4.魔法を少々
狼の亡骸を埋めるところから始めた。
リズを襲った狼ではあるが、それがどこまで自分の意思だったかはわからない。
リズは狼の亡骸を改めて目にし、理屈ではなく弔うべきだと思ったのだ。
ノアールに頼んだら、魔法で土を掘り、すぐに狼の遺体を埋めてくれた。
リズは狼を埋めた場所に墓代わりの石を置き、聖書の中から動物にも使えそうな聖句を思い出し、ひざまずいて短く祈りを捧げた。
――――どうか、あなたの行く末に暖かな食事がありますように。
リズが立ち上がると、ノアールが口を開いた。
「なぜわたしが呼ばれたのか、どういう事態か、できれば詳しく教えてもらえますか?」
どう話すかは難しい問題であった。ノアールをどこまで信頼していいかわからないからだ。
それでも、リズが悩んだ時間は五秒にも満たなかった。
何事も前向きに考えるのがリズの方針だ。
ひとまずノアールを信用する。
そもそも、襲われたときにノアールが来なかったら、リズの命はなかった。
ただでさえ考えるべきことは山ほどある。ここでノアールについてまで考えていたらリズの頭が持たない。
「えーと、どこから話そうかな」
リズは全体像をかいつまんで話した。
家のこと、継母と義姉のこと、おそらくは暗殺されかかったこと。
それを聞いたノアールは頷き、
「わかりました。わたしはリズ様をお守りすればよろしいのですね?」
「ええ、お願いするわ」
そうなると、これからどうするか、が問題だ。
帰る、という選択肢は最初から外している。
馬車がどこかに行ってしまったし、そもそも今継母と義姉の元に帰るなど自殺行為だ。
家に戻ってリズがどれだけ訴えようと偶然野盗に襲われたことにされるだろうし、その後の安全は保証されない。
不安ではあるが、できるかどうかわからないが、当初の予定通り、叔父の元を自力で目指すのが最善であるように思える。
叔父はカルセルという都市の子爵であり、立派な人物だ。事情を話せば助けてくれるはずだ。
状況を確認しよう。
リズは今、森の中の街道にいる。
森の中の街道ということで、獣道を突っ切るような状態ではない。が、開けた平野よりも危険には違いない。
緑の良い香りに小鳥のさえずり、平時であればこの状況を楽しめたかもしれないが、今はそれを楽しむ余裕はなかった。
懐中時計で確認すると、時刻は正午になったばかりだった。まだ夜に近くないのは救いだった。
次の村までの距離がそれほど離れていない、というのは良い要素ではある。
街道の森にまで来ているのならば、歩きで行くのも難しい距離ではない。
今思う一番の問題は、手持ちだった。
要するに金が無い。
叔父のいるところまで行くには、それなりの旅をすることになる。
リズに今あるのは、服といくらかの装飾品だけだ。
近くの村でこれらが換金できるかはかなり怪しいし、仮に換金できたとしても、十分な路銀になるかわからない。
おまけに当然ではあるが、リズはひとりで旅をしたことなど一度たりともない。わからないことが多すぎる。
今のリズにとって明確な武器となるのは、ノアールと名乗った闇の眷属だけだった。
「ねえ、あなたはなにができるの?」
「できればノアール、とお呼びください」
ノアールは質問に答えるのではなくそう言った。
どうやら契約上絶対服従、というわけではないらしい。
リズは改めて言い直した。
「ノアール、あなたはなにができるの?」
リズは違和感を覚えた。ノアールは相変わらず感情を感じさせない無表情で、その顔は作り物ではないかと思わせるほど整っている。
しかし、リズはなぜだかノアールが嬉しそうにしていると感じたのだ。なぜそう感じたのかは自分の中でも説明できず、リズは不思議に思った。
「魔法が少々、といったところですね」
「他になにか役立ちそうなことは?」
「申し訳ありません、わたしはこの世界に関して疎いので」
だめだこれは。
慇懃な態度に飛び抜けた容姿から、あるいは軍師のように明晰で素晴らしい案を出してくれるかと期待したが、その期待は即座に打ち砕かれた。
この世界についてあまりわからないのであれば、筋肉モリモリなだけのボディーガードとあまり変わらない。
やはり、リズがこれからどうするか考えなければならない。
お金、お金、お金をなんとかしなければならない。
まさか突然こんな悩みが発生するとは思わなかった。
お金を手に入れる方法とは何か。労働か物を売るかだろう。そうなると必然的に後者になる。
働いてお金を稼ぐ、では時間がかかりすぎるし、リズがそれをできるかもわからない。
売るもの、今身につけているもの以外でなにか売れるものはないか。
リズは考え、考え、考え――――
馬だ。
リズはここまで馬車に乗ってきた。
馬は狼に怯えて走り去ってしまったが、そう遠くまでは行っていないはずだ。
馬車を引きながら馬が逃げ続けるとは思えない。探せば見つかるはずだ。
「決まったわ、行きましょう」
「なにが決まったのですか?」
「これからの方針、あな……ノワールにもやってもらうことがあるわ」
「わたしにできることでしたらなんなりと」
ノアールにできるかはわからないが、リズがやるよりはマシだ。
無事馬を見つけ村に着いたら、ノアールには馬を売る役をやってもらうのだ。
***
馬車は、意外なほど簡単に見つかった。
街道をしばらく進んだところで、止まっていたのだ。
リズは馬から馬車を外す方法がわからず多少難儀したが、それでもなんとか外すことができた。
あとは馬を引いて村を目指すだけであった。鞍がないので乗れはしなかったが、馬の扱いにリズの乗馬経験は活きた。
嗜みとしてやっていた乗馬であったが、まさかこんなところで役立つとは思わなかった。
ノアールとの道中は、なんだか気まずかった。
リズはこれからの方針と、ノアールに馬を売る役割をやってほしいことを説明した。
ノアールはそれを快く引受け、そこで会話が途切れてしまった。
ノアールは寡黙であったし、リズは何を話せばいいのかわからなかった。
夜魔と何を話せばいいのかわからなかったし、同年代に見える男と何を話せばいいのかはもっとわからなかった。
村は明るいうちに見えてきた。
馬も見つかり、村へも無事到着し、リズはなんだか元気が出てきた。
何もかも最悪の目が出ているわけではないのだ。
村が見えている位置で、リズは立ち止まった。
「馬の扱いは大丈夫?」
「大丈夫だと思いますよ」
リズがノアールに手綱を渡す。
ノアールに手綱を渡しても、馬は大人しかった。誰かはわからないが、この馬を訓練した人に感謝しなければならない。
ノアールが歩き出そうとしたところで、リズが止めた。
「待って」
「なんですか?」
「その格好、なんとかなったりしない?」
「なんとか、とは?」
「えーと、その、もうちょっと旅人っぽく、というか」
リズが行かないでノアールに頼む理由はふたつある。
ひとつはリズが若い女であるから。もうひとつはリズの格好が汚れているからだ。スカートなんか悲しいくらい土まみれである。
この格好で馬を売ろうとすればどうなるか。
貴族の令嬢然とした少女が、なにかあったに違いない汚れた状態で、どうか馬を買ってくれませんかと来たらどうなるか。
リズは商売のことなどまったくわからないが、リズが買い手だったならばできる限り買い叩くだろう。だって、どう見ても金が急ぎで必要そうに見えるのだから。
そういった説明は道中でノアールにしてあった。
だからこそ売り手はノアールなのだが、ノアールの格好も問題がある。
燕尾服である。リズの素直な感想で言えばこの上なく似合っているのだが、こういった場面で馬を売りにいくのに適切な格好とはいえない。
「ふむ」
ノアールがそう言うと、服が不自然にぼやけた。
するといつの間にかノアールの服装が変わっていた。
地味なダブレットにズボン。いかにも農民風である。
リズは内心驚いていたが、それは顔に出さないように努力した。もしかしたらできるかも、と思って提案してみたがこれほど容易くやってみせるとは思わなかった。
衣服を作り変えたのか、それとも幻術の類かはわからないが、どちらにせよこれだけの精度を一息でやるなどとてつもない魔法だ。
魔法が少々、の少々はまったく少々ではなかった。ノアールはリズの想像しているよりもずっと力のある夜魔なのかもしれない。
「これでいかがですか?」
「うーん……」
確かに村人に見える、少なくとも服装は。
しかし、ノアールが着ているとなんだか村人という感じがしない。どこかの王族貴族が遊びで村人風の服を着ているように見えてしまう。
リズはなんだかムカつく、という実に理不尽な感想を抱いていた。
「旅人っぽく、外套があったりするといいかも?」
「なるほど」
ノアールがすぐさま外套を出現させた。
多少埃っぽくいかにも使い古し、という雰囲気の外套だ。
これなら旅人に見えなくもない。
「どうです?」
「まあ、完璧」
これ以上注文はつけようがなかった。
あとはノアールがうまくやってくれるのを祈るだけだ。
「では行ってきますね」
「お願い」
正直、かなり不安ではあった。
魔法を少々、は少々ではなさそうだったが、この世界に関して疎いので、は本当に疎かったのだ。
なにせリズは貨幣の価値から説明しなければならなかったのだから。
たぶん、子供の初めてのお使いを見守る母親ってこんな気分なんだろうな。
そんなことを考えながら、リズは馬を引き村に向かうノアールを見送った。