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27.残されていない時間


 聞き間違いかと思った。


 リズは、頭の中に浮かんだ疑問を、そのまま口にしていた。


「契約、していない……?」


 家の、暖炉の前で、ふたりは話している。

 暖炉に火は灯っていない。

 窓から入り込む太陽の光だけがふたりを照らしていた。


 リズは、混乱し、動揺していた。その顔に浮かぶのは、混乱しきった十七歳の少女のそれだ。

 それに比べノアールは、リズとは対照的に穏やかな表情を浮かべていた。


「はい、わたしとリズ様はなんら魔術的な契約をしておりません。ですから、わたしのことは気にしなくても大丈夫です」


 意味が、わからなすぎた。

 ノアールはリズが呼び出したのだ。

 リズが襲われた時に、苦し紛れに、めちゃくちゃな手順で。

 めちゃくちゃな手順だろうと、リズが自分を助けてくれるなにかを呼び出そうとして、そこに現れたのがノアールだ。

 だから、そんな事はあり得ない。

 なんの契約も結んでいないなど、あり得ないはずだ。


 なぜノアールがそんなことを言うのか。リズは考える必要があった。

 真実であるという可能性は排除する。ノアールはリズの呼び出した使い魔のはずだ。本人がそう言っていた時だってあった。

 ノアールは、リズと契約をしているのに、それを偽っていると考える方が遥かに自然だ。

 では、なぜそのような嘘をつく必要があるのか。

 リズは、自分の考え出した可能性に自分で怒りを覚えた。

 

 リズが思いつく、ノアールが嘘をつく理由はポジティブなものとネガティブなもの、二通りが考えられた。

 ひとつは、ノアールが犠牲になろうとしている可能性だ。ノアールは、リズの悩みが解決することを願っている。なぜそうまでしてくれるかはわからないが、その方向で考えるならば、ノアールは自分は消えないと偽って、リズに永竜の真核を使わせようとしているのだ。


 もうひとつ考えられるのは、契約の内容が、ノアールにとって極めて不利益なものであるという考え方だ。リズの言うことをなんでもきくのも、伝説上の秘宝まで持ち出してリズを精霊使いにしようとするのも、契約を破棄させるためという線だ。

 リズはノアールをめちゃくちゃな手順で呼び出した。そして、ノアールはどう考えても普通の使い魔ではない。大霊を打倒し、竜にすら打ち勝つなど、あってはならないことだ。

 リズは、めちゃくちゃな召喚手順で奇跡を起こした。通常ならば使役などあり得ない次元の存在を支配下に置くことに成功した。

 ノアールはその契約を、手段を選ばずに破棄させようとしているのだ。


 どちらもただの可能性であり、リズの思いつきだったが、リズはそのどちらかが真であると本気で信じた。

 リズは完全に頭に血が上っていた。

 そのふたつの可能性が示すのは、どちらもノアールが自分の側にいることを拒絶しているからだ。


 リズは、これからもノアールと一緒にいたいと考えたのだ。

 だから、断ろうと決めた。

 それなのに、ノアールはリズに願いを叶えさせ、自分から離れていこうとしている。

 許せなかった。リズは自分の決意がすべて独りよがりだった気がした。自分が世界で一番頭が悪い気がした。


「リズ様? 聞いていますか」


 聞いていない。

 リズは、その場で泣き出さないだけで精一杯だった。

 勝手に信じて、勝手に裏切られた気がした。

 今すぐこの場を離れて、ベッドにうずくまって大声で叫びたかった。


 ノアールの口調は、まるで聖人のような安らかさに満ちていた。


「わたしのことを考えてくれているのは、本当に幸せに思います。しかし、わたしのことはもう気にしなくてもいいのです。わたしはもうすぐ……」


 その言葉は、「わたしはもうすぐこの世界から消えるのですから」と続くはずだった。


 しかし、それがノアールの口から発せられることはなかった。

 

 リズの怒声がノアールの声をかき消したからだ。


「絶対に嫌!!!!」


 リズがノアールに向かって叫んだ。


「あたしは絶対にそんなの使わないから!!!!」


 リズはそのまま身を翻し、大股で足早に階段を目指した。


「リズ様! 待ってください!!」


 ノアールの声を背中に聞いても、リズは待たなかった。

 階段を二段飛ばしで上り、自室の扉を開け、追いかけてくるノアールの姿を見て、


「入って来ないで!!!!」


 そう叫んで、扉をものすごい勢いで閉めた。


 リズはそのまま扉に背を預ける。

 扉に背中をつけたまま、ずるずると滑るように腰を降ろした。

 リズはそっと膝を抱える。


 それきり、リズは動かない。


 ノアールは無理に入ってくるようなことはしなかった。


 ノアールは、またリズの言いつけを守った。



***


 

 涙が乾き切ってから、リズは立ち上がった。

 のろのろと、幽鬼のような足取りでベッドに向かい、そのままベッドに倒れ込んだ。


 枕に顔を埋めて動かない。

 リズは、後悔していた。

 ノアールの前で子供っぽく怒ってしまったことを。


 リズにはリズの考えがあるように、ノアールにはノアールの考えがあるのだ。

 それが、リズにとって望まぬものであろうとも。


 ノアールがなんでも言うことをきいてくれるので、いつの間にか自分の方が上だと考えてしまうのかもしれない。

 リズは、自分のことしか考えていなかった。

 本当にその人のことが好きならば、その人のことを第一に考えるべきなのだ。

 どんな形にせよ、ノアールがリズの前から去りたいと本当に望んでいるならば、それを叶えるべきなのかもしれない。

 

 ノアールのことを考えるならば、リズは永竜の真核を使って、精霊使いになるべきなのだろう。

 それがノアールの望みだ。


 その結果は、リズにとっても悪いものではない。

 忌み嫌われる闇使いではなく、尊敬されるべき精霊使いになれるのだ。

 父や家の誇りを傷つけることなく、亡き母の希望を叶え、リズの夢だって実現するのだ。


 ノアールは、もともといなかったのだ。

 なにかの間違いで、なにかの偶然で、たまたまリズの元に現れただけなのだ。

 だから、これはただ幸運として受け入れるべきなのだと思う。


 リズはベッドから起き上がる。

 もう黄昏時だった。部屋に入ってくるのは夕焼けの光だ。

 

 リズは自分がどんな顔をしているのか気になって、姿見の前に立った。

 姿見には、ひどい顔をしたリズが映っていた。


 一度だけ、深呼吸をした。

 頭を切り替えなければと思う。

 姿見に映るリズの姿は、それだけで幾分マシになったように見えた。


 話だけは、聞こうと思う。

 ノアールの望む通りにする。それは決めた。

 

 ただ、話だけは聞きたいのだ。本当のことを。

 それがノアール自身が犠牲になるという話であろうと、契約を破棄させるための手段だろうと、あるいはそれ以外のなにかであろうと、真実が知りたかった。

 ノアールがなぜ自分のためにそこまでしているのか、それを聞いてからリズは精霊使いになろうと思った。


 今後の人生のためにも、すべてを受け入れて、それを抱えて前に進むべきだとリズは決意した。


 足取りに力が戻る。

 部屋のドアの前まで進んで、ノブを回す。

 ドアを開き、身体を廊下に出してドアを閉める。


 階段の上から一階の様子をうかがうが、一階にノアールはいなそうだった。

 踵を返し、廊下の一番手前、ノアールの部屋の前に立つ。


 コンコンコン。


 しばらく待つが、中から返事はない。


 コンコンコン。

 再びノックをして、


「ノアール、さっきはごめんね。ちょっと話がしたいの」


 それだけ言うが、中から返事はない。

 もしかしたら、家にはいないのかもしれない。

 さきほどのリズの態度に愛想を尽かして、家を出ているのだろうか。


 それとも、朝のように寝ているのかもしれない。

 一応、部屋の中を確かめようと、リズは扉を開けた。


 部屋に、ノアールは、いた。


 寝ているようには見えない。


 ベッドがある部屋で、わざわざそんな寝方をするものはいない。

 なぜなら、ノアールは部屋の中央で、うつ伏せになって倒れていたのだから。

 まるで、ベッドに向かおうとしたが、そのまま力尽きて倒れてしまったかのようだった。


 リズは、背筋が冷たくなった。


「ノアール!? どうしたの!? ノアール!!」


 返事は、ない。


 リズはノアールに駆け寄ってしゃがみこんだ。

 肩に手を当てて、ノアールを揺さぶりながら叫ぶ。


「ノアール!! ねえ嘘でしょ!? ノアール!!!!!!」


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