3.契約内容の確認はできません
すべてが時を止めたような時間は、そう長くは続かなかった。
夜魔が頭を上げたと同時に、すべての時は動き出した。
リズの位置は、成り行きを見届けるには特等席と言えた。
最速で動いたのは獣使いの男であった。正体不明の驚異に対して即座に狼をけしかけたその反応はプロのものに違いない。
リズの前で、夜魔の姿が翻る。
リズに背を向ける瞬間、夜魔の瞳がどこか惜しむような色を見せたのは気のせいだろうか。
狼が獣使いの指示によって、夜魔に襲いかかろうとした。
不思議なことが起こった。
夜魔が狼を指さしたのだ。
それだけで、リズには理解できない事象が起こった。
リズの目からは、飛びかかろうと四肢で地を蹴ろうとした狼が、痙攣をしたように見えた。
狼は地を蹴るには蹴ったが、力の方向がまったく制御できていなかった。
狼は妙な跳び方で夜魔の横をすり抜けて地に落ち、そのまま横滑りになって土煙を立て、リズの横で動きを止めた。
狼は、それきりピクリとも動かなかった。
目に光がなく、舌をだらりと垂らしたまま、横たわって動かない。
生きているようには、とても見えなかった。
獣使いの男は、見てわかるほど腰が引けていた。
事態を理解できず、恐怖だけが広がり、どう動けばいいのかまったくわからずにいる。リズの目からはそのように見えた。
夜魔の右手が、ゆっくりと動くのが見えた。
リズの背筋に冷たい何かが走るような感覚。
動かなくなった狼が脳裏をよぎる。
夜魔の指が、次は獣使いの男を指そうとしている。
「やめて!!!!」
反射的な叫びだった。
リズは獣使いが自分に何をしようとしたかなど考えず、夜魔が言うことをきくかどうかも考えず、感情をそのまま吐き出すように叫んだ。
意外なことに、夜魔はリズの声にぴたりと動きを止めた。
獣使いの反応は早かった。
リズが止めたのを見るやいなや、即座に踵を返して全力疾走で逃げ出し、迷いなく獣道へと突っ込んだ。
髭面の太った男がなんの恥じらいもなく全力で逃げ出す様は滑稽だったかもしれないが、リズは不思議と感心した。
よく劇で目にするように、悪党が「ひえええ」などと言いながら逃げ出すのを想像していた。が、現実はそんなことなく、生きながらえることのみに全力を尽くし、意味のない声をあげたりはしないようだった。
獣使いの姿は、すぐに見えなくなった。
リズは、それを確認して立とうとして、
「あれ……?」
急に、力が入らなくなったのだ。
極度の緊張が解けたためか、意に反してリズはその場にへたり込んでしまった。
夜魔が振り返り、地面に座り込むリズに手を差し出した。
「お怪我はありませんか?」
夜魔がリズを覗き込むように見ている。
その顔は、相も変わらず反則的だった。
さきほど目にした美丈夫は、リズがパニックに陥っていたからこその美化ではないかと思っていたのだ。
自分の危機を救う可能性がある者を、必要以上に評価してしまったのかと。
夜魔の容姿は、それくらい現実感がないように見えた。
しかし、そんな考えを打ち砕くように、夜魔の姿は変わらずに見えた。
誰かの空想から飛び出してきたのではないかと疑わずにはいられない姿だ。
リズは自分で立ち上がろうとしたが、悔しいことに足に力が入らなかった。
仕方なく、リズは夜魔の手をとった。手袋越しに低めの体温が伝わってくる。
意外なほど強い力で引き上げられ、リズはなんとか立ち上がることができた。
「どうやらお怪我はないようですね」
夜魔はそう言ってうっすらと笑ったように見えた。
リズはどうすべきか迷ったが、どんな相手にも礼儀は尽くすべきだと思った。
「……ありがと」
夜魔の手を放す。
「いえ、これこそがわたしの望みですから」
見た目に騙されてはだめだ、とリズは自分を律する。
どんなに見た目が良くても、紳士的な対応をされても、相手は夜魔なのだ。
人間の、それも男にしか見えないが、おそらくは闇の眷属で間違いないはずだ。
そうなると油断はできない。本当に危険な者は、それと同じくらい優雅な仮面をつけているはずなのだから。
「申し遅れました。わたしはノアールと申します。以後、そのようにお呼びください」
以後、と夜魔は言った。
リズには、考えなければいけないことがあった。
それはノアールと名乗ったこの夜魔とどのような契約を結んでいるのか、である。
召喚には対価が必要だ。
それは魔力であったり、生命力であったり、あるいはもっと恐ろしいもの――――魂だったりする。
契約の方式に対しても、一時的に力を借りるのか、使い魔としての使役なのかと分かれる。もちろん後者の方が対価は重くなる。
ノアールと名乗ったこの夜魔は、以後、といったのだ。つまり、リズを襲った賊を撃退してはいさよなら、というわけではないということだ。
そうなると、リズは対価もわからずノアールを使役することになるわけだ。
呼んだのだから契約の内容くらいわかるのではないか、と思うかもしれないが、わからないのだ。
なにせ正規の手順で呼んでいない。
リズは書物でしか学んでいない精霊召喚の基礎的な入りを応用して「なんとかなれ!」の精神で実行しただけである。
本人に聞いちゃえば? と思うかもしれないがそれもよくない。
見た目はどう見ても人間の美青年にしか見えないかもしれないが、ノアールは人間ではないのだ。
その正体がなんであれ、リズの資質で呼び出した以上は、闇に属する何者かなのは間違いない。
その証拠に、今もリズの近くには、笑えない大きさの狼の亡骸が横たわっている。
想像してほしい。詐欺師に対して「あたし、どのような契約をしてるのかしら?」と尋ねるところを。
付け込まれるに決まっていた。
どう契約したのかバレるとヤバいし、バレなかったとしても対価が恐ろしい。
継母の暗殺未遂を凌いだのはいいが、リズには別のピンチが訪れていた。
「あの、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
ノアールの澄んだ声にリズは我に返った。
リズは、反射的に答えた。
「あたしはエリザベート・ウィルスタイン。リズでいいわ」
ノアールはリズを見つめる。その顔は無表情なのに、どこか笑っているような、喜んでいるような印象を受けた。
「リズ」
ノアールが発音を確かめるようにそう言った。
リズはそれを聞いて、顔が熱くなるのを感じた。自分でも信じられなかった。
自慢ではないが、リズは箱入り娘である。良い家の、成人前の令嬢といえば、同年代の男性への免疫は皆無と言っていい。
そんなリズが、いきなり同年代(に見える)男から呼び捨てにされるとどうなるのか。
リズは必死に顔を背けた。耳が赤くなっているのを見られるかもしれないが、真正面から見られるよりはマシだ。
「呼び捨てじゃなくて、様くらいつけてくれる? あたしが呼んだんだから」
自分でもどうかと思ったが、呼び捨てにされ続けたら恥ずかしくて死ぬ気がした。多少無礼であろうと命には代えられない。
リズとは対照的な落ち着いた声でノアールは答えた。
「わかりました、リズ様」
リズは、ノアールが素直に従ってくれたことに安堵した。
それでもやっぱり、なんだかすこし恥ずかしかったのだけれど。




