9.カルセルにて
ノアールに手を引かれて歪んだ空間に足を踏み入れると、すぐに別の場所に出ていた。
リズはてっきり、空間転移をするなら、それなりになにか特殊な感覚を味わうと思っていたのだ。
妙な浮遊感に見舞われたり、リズが見たこともないような異界を経由して移動したりといった、いかにも空間転移っぽいなにかを味わうと思っていたのだ。
しかし現実にはそうでなく、単に一歩を踏み出しただけとなにも変わらぬ感覚で違う場所に転移していたのだ。
転移を終えたリズの目に入るのは、控えめな木々に城壁だ。
ノアールがリズの手を放した。
「着きましたよ」
あんまりにもあっさりしていて、リズはどうにも納得がいかなかった。
が、リズはどう考えてもさきほどまでとは違う場所にいる。
高度な幻術、という可能性もあるが、穿った見方をしなければ普通に転移していると考えるのが自然だろう。
リズはノアールに何か言おうと思ったが、自分の心中をうまく言葉にできなかった。
「ここ、本当にカルセルなのね?」
「おそらくは。リズ様の言った方向と規模が正しければ、ここが目的地だと思います」
確かに城壁がある。
城壁の高さからして、ここがどこかしらの都市なのは間違いない。
「とりあえず歩いてみましょうか。城壁まで行けばここがどこだか確認できるわ」
リズは人気のする方を目指した。
城壁伝いに進んでいくと次第に木々が減り、人の気配が確認できた。
結論から言えば、ここはカルセルだった。
城門付近には小さな市場が開かれて賑わっている。
リズが今までカルセルに来た時と同じ光景だった。
都市に入らなければ関税もかからないため、物によっては城門の外で売る商人も一定数いる。
そのため、城門の外に物売りが集まり、簡易の市場になっているのだ。
「やっぱりカルセルだわ」
「それは良かった。お役に立てましたね」
リズにもノアールの表情がだんだんとわかってきた。
今もほとんど変わらぬ表情をしているが、これは微笑んでいるのだ。
口の端がほんの僅かに持ち上がり、目の光も普段よりすこしだけ優しい印象を感じる。
礼を言うか褒めるかをするべきだと思ったのだが、リズはそんなノアールの顔を見ているとなんだか恥ずかしくなってしまい、結局なにも言わずに城門へと進んでしまった。
城門の外の市場は、果物などその場で食べられるものや、旅に必要な雑貨が中心だった。
リズとノアールは商人の呼び声を聞きながら城門へと進んだ。
リズは、城門までの道のりに都市に入る手順を必死に思い出していた。
いつもは従者任せで、リズ自身が都市に入る手続きをしたことは一度もない。
入場料の支払いの他になにかがあった気がするがそれが思い出せなかった。
従者はいったいなにをしていたのだったか。
城門の前には先客はいなかった。
いつもならば入場するまでに列ができていた記憶があったが、あれは祭り近い、人の多い時期だったからなのかもしれない。
通常であれば早く順番が来るのは好ましいが、今のリズには若干不運な気分になるものであった。
並びがあれば前の人の様子を見て備えられるのに。
城門の脇に立っていた兵士がリズの元に寄ってくる。
「滞在がご希望ですか?」
「ええ」
「ではふたりで八セリングと滞在先を」
リズは言われて思い出した。そうだ、滞在先だ。
ノアールに合図をして八セリングを受け取り兵士にわたす。
「滞在先は、ジャンティ・ウィルスタイン伯の元です」
それを聞いた兵士は怪訝な顔をする。
「ご親戚か何かで?」
「ええ、叔父にあたります」
リズは堂々とした態度を意識した。
疑う理由はわかる。今のリズとノアールの格好は、旅人にしか見えないだろう。
だが、別にウソをついているわけではない。下手な態度を見せたりしたら逆効果なはずだ。
「わかった、通っていいですよ」
「ありがとう」
城門を抜ける。
都市の中も、城門の近くはちょっとした市場になっていた。
叔父に会いに来るたびに見てきたカルセルの光景だった。
滞在先に叔父の名前を出してしまったが大丈夫だろうかとすこし不安になる。
叔父はリズからしたら立派で優しい印象しかないが、リズが闇使いだと知ってどういう反応をするだろうか。
リズは頭を振って嫌な想像を振り払った。
「どうかしましたか?」
「なんでもないわ、叔父のところに行きましょう」
***
叔父の屋敷にたどり着くまでに、リズはちょっと道に迷った。
ノアールにはそのことは言わないでおいた。
ノアールは街の様子に関心があるようだった。この世界に疎い、と言っていたが実際はどの程度疎いのだろうか。
お金の価値もわからなかった割に、意外なことを知っていたりして、ノアールの知識にはどうも偏りがあるようだった。
リズは迷いはしたが、そう時間もかからず叔父の家に到着した。
叔父の家は、カルセルの西側にある。
富裕層向けの治安がいい場所に位置する大きな屋敷だ。
リズは入り口の石段を上がって扉のノッカーを鳴らした。金属と金属がぶつかる音が響く。
幾分もしないうちに木製のしっかりとした扉が開かれた。
姿を現したのは、老紳士といった雰囲気の白髪の男性だった。
じいやだ。リズはその姿を認めて懐かしい気分に浸った。
リズの知らない使用人が出てきたらどうしようかと思っていたが、じいやが出てきてくれたなら話が早い。
じいやはリズの姿を見て目を見開き、それからようやく口を開いた。
「おお、リズ様ではないですか」
「こんにちはじいや、久しぶりね」
「事情は伺っております。ずいぶんと早いお着きですが、ご苦労なされましたね」
そういうじいやの視線は、リズの質素な服を見ていた。
「まあ、ね」
事情は伺っている、ということはどういった形にせよウィルスタイン家から叔父の元へは知らせが伝わっているわけだ。
「それでそちらの男性は――――」
じいやがノアールの姿を見て言った。
リズはなんと答えるべきか迷っていると、
「はじめまして、わたしはリズ様の使い魔のノアールと申します」
「なるほど、ではあなたもご一緒にどうぞ」
使い魔だったんだ、とリズの方が驚いた。
契約の形がわからない以上、使い魔かすらリズはわかっていなかったのだ。
ノアールの方からそう言ってくれたのはとても助かる。
叔父への説明などでノアールについてどう説明し、どう扱えばいいか明確な指針が持てるからだ。
あるいはノアールはそれを示すためにわざわざ口を出したのかもしれない。
リズに割り込んでじいやに話しかけるのは、どこかノアールらしくないように感じる。
リズに対してもそれを伝えるため、というのは十分ありそうに思えた。
じいやに案内されて屋敷の中へと進んだ。
案内されている最中、リズは気になったものがあった。
使用人の目だ。
じいやはいつもと変わらないように接してくれたが、一階のホールにいたメイドなどは、リズに対して明らかに不審な目を向けていた。
おそらくは伝わっているのだ。リズが不吉な闇使いであるということが。屋敷の全員に。
一階の左廊下を進み、客間へと案内される。
「すぐに旦那様を呼んでくるので、少々お待ち下さい」
じいやが部屋から出る。
リズが椅子に腰掛けると、ノアールは椅子に座らずその脇に立った。
ノアールを座らせるべきかは難しい問題だった。
使用人の態度としては完璧だが、座ってもらわないのはどこか申し訳ないような気もした。
「ノアール、使い魔なら別に座ってもいいかも」
「いえ、わたしがリズ様と並んで座ったら、主であるリズ様の品位が疑われるかもしれません」
叔父相手に、そこまでお堅い場にもならないと思うんだけどなぁとリズは考えたが、ノアールの望むようにさせようと思った。
叔父より前にメイドがお茶を出しに来た。
さきほどホールにいたメイドとは別であったが、このメイドからもリズに対して意識しているような視線を感じた。
ついでに言えば、ノアールに対しては若干の怯えと、それ以外の意味を持った視線も感じた。
なにせ、リズにお茶を出している途中、ノアールを見て固まっていたのだから。
叔父はいくらもしないうちに来た。
扉が開き、叔父が姿を現す。
父によく似ているが、どこか気の弱そうで優しい感じのする顔立ち。前に会った時に比べて、綺麗な赤毛に白髪が増えているように感じた。
「おお! リズ! よく来たね!」
リズは立ち上がり、気持ち程度にスカートを持ち上げて挨拶をした。
「叔父様、お久しぶりです。このような姿で申し訳ありません」
「いや、構わないよ、どうか楽にしてくれ」
「ありがとうございます」
叔父が座るのに合わせてリズも椅子に座った。
「さて、どこから話したものかな」
叔父がしばし黙考し、ノアールを見て、
「彼がリズの使い魔だね?」
「はい、ノアールです」
「ふむ、ずいぶん男前な使い魔だな」
それに関しては、リズは曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
「だいたいの事情は聞いているが、リズから話してもらえるかね? その格好といい、こちらが知っている話とはすこし違うところがありそうだ」
リズはどこから話すべきか考えた。
ここまで来て叔父を見ている限り、リズが闇使いだからといって態度を変えたりはしていないようだった。
叔父が継母や義姉に対してどのような感情を抱いているのか、リズは正確にはわかっていない。
それでも、良く思っていないということは、リズにもなんとなく伝わっていた。
リズは、一部を伏せてすべてを話すことに決めた。
託宣の儀で闇使いだと判定されたこと。
療養という名目で追い出されたこと。
移動の途中、獣使いの男に襲われたこと。
ノアールを呼び出したことでなんとか助かったこと。
獣使いをけしかけたのは継母と義姉ではないかと考えていること。
叔父は、リズの話を聞いてただ頷いていた。
「襲われた、か。その話は本当なんだね?」
「誓って」
「そうか、断定はできないが、わたしもオルールは怪しいと思う。あれは怖い女だからな」
叔父はそう言って、なにやら考えている様子だった。
手を組み、親指を交互に交差させてしばらくそれを見つめていた。
「わたしに伝わってきたのは、リズが託宣の儀で闇使いであると判定された。しばらくしたら療養と称してそちらに預けたい。詳細は追って知らせるということだけだ」
「すぐに送るとは聞いてないと?」
「まったく、だからじいからリズが来たと聞いたときには驚いたよ」
叔父は苦々しい顔をして、
「それに気になるのは、急使が帰ったあと、屋敷でリズが闇使いであると噂になっていたことだな。あれは急使がわざと漏らしたとしか思えん。ウィルスタインの醜聞を……」
叔父はそこで言葉を止めた。
「構いませんよ」
リズはとくに気にしていなかった。闇使いが負の象徴であるというのは事実だ。
叔父は大きくオホンと咳をして、
「失礼。とにかく、リズの悪い印象を広げようとしたとしか思えん。そこはわたしも気になっていた。リズの話を聞くに、オルールか、キュニエかはわからんが、よからぬことを画策しているのは間違いないだろう」
叔父がそう考えてくれていることに、リズは心底安心した。
叔父が信じてくれなかったら、それこそこれからどうすればいいかまったくわからなかったからだ。
「わたしの方でも調べてみよう。色々とはっきりするまではうちで過ごすといい」
「あの、それに関してはちょっと……」
「もちろん、彼も一緒で構わない。リズの使い魔だからな」
「いえ、そうじゃなくて……」
「違うのか?」
言い出すには、生命の危機に奮った勇気とは、また違った勇気が必要だった。
これだけ世話をしてくれると言っている相手にさらになにかを要求するのは、いくらなんでも甘えすぎな気がしたからだ。
しかし、これはリズだけの問題ではなく屋敷全体に関わる問題だ。
「できれば屋敷じゃなく、どこか別に滞在できる場所はないでしょうか?」
「なぜだね?」
「その、使用人は全員あたしが闇使いだと知っているのですよね?」
「おそらくは」
「それはあたしもこの屋敷に来た時から感じていました。だから……」
「そんな輩はわたしが黙らせよう。いや……」
叔父はそこで言葉をとめ、口ひげをもてあそんだ。
「屋敷のことも考えてくれているのか。まあ、それにそんな状態ではリズもくつろげないか。わかった。北地区だが、カルセルにちょうどいい家がある。落ち着くまではそこで過ごすといい。生活のことは面倒を見よう」
「わがまま言ってごめんなさい。でも、ありがとうございます」
継母からされた仕打ちの分だけ、叔父の気遣いが心にしみた。
リズは礼を言いながら、泣かないだけで精一杯だった。




