7.穏やかな朝食を
夢を、見ている。
夢の中では、あたしはあたしじゃない誰かだった。
不思議なことに、自分ではないのに、あたしは夢の中でどういった人物なのかを知っていた。
あたしは逃げてきたのだ。
この、別の世界に。
どうして逃げたのかは思い出せないのに、ここに逃げてきた、ということだけは知っていた。
真っ暗な闇の世界。
あたしは、そこに浮かんでいる。
ぬるま湯に浸かっているような感覚なのに、呼吸はできる。
生暖かい闇の中に、あたしは浮かんでいた。
どこまでも、どこまでも闇しかない広大な空間。
逃げてきたのは最後の手段で、ここではそう長く生きていられないのはわかっていた。
ひと月か、半月か、長くてもそれくらい。
けれど、夢の中のあたしは絶望なんてしていなかった。
むしろ楽しんでいた。
会話をしていたのだ。
闇と。
あたしを包む闇には、その世界には、意思があった。
夢の中のあたしは、最後の時をその闇と語らって過ごそうと決めていた。
頭に直接響く声にはどこか聞き覚えがあった。
つい最近、頻繁に聞いていたような――――
***
リズは目を覚ました。
何か夢を見ていた気がするのだが、内容を思い出すことはできなかった。
目を覚まして、最初に考えたことは、ここはどこ? だった。
狭い部屋、見ていると不安になるほど古びた天井、微かに埃っぽい空気に悲しいくらいぺしゃぺしゃの布団。
窓から入ってくる日の光で、今がもう朝だということがわかる。
そこでようやくリズの頭が回転しはじめ、事態を理解する。
宿屋だ。
「リズ様、お目覚めですか?」
リズはその声に飛び起きた。
身体を起こして声の方を見る。
すると、ノアールもちょうど立ち上がっているところだった。
昨日最後にノアールを見たとき、ノアールが座っていた壁際から。
「もしかして、一晩中そこにいたの?」
「ええ、よく眠っておいででしたよ」
ということは、ノアールは座りながら寝たのか。
あるいは眠りを必要としないのかもしれない。
それでも、リズはなんだか申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい、あたしずっと寝ちゃって」
「いえ、ゆっくり寝られたようでなによりです」
ノアールの表情は、昨日よりもいくぶんか柔らかいように見えた。
ノアールの正体は淫魔ではないかと訝しんだが、リズはそう考えた自分を恥じた。
リズは買ってもらった服のまま寝ていたが、それ以外に変わったところはなにもなく、疲れがだいぶ取れているのを感じた。
ベッドから足を投げ、靴を履こうとしたその時だった。
ぎゅるるるるるるる。
淑女のお腹からはしてはいけない音がした。
リズは夕方から朝まで寝ていたので、当然夕食は食べていない。
生理的な現象としてなにもおかしくはないのだが、恥ずかしいものは恥ずかしかった。
ノアールがリズを見てすこし驚いたような顔をしている。
これは、絶対に聞かれた。
冗談や軽口でも言ってくれれば気が紛れたかもしれないが、ノアールは見ているだけでなにも言わない。
恥ずかしさがすごかった。
なにか言おうか迷った挙げ句、リズはなにも言わないことに決めた。
なにもなかった、それで終わり。
靴を履き、立ち上がり、令嬢にふさわしい凛々しい顔つきを見せる。
その様は、質素な服を着ていながらもどことなく気品を漂わせていた。とてもお腹からぎゅるるるるなんて音を出しそうには見えない。
リズは、できるだけ気品を感じさせる声で言う。
「さあ、朝食に行きましょう」
***
おばさんに朝食を食べたい旨を伝えて、リズたちは食卓の席についた。
朝食は事前に用意せず、客が降りてきてから作る方式なようで、おばさんがキッチンで朝食を作る様子が見て取れた。
リズの対面にはノアールが座っている。こうして逃げ場のない場所で見つめられると、よくわからないが居心地が悪いような気がした。
「リズ様、今日はどのようにする予定ですか?」
「今日は旅の準備を整えるわ。叔父様のところに行く話しはしたっけ?」
「いいえ」
「まず叔父様のところに向かうことを目指すわ。叔父様がいるのはカルセルという都で、ここから歩きだとどれくらいかわからないけど、かなり遠いわ。あたしも旅のことはわからないけど、商人の馬車に便乗したりできるかもしれないし、他にもなにか方法はあるかもしれない。最悪歩きで進むことになるかも。だから、今日は情報収集と旅の準備」
「なるほど、わかりました」
ノアールの表情からは、リズの説明を聞いてどう考えているかは読み取れない。
そこでリズはふと思った。ノアールも朝ご飯を食べるのだろうか。
闇の眷属であるならば食事を必要とせず、大気中の魔力などを食事の代わりにしている可能性はある。
「思ったんだけど、ノアールってご飯を食べる必要はあるの?」
「ないと思いますよ。ただ興味はあります」
「興味?」
「はい、食事というのはおいしくて良いものだと伺っておりますので」
「一応食べることはできるのね?」
「はい、できると思います」
「そっか、じゃあ一緒に食べましょう。ノアールだけ食べてなかったら変に思われるだろうし」
しばらくして、おばさんが朝食を運んできた。
パン、目玉焼き、サラダ、ソーセージ、スープといった組み合わせだった。
リズはお腹こそ空いていたが、リズの身体には少々量が多い気がした。
「いただきます」
リズがスプーンを取ると、ノアールもスプーンを手に取った。
スープをすくって口元に運ぶ。ほのかな塩味が口の中に広がった。普段ならなんでもないスープに感じただろうが、一日近くなにも口にしていない身には天上の味に感じられた。
ノアールもスプーンでスープをすくうが、どこかぎこちない。まるで生まれて初めてスプーンを使ったようだった。たぶん、食べ方はリズを真似しているのだろう。
ノアールがスープを口にした。
意外なことが起こった。
ノアールの顔がパッと輝いたのだ。
ノアールが初めて見せた明確な感情。驚きと喜びが半々といった表情だ。その表情は気取ったところがまるでなく、どこか幼さを感じさせた。
ノアールは早くも二口目をすくい上げていた。よほどお気に召したらしい。
リズはそんなノアールを目にして妙な感覚を味わった。
正体不明の闇の眷属が、急に自分と同じ人間であるような気がしたのだ。
「どう? おいしい?」
「ええ、すごく良いです、これが『おいしい』なんですね」
ノアールの方が早くスープを飲み終えてしまった。
スープを飲み終わったノアールはリズをじっと見つめている。
そうじっと見つめられるとなんだか照れくさいが、たぶんこれは次にどうすべきかわからず待っているのだろう。
リズもスープを飲み終え、パンをちぎって口に運んだ。
ノアールはそれを見て、幼い子供が母親の真似をするように同じ動きでパンを口に運ぶ。
パンは正直言ってかなり硬かった。食べられるだけありがたいが、いくらなんでも硬すぎやしないか。
それでもノアールは気に入ったようだった。表情からそれがわかる。
食事は万事その調子で続いた。
リズが食べ、ノアールが真似をする。
リズは朝食を美味しそうに食べるノアールを見て、なんだか安心してしまった。
巨大な狼の影だと思っていたものが、陽の高さによって拡大されただけの子犬の影であるのがわかったような気持ちになっていた。
もちろんその印象はリズが勝手に抱いたものであり、油断が許されるものではないのかもしれない。それでも、ノアールといる時の緊張感はだいぶ緩和された。
ほとんどの食事を食べ終えてほっと一息。
リズはソーセージを数本残してしまった。
そもそもの量が多かったし、ソーセージの油はリズの空きっ腹にはすこし重かった。
そこで、リズはあることに気づく。
ノアールが残ったリズのソーセージをじっと見ているのだ。
それはもうめちゃくちゃ見ている。無言の催促なのか、それとも意図せずにそうなってしまっているのか。リズはなんとなく後者であるような気がした。
リズは、一応言ってみた。
「あたしもう食べられないから、良かったら食べる?」
「いいのですか!?」
びっくりするほど釣れた。
ノアールにしては、という修飾はつくが、その語尾ははっきりと上がっていた。
「どうぞ」
ノアールが喜んでソーセージを食べ始めた。
リズは子犬に餌でも与えているような気分になってしまう。
ノアールが喜んでいる。それがわかるのが驚きだった。
最初に感情を見せたのが食事、というのはなんとも格好がつかないものであったが、リズは感情を見せるノアールに悪い印象は抱かなかった。
ところで、リズは今すごい顔をしている。
そのことに、本人も気づいていない。
食べたもので口周りがべちゃべちゃ、とかそういった系統のものではない。それは違う。
リズの表情の問題だ。
令嬢にあるまじきニヤニヤ笑いをしているのだ。
たぶん、ノアールに対して主導権がとれた感触が嬉しいのだろう。
リズはソーセージを嬉しそうに食べるノアールを眺めながら、自分でも気づかずに、ずいぶんと気の抜けた感じのするニヤニヤ笑いを浮かべていた。