかで知性と理性を捨てた所謂〝ケダモノ〟と成り果てるなど、私にとっては無恥無軌道の極みでしかなかった。
私が欲したのは〝獣じみたなにか〟ではない真なる獣の体躯であり、山野を駆け巡って弱肉強食に生き得る獣性であり、その欲求は血の通わぬ毛皮をかぶることや、獣臭沸きたつ毛波に顔を埋めることや、己を獣であると信じて四足歩行を真似るていどで満たされるものではなかった。
ライカンスロープと呼ばれる存在がこの世に存在するのなら歓んでその牙を受けただろう。だが夢想家であると同時にリアリストでもあった私が選んだのは、科学的な手段による獣への変身だった。
遺伝子の研究に携わった私は、表のなりわいと学問の裏で、誰にも明かさず、誰とも交わらず、ただひとり、自分の人生をまっとうさせるためだけの研究に没頭した。
幾年にわたる試行錯誤と閃きの繰り返しによって、私はついに目的を達するに足る薬品の製造に成功した。詳しくは明かさないが、DNAの突然変異を誘発し、人間の肉体の設計図そのものを狼に極めて近いそれへと書き換えてしまうのだ。
これで、代謝のたびに私の体は獣に近づいてゆくことになる。実験体のマウスは一週間もしないうちに体長二〇センチの、ミニ狼のような姿へと変貌した。
いま、完成したその薬品を、私は自分に投与した。研究資料もすべて破棄した。変異が完了するまでに外出を避けられるための食料等も確保した。ほどなく私はこの人間の生を終え、一匹の獣として──本物の私として──生まれ変わる。その結果、ヒトや他の獣と争い、命を落とすことになったとしても、それは私自身が望んで生きなおした末路であり、本望でもある。
「くっッッッッッッさ!!!」
薬品の効果が肉体の末端から現れるのは分かっていたが、まさか鼻先から来るとは。
私のいまの嗅覚受容体は狼並みだが、まだ脳は人間のままだ。
狼の嗅覚は人間のおよそ一〇〇倍。
つまり、自分の体臭も生活臭も、一〇〇倍に感じるようになってしまっている。
生まれながらの狼でもない、この嗅覚に慣れていないヒトの神経が、耐えられるはずもない。
現在、私は脳が獣になりきるそのときを待ちながら、日に何度も体を洗い、歯を磨き、鼻栓を欠かさず、それでも止むことのない激臭の襲撃に苛まれながら、憂鬱な日々を送っている。
目下のなやみは、消臭剤を切らしたことだ。買いに出ようにも、私の容貌はすでに、人ならざるものとなってしまっている。