おい、大人よ
「驚いた。そんなに細かいところまで覚えてるんだね」
一通り事情を話した後、エレオノーアさんが不思議そうな顔をして首を傾げた。僕も首をかしげて返す。
「いや、随分細かい発音まで再現できてるから、…………気になっちゃって」
「皆このくらいは覚えてるんじゃありませんか?」
「ううん、君が特別。推測だけど…………、記憶の才能があるんじゃない?」
彼女は自分の頭をこつんと小突いてから、様々な記憶に関する能力について解説を始めた。瞬間記憶とか、超記憶とか……。僕にはほんの少しその感覚が分かった。うんうんと相槌を打って話してみる。
「僕、忘れるってことが解らないんです」
「わからない? うーんと、ずっと前のことだと記憶が……出てこなく……なるんだよ?」
「今だって、いつかずっと前になるじゃないですか。そうしたら、僕以外の人は今日を知らなくなるんですか?」
「そう、だろうね。考えてみると嫌だなぁ、忘れるのも忘れられるのも」
「もしそうなったら、どうしたら思い出してくれますか?」
僕の頭には先輩のことがよぎっていた。共に居た、と言っても高々2年だ。もしかしたらすっかり忘れてしまったかも知れない。
「君が語って聞かせなよ。根気強く」
「なるほど」
それきり、僕らが黙ってしまうと、ノエルさんの声だけが聞こえるようになった。
「申し訳ございませんが、森林3区が崩壊しました。…………はい。森林3区は崩壊しました。詳細は本人にお尋ねいただく方が良いかと……、はい、はいはい。…………本当ですかっ!? …………いえ、大変ありがたく存じ――――
エレオノーアさんはぐっと伸びをして、欠伸をした。彼女はちらりとノエルさんを一瞥し、僕に肩を向ける形で座り直す。前のめりになり、机に肘をついてにやにやと笑っている。
「…………ねぇ。子犬! ノエル忙しそうだね?」
「そうですね?」
貴方のせいじゃないか、という言葉は噛み砕いて喉奥に飲み込んだ。自分の足元すら把握できない夜の森。結局迷子になった僕らは、エレオノーアさんの「宇宙の義憤」とかいう広範囲魔術に救われたのだった。その軽率さの結果、森とノエルさんの脳味噌は犠牲になったんだが…………。
「それでね……」
「はい?」
彼女は僕の耳元にそっと口を近づけた。
「……2人だけで、こっそり飲みに行こうよ!」
「えっ!」
「ノ、ノーア!?」
彼女が僕の腕を掴んだのと、ノエルさんが叫んだのはどちらが早かったか。引き摺られて倒れないように前に足を出すと、そのまま加速されまたこけそうになる。周りの視線に刺されながらも彼女に引っ張られていく。細い裏道も走って走って、気が付いた時にはノエルさんは見えなくなっていた。
「わっ!」
「いやぁ、ごめんごめん。うっかりうっかり」
急停止で体が思いっきり前に飛び出す。彼女はつんのめった僕を支えて、へらへらと笑った。この人、わざとやったのか……? 目を合わせるとにぱーっと微笑まれる。どうやら、ほんの少し悪い人みたいだ。意地悪よりかは悪いが似合うな。短時間ですっかり、彼女が神の使いだなんて誤認は薄れていた。
「ここ、警備隊の「晩翠」と「勁草」がやってるんだ。私、身内贔屓だから……、あー、でも味は保証できるよ」
どうやら、ここが僕たちの目的地らしい。彼女は一つの席にすっと吸い込まれるように向かって行った。厨房や名札の付いた瓶が真横から見える席。街に背を背ける席。多分、いつもの席なんだろう。彼女の名前がぶらさがった酒瓶が、厨房と机の境目ぎりぎりに何本も置かれていた。全て文字は不思議にうねっており、悪筆なのかとても読めたものではない。僕は彼女の左横の席に座った。
「…………これ、読める?」
僕の目線を追った彼女が、自分の1瓶を僕へ見せた。銘柄だろう部分を人差し指の腹でそっと撫でる。くるくるとしたその文字はやはり難解。まるで言語の体をなしていない、と思った。だって不規則で規則的な円もどきは、いろいろな文字を照らし合わせてもしっくりこないから。
「わかりません。相当な悪筆か、誰かがふざけたみたい」
「…………そう、そう! そう見えるんだ!」
それを聞いた彼女は大笑いして喜んだ。そして愛おし気に、抱え込んだその瓶を撫でた。
「これはチェルーシ、チェルーシ神聖共産主義共和国の文字だよ。Hefala inmel nectifad。果実酒、寒い日の子守歌。そういう意味」
彼女は指先で線の上をくるくるなぞる。そう聞いてみると、日常的に描きやすい、自然な一つながりだ。…………ふざけたー、なんて感想を言うのは失敗だった。わざわざ大きく書かれるのが言語でない訳ないのに。国が違えば字も違うのに、僕は文化の積み重なりを侮辱したってことになる。しかし、それより気になる問題があった。
「……えと、…………敵国、からですよね?」
「タヌレゼ経由ならと許可は出てるんだ。16までは住んでたから、北海連盟の亡命客の受ける権利、ってやつ。8年前に出たのに、馬鹿な事に今夜だって夢ではあの国土に立っている」
「えっ! 24なんですかッ? …………ええと、…………僕はてっきり、僕と同じくらいかと」
張り詰めた空気感が一気に弾けたのがわかった。
「あはは! そう、そう、そんなに見えた? 身長だってノエルに負けてるもんね」
錆青磁の気だるげな目がゆるりと細められる。ようやく食事をする気になったのか、彼女は机の下をがさごそと漁り料理表を取り出した。僕も机の下を覗いてみると収納箱が張り付いている。僕もそこに手を突っ込んで取り出した。便利な収納だと感心をし、料理表を開いた。ぱらぱらと見るが、文字が多すぎて正直に言うと見る気がしない。
「gadschaの卵と野菜炒めとniwoeの甘辛煮がいいよ? 味が濃いのが駄目なら、phianの蒸し肉かな……? 寒冷禾本捏焼とschiaの汁物もいいかも」
「うーん、と…………。おすすめのガージャの卵と野菜炒めとニーヴォエの甘辛煮に、このコーシャ風編み麺? にしようかな」
エレオノーアさんが席に置かれていた手帳に、どんどんと書き留めていく。ずらっと書かれた文字を読むと大量の酒類が見えた。食事3品に酒何本も…………、僕は、本当にこんなに飲むのか、と彼女を見た。微笑まれる。人ってこんなに柔らかげな表情で酒を頼むのか、となんだか感心させられた。1枚がほぼ満杯になってから、彼女は手帳から手を離した。
「これ、魔術紙っていうの。千切って閉じると…………。ほら、見て」
開いた手の中から白い何かが飛び立っていく。
「わぁ! 鳥、ですね」
鳥は厨房の中にひらひら飛んで行き、読書中の男性の手元に落ちた。
「勁草ー! 酒、酒! わっレーザリリか、割らないようにねー」
「3歳差でそんな子ども扱いしないでくださいよ」
エレオノーアさんがすごく警戒する。馴染みらしいし何度かうっかりされたんだろう。彼も少し緊張した顔で7本もの酒瓶を運んでくる。彼女は抱えられている瓶から緑色のを取って、楽器のように咥えて流し込んだ。
「うんうん、これよこれ! でさー、レーリュ、他の子休みなの? ヘーヴォ呼んだら?」
「ダーマテラフェとスオヴィーンは多分散歩中です。それ以外は教官…………、かな? 僕は貴方じゃないので、気に入ったって連れ回せないんですよ」
2人がゆったりと雑談を始める。エレオノーアさんは誰にでも少し怒り気味に対応されるんだ、となんだか面白い。エレオノーアさんは一通り近況を話した後、会話に適当に区切りをつけて彼を厨房に戻した。正直気まずかったので助かった。彼女は次に僕に話を振る。
「今何歳? 十六歳くらい?」
「そのくらいらしいですね」
「保護区でなら実質成人だね」
「はい。…………聞いてどうするんですか」
「いや、いや、まあ。うーん。今後の参考に…………?」
じっと彼女を見つめる。彼女は必死に身振り手振りで話を変えた。不審な…………。
「海、海は好きか?」
「いつか見たいなぁとは思ってます」
そこからしばらく雑談していると、料理が厨房から届いた。冷やされた瓶の中身はみんな酒、どうみても早死の食卓だ。僕は自分の料理を目の前に引きずり出す。
「お酒、控えた方が良いんじゃないですか。いただきます!」
「いやいや! 飲まなきゃやってらんないよ! いただきます!」
【コーシャ風編み麺】
白くてとろみのある汁に入った麵、という感じ。甘い印象で口に含むと度肝を抜かれた。辛い、辛すぎる、火を噴きそうなくらいだ。思わずエレオノーアさんに助けを求める。
「か、から」
「あっはっは! 麦茶飲みな、死ぬよ」
渡されたコップから一口飲む。喉が焼ける風にじゅっと熱くなった。苦い感じが口の中に残る。思わず僕は大声を出した。
「これっ! お酒じゃないですか! 騙し討ちでは!」
「ごめん、本物の麦茶もあるよ。あーあ、成人してても飲めない人ばっかじゃ。飲み友が全然増えないよう!」
エレオノーアさんが机の上にぺたっと潰れる。それ、飲めないんじゃなくて貴女と飲みたくないんじゃ…………、という考えが頭の中を駆け回る。取り敢えず、僕は彼女を放って食事を続けた。
【ガージャの卵と野菜炒め】
非常に男飯な味付け。久々に実家に帰った時、少し先に帰っていた兄が作ってくれそうな味。そんな体験は無いから感覚で言っているんだけども、ちゃんと旨い。野菜もちょうどいい火の通り方で、卵の甘さがいい差し味になっている。旨い。
【ニーヴォエの甘辛煮】
ニーヴォエ、というのは鳥肉らしい。見た目は赤茶でどろっとしている。肉は薄く裂かれていて、野菜なんかが良く煮込まれているので食べやすい。そして味はかなり濃いめ。これは主食と一緒に食べるべきだったと若干の後悔が残る。あれだと辛すぎて旨い食べ合わせではない。
「レーリュ! 酒に付き合え!!」
僕が食事している間に復活したエレオノーアさんがレーリュさんにだる絡みを始める。…………そんな彼女に忍び寄る影が一つ。
「……なーにやってるんですかノーア!」
「ひゃっ! ノエル! な、なにもしてないからねっ、うん」
「お酒飲ませたとこから見てましたよ?」
「え、えーと…………」
「反省の気持ちがあるんだったら手伝ってください。…………ほら、あの件」
ノエルさんがくるりとこちらを向く。
「案内人制度はご存じですね? 私とノーアで貴方を案内させていただきます」
拗ねてるくらいで怒っては無いみたいだった。…………案内人、確かに迷子で誘拐された僕としては助かる提案だ。別に断る理由もないし――
「それじゃあ、よろしくお願いします」
「よろしくね! よーし、明日から特別なとこを案内してやろう!」
「楽しみにしててくださいね?」