窓掛の向こう
暗闇、冷えた空気、内臓と血の臭い、大人数の話声。
僕は横向きになっている体を起こそうとして頭をぶつける。
「うーッ、いたぁ……、ぃ、さっ……、さぃあ、ぅ、くっ…………」
痛みを逃そうと必死に少ない隙間を転げる。金属柵の錆がごりっと引っかかったらしい。もしかして血が出てるんじゃないか、というくらいの痛み。いや、今はもっと危険な目に合う寸前なんだけど…………。
(ああ! 油断した……。これは誘拐だ。僕は失敗した。人よりを選ぶ奴にとっては、毛皮の無い僕だって一匹の獣人なんだ)
そう思うと頭の中で一人反省会がぐるぐるし始める。せめて手を取らなければとか、落ち着いて宥めてみたら何か変わったかもしれないとか、時間稼ぎをしたら…………、いや、こんなこと言っても仕方ないのは分かってるんだけど…………。
(いやあの状況なら誰だってそうする。そうに決まっている。今は焦りも反省も敵だ)
相手の出方を探る、そう決めてひたすら音に集中した。
3人の足音。
「kizune.」1
身じろぎする音。
「vulameschia…………?」2
「cotsiahiyaitefito fqis svayetvolruta afly?」1
何かを探すような音。
「stor cmay gige.」2
「yett……. svayut do lirf.」3
「higut crog afly ponkia nofu?」4
「maymay?」1
革手袋越しに手を叩く音。
「uto gige lirf.」3
取り敢えず喋った順に数字で憶えておく。後で役に立つかもしれない。
会話してるのは男性四人。偽警備の人の声はないな。知らない言語なのは多分、チェルーシから? 聞きなれない言語だが、話が盛り上がる隙さえあれば何かできそうだな…………。あとは、音の反響からみて、ここの前に廊下、左に行けば窓、右に行けば広い部屋がある。足音の方向から見て、その奥にももう一部屋か玄関がありそうだ。隙を見てどちらかに抜けよう。
(逃げ道は分かったしこの檻を開けなきゃ)
僕は頭上の錠前に恐る恐る触れてみた。指先から微弱な魔力を感じる。魔術式錠前、魔物や犯罪者を入れるのに使う頑丈なやつ……、あれを無理に小型化した粗悪品だ。かといって、僕に開けられる訳じゃない。空き時間に本を読むような子だったら開け方も分かりそうだが…………、僕は図書室の利用権が無かった。
(そういえば、教育区の情報紙にこんなのがあったけ)
『……………………
高温魔力により陣を炙る。魔法陣の歪みを捜索。歪みの激しい場所を貫く。単純な手順である。
(写真)(写真)(写真)
ヴーライ国防海軍少佐より提供
ハルタッシュ民熱烈歓迎!
聖歌隊に無条件降伏
……………………』
僕は結局絶望した。魔力に対し高温低温とは何を言っているんだ。魔力は魔力だ、属性ならまだしも…………。教育区で習ったのは本当に概念と位置操作だけだ。特に僕は才能がなかったし特別な努力もしなかった。いや、しかし――
(やってみるしかない!)
僕は錠前に意を決して魔力を流し込む。…………変化は無い。いいや、いいやまだ策はある。流す速度を変えてみる。揺らしてみる。ダメだ。物理的に摩擦で温めてみる。そもそもそんなに腕を動かす場所が無い。んぐぐぐと力を込めてみる。何も起きない。
「…………はぁ」
僕はうーんうーんと頭を捻った。そしてひらめく。もしかして陣を出現させるのは必須じゃないのでは? 手当たり次第にいつか歪みに当たるはず~、というのもまた作戦。可能性はある。というか、今の僕にこれ以外の道は無い。
ぱぱぱぱかんぱかんかんかんかんぱきみし…………!
「…………あれ? …………音、大きくないか?」
ぱんっ! ぱきゃ!! がん! ばりんっ!!
「mienmi, gunboitegroy lirf. maymay……?」4
やらかした、と思った。1日で何回馬鹿をしでかしてるんだ僕は。大きな音を立てながら割れて砕けた錠前。足音はどんどんとこちらに迫ってくる。僕はもうこれしかない、と檻から抜け出した。僕はこれから上手く4人をいなす必要がある。格闘知識なんてない。日頃の行いに賭けて僕は駆け出した。
「yimo! punyet!」4
(あ、駄目かもしれない)
扉を開けようとした瞬間、目に入ったのは赤黒く錆びた刃物だった。4人ではない、来たのは一人だ! ああ、ならいけるかもしれない。血迷ったように見えるかもしれないが、僕は足を止めなかった。そして、勢いの付いたまま相手のみぞおちに頭突きをした。
「…………! ! ……!!」4
「よしっ!」
相手は痛みで声も出ないようだった。刃物を取り落としその場にしゃがみ込む。偽警備へ頭突きしておいて良かった。そうじゃなきゃ咄嗟にこの行動は出来なかっただろう。僕は頭に衝撃を感じながらも左の窓へ向かった。そして《カーテン》を開けて――
「えっ! これじゃっ!」
衝撃を受けた。木の板が打ち付けられている。内側からも、外側からも。窓も板もびっしりと引っ掻かれている。僕は多分、生き残れない。その痕の上から窓を引っ掻いた。割れろ! 割れろ! もう後ろの男は起き上がっている。後戻りは、できない。
「hmm.」4
背後から男が僕の肩を掴む。そして、勢い良く刃物を振り上げた。
(…………怖い、怖いよ)
僕はぎゅっと目をつぶった。窓を引っ掻きながら、祈る。祈る。ただひたすらに。習ったことも無い言葉を使って。頌主! 頌主? ひたすらに主を頌する。
「…………funm. hiego.」2
「kei!」3
「kizune! schiki! vulameschia! releh」4
男は主導者らしき2番と3番に呼ばれて消えていく。手を離された僕は、ぺたりとその場に座り込んだ。5人、か…………。本当に勝ち目がない戦いだったんだな。…………戻ってきたら死ぬしかない。その恐怖が僕の体をそこに縫い付けた。その中から、どうにかこうにか気を盛り立てて、立ち上がろうとしたその瞬間――
がんっ! ばんっ! だったんっ!!
「保護区警備隊だ! 栄光へ服従せよ!」
窓を木の板ごと蹴破ったのは、僕と同じくらいの少女だった。運良く木の板が盾になり、硝子は飛んでこない。僕の頭上を不思議な形の円套をひらひらと掠った。腰まである梅鼠色の髪、肩までの横髪を口の高さでゆるりと縛っている。僕は驚いた。自分の上をすれすれで通って行ったのもそうだけど――
「「雲海」隊、「叢雲」隊、出撃。3班程度走らせろ」
(…………神官起源の髪型)
もしかしたら、神様の使いなんじゃないかしら…………、と思った。彼らの逃げた家を一通り見回した彼女は僕の方を振り返った。左にくるりと曲がった黒色の前髪が愛らしい。一呼吸おいて、彼女は僕に手を差し伸べた。
「大丈夫? 君を助けに来た」
僕がその手を掴んで窓辺から離れると、彼女は割れた窓の向こうに声を掛けた。
「ノエル! おいで!」
尖って突き出した木の板と硝子が綺麗に砕かれる。そして飛び込んで来たのは白群髪の少女だった。
「エレオノーア親衛隊魔導化歩兵中尉! 先行は先行は、と何度も申し上げましたのに……」
心配そうな表情でエレオノーアに詰め寄る。愛らしい声に対し随分しっかりした子だ。彼女だって僕と相違ない年に見えるのに…………。
「魔導化は単独で突撃する野蛮式だし、集団行動なんていーのいーの!」
「先行するならせめて追いついていただけないと庇いきれないです」
「攻撃魔法なら届いたー! 魔法禁止したのは偉い人だしぃ…………」
「それ使っちゃうと、捕縛どころか山が平地になって――
ノエルと呼ばれていた少女が突然こちらに振り返った。凛とした、黄色の目。内違いの二藍がきりっとした輪郭を引き立てていた。
「…………どうもすみません。今は一時的に彼女の補佐を務めてます。護国軍のノエル魔導化衛生少尉です」
「……忘れてた。私はエレオノーア親衛隊中尉。ほんの少し……? うっかりして今は監視役が付いてる」
「うーん、他の業務もあるのでちゃっちゃと済ませましょう」
「じゃっ、事情を聞くので同行お願いしまーす!」
階級を何度も弄ってますが、彼女たちは彼女たちなので気にしないでください。