6.ベッドはひとつだけ
宿に入るとき、リズは鼓動が激しくなっているのを感じた。
緊張している。
なぜなら、リズは宿に泊まったことなどないのだから。
さらに言えば、自分で買い物をした経験すら数度しかない。
要するに、どうやって泊まればいいか、イマイチよくわかっていないのだった。
お金が足りるだろうことはわかる。馬はかなり高価なものだ。少なくとも叔父の元にたどり着くまでに路銀が不足することはないだろう。
リズが困っているのは、まさしくどうやって泊まるか、である。
そんなものは勉強したことがない。
もしかしたら旅人なら当たり前に知っていて、リズがまったく思いつかないような作法があるのかもしれない。
今のところ、リズはノアールに頼りっぱなしである。
リズの中にも、いい格好をしたいという気持ちがあった。
ここでなにかやらかして、その様をノアールに見られるのは絶対にイヤだった。
リズから宿屋に入り、ノアールが続く。
宿に入ると、いきなり食堂と居間を兼ねたような部屋だった。
リズが想像していた受付をするためのカウンターのような場所はなく、どちらかといえばいきなり民家に踏み込んでしまったような様子だ。
泊まりたいのですが、で行く。
泊まりたいのだからその意思を伝えるのは当たり前だ。
普通に考えれば、それで泊まれるかどうかの返事が返ってきて、そこから値段交渉が始まり、交渉が成立すれば宿泊できる、という手順が行われるはずだ。
なにかリズの想像すらできないような「当たり前」が存在していた場合はもう知らない。そのときはそのときだ。
部屋の右手、食事机の椅子に座り、編み物をしていた女性がリズの姿を認めて顔を上げた。
「あら、お客さんかい?」
女性はおばさんとおばあさんの中間くらいの年齢に見えた。どちらかと言えばおばさん、といったところだ。
おばさんはそれだけ言って、立ち上がったりはしなかった。
「あの、今晩泊まりたいのですが」
「いいよ、部屋は空いてるから」
「宿泊費はおいくらですか?」
「ふたりで泊まるだけなら四セリング、うちは朝食も出してるから、食事付きなら五セリングだよ」
うちは、と強調しているあたり、宿屋というものは普通食事は出ないのか、とリズは内心驚いた。
「じゃあ、朝食もお願いします」
「そいじゃ五シリングね」
リズはわざわざおばさんの近くまで行き、五シリング分の硬貨を手渡した。
おばさんは硬貨を受け取ってポケットにしまいこむ。
おばさんがようやく立ち上がり、リズとノアールをまじまじと見た。
「あらあらあら」
おばさんの表情が変わる。笑顔と驚きを半分半分にしたような顔。
「どうしました?」
「ご主人も奥さんも、ずいぶんキレイな方だと思ってねぇ!」
唐突に現れた「奥さん」という単語に、リズは思考停止に追い込まれた。
極限まで低下したリズの知能はおばさんの言葉を理解するまで何段階か手順を踏む必要があった。
奥さんって誰?
周囲を見回す。リズとノアール以外には誰もいない。
ノアールを見る。
女装させれば案外女に見えるかもしれないと、意味不明なことを考える。
それから、リズは消去法で自分が奥さんと呼ばれていることを認識した。
ご主人って誰?
再度、宿の中を確認する。
確認したばかりなのだ。一秒二秒で突然知らない男が床から生えてくるはずもなく、さきほどと同じくリズと、ノアールと、おばさんしか存在していない。
この中で、男に見えるのはノアールだけだ。
ご主人、奥さん、普通は結婚している男女の呼び方である。
リズの脳は、やっとおばさんが言っていることを理解した。
赤くなった、と思う。
「ち、違います! あたしたちは夫婦じゃありません!!」
おばさんはなんだか残念そうな顔をして、「おばさん」という生き物にしか許されない踏み込みをしてくる。
「あら、そうなの? お似合いだと思うんだけど」
「違います、えーと、この人はあたしの護衛で……」
「なんでもいいけどね。それじゃ部屋を案内するよ」
なんでもいい、でこれだけドギマギさせられたのか、とリズはなんだか納得が行かなかった。
ノアールの様子をうかがうと、いつも通り仮面のような表情があるだけで、そこに感情を読み取ることはできなかった。
狭い宿だった。三人で階段を上がると、階段の軋みが気になる。ずいぶんとくたびれた建物のように思えた。
階段を上がりきると細い廊下があり、左は窓、右には三室の部屋があった。
おばさんは廊下の一番奥まで進み、
「この部屋だよ。なにかあったら下か一番手前の部屋にいるから呼んでおくれ」
おばさんは、それだけ言って下へ戻ろうとした。
「あの、ノアールの部屋は?」
リズは、そう言ってノアールを指差す。
おばさんは何を言っているんだコイツは、という顔をした。
リズは、嫌な予感がした。
「もしかして、一緒の部屋ですか?」
「当たり前だろ、うちにはひと部屋しかないよ」
たぶん、リズの感覚がずれているのだ。
こういった村の宿の普通基準がどういったものかわからないが、これが普通なのだろう。
リズはノアールを見る。どう見ても人間の男にしか見えない。
ノアールはリズの視線を受けて「なにか御用ですか?」と言いたげに首をかすかに傾げた。
「じゃあなにかあったら呼んで。ごゆっくり」
それだけ言い残して、おばさんは颯爽と立ち去ってしまった。
まさしくなにかあっている最中だと思うのだが、おばさんを呼び戻したところで部屋が増えたりしないのはリズにもわかる。
観念して、リズは部屋の扉を開けた。
くたびれた扉は、動かされた文句を言うかのようにキィと軋んだ音を立てた。
リズは部屋に入る。
まさか、これ以上さらにリズを追い込むものがあるとは思いもしなかった。
部屋が小さい。それはいい。
調度品がほぼない。それもいい。
部屋は想像以上に古臭く、寝られる以上の機能は何も備えていないように見えた。
リズも休めれば文句を言うつもりはなかった。野宿など想像するのも恐ろしい。屋根のある場所で寝られれば上等である。
しかし、譲れない部分が一か所だけあった。
ベッドがひとつ、である。
リズとノアール、人数はふたりである。
リズはもう一度部屋を見直す。
長椅子すらもない。
あるのは小さな机と、小さな棚と、ベッドがひとつである。
リズは頭を抱えた。
そのままベッドまで進んで座り込む。
ノアールがリズに近づいて来てしゃがみこんだ。
そしてリズの足に手を伸ばす。
リズはドキッとしたが、ノアールの口から出たのはこんな言葉だった。
「お履物をお脱ぎください」
「え、ああ、ありがとう……」
靴を脱ぐのを手伝ってくれるというのだ。
リズは足を上げ、ノアールが手際よく脱がせてくれた。
「リズ様はすこしお休みください。疲れているのがわかります」
「けど……」
けど、なんだろう。リズはそれ以上何か言う言葉を思いつかなかった。
ひとまず今晩の宿を確保できたのだ。夕食はあとでおばさんに聞けばよい。
緊張が途切れたせいか、疲れがどっと押し寄せてきた。
身体が鉛のように重く、身体を縦にしているのを辛く感じた。軽い頭痛もある。
休め、といったノアールの表情はどこまでも澄んでいて、なんの邪気も感じられなかった。
リズは、ノアールの言う通りにしようと思った。
「わかった、やすむ」
「ええ、それがいいでしょう」
ノアールがリズから離れ、壁際に座った。
「わたしはここで見張っています」
リズはベッドに足を乗せて仰向けになった。
寝巻き、と思ったが、そんなものはないことを思い出した。やはり疲れている。
リズは、今まで使ったことのないようなぺしゃぺしゃの布団を身体にかける。
天井の古びた木造りが目に入る。天井のしみを見ていると、なんだか意識がぼやけてきた。
狼に襲われたのが、数時間前の出来事だとは思えなかった。
しばらく前に命の危機に陥った現実感がまるでなかった。
リズは寝返りをうってノアールの方を見た。
相も変わらず綺麗な顔をしている。
――――あたしが今生きているのは、こいつのおかげなのか。
意識が、ぼやける。
ノアールがリズを見ている。その表情に何かを感じたのだが、リズはそれを言葉にすることができない。
ねむい。
未だかつてない疲労が、リズの意識を黒く染めていく。
リズはそれ以上意識をつなぎとめることができず、そのまま――――