26.崩れ去った前提
リズは心ここにあらず、といった足取りで街を歩いていた。
どこをどう歩いたかもあまり覚えていない。
近くにある料理屋で空いていそうな店に入って適当な注文をした。
料理は、味がしなかったような気がした。
勘定を済ませ、店を出る。
道中を歩いている人を見て、急にそれが羨ましくなった。
彼らはなんの悩みもなく、選択を迫られることなく生きているように見えた。
そんなはずはないのに。
誰しも悩みがあって、選択を重ねた結果として今があるというのに。
リズもそれはわかっていたが、直感的にそう捉えることができなくなっていた。
自分が、世界で一番悩んでいる人間であるような気がした。
リズは歩きながら考える。
部屋でじっと考えるよりも、外を歩きながら考えた方が、考えがまとまる気がしたのだ。
それに、答えも出さずにノアールと顔を合わせたくないというのもあった。
答えを出しておかなければならないことはふたつ。
自分の夢についてと、ノアールについてだ。
自分はずっと精霊使いになりたかった。精霊使いを夢に見ていた。
本当にそうだろうか。
一番古い記憶は、今は亡き母親との記憶だ。
リズは、母親にこう告げたのだ。
――――おとうさまみたいなせいれいつかいになりたい!
幼い記憶に残る場面。それを聞いた母親は、リズが今までに見たことのない嬉しそうな顔をしていた。
魔法の勉強をすれば、母は喜んでくれた。
父も、喜んでくれていたと思う。
母が亡くなったあとは、母が望んでいた夢を追っていたような気がする。
それに、継母と義姉からの防衛策でもあった。
リズが優秀さを見せていれば、その部分に関してはなにかを言われることはなかったのだから。
リズは料理屋からの帰り道を歩く。
本当に家までたどり着けるのか怪しい足取りで。
冷静な視点で自己分析をすれば、色々なものが見えてくる。
精霊使いになったあとのことを、実はあまり考えていないのだ。
なにも考えていないというわけではない。
だが、考えているのは自分にとって都合のいい部分だけだ。
優秀な精霊使いになって、父や家の誇りとなり、亡き母がリズに望んでいた夢を叶える。
優秀な精霊使いになれば、たくさんの人を助けられる。
考えていたのは、そんな都合のいい妄想だけだ。
一面の真実を捉えた妄想ではある。
父や家は喜び、母もきっと喜んでくれるだろう。
たくさんの人を助けられるだろう。
ただ、それはなにかの犠牲に成り立つものだ。
父は、優秀な精霊使いとして王家から絶大な信頼を得ている。
では、精霊使いとはいったいなにをするのか。
それは、戦争屋だ。
力ある魔法使いの仕事など決まっていた。
リズは、精霊使いになったあとの具体的な仕事からは目を逸らしていた。
父のような立派な精霊使いになると言いつつも、その内容からは目を逸らしていたのだ。
たくさんの人を助けられる。間違いではない。
リズたちが属する陣営の人間をたくさん助けられるだろう。
別のなにかを精霊使いの力で打ち倒すことによって。
リズは、そんなことがしたいわけではなかった。
リズが、なりたかったのは精霊使いではない。
リズは、親しい人間に、その価値を認めてほしかっただけなのだろう。
両親がパン屋を営んでいたとしたら、きっとリズは一流のパン職人になりたいと願っていただろう。
両親が医者だったとしたら、リズはきっと立派な医者になりたいと願っていただろう。
それが、たまたま精霊使いだったというだけだ。
そんな願いを秘宝を使ってまで叶えるのは、それを手に入れてきたノアールが望んだとしても違う気がした。
道に置いてある看板にぶつかって、リズは「すいません……」と看板に謝った。
そのまま自分がぶつかったのは看板だと気づかないまま、リズは看板を横によけて歩き続ける。
それに、ノアールだ。
もし、リズが本当に精霊使いになって闇使いではなくなったら、ノアールは元いた世界に帰ってしまうだろう。
それは、嫌だった。
ずっと認めなかった。
心の底ではわかっていても、契約の上で成立している関係だからと無視してきた。
それと、リズは向き合おうと思った。
リズは、ノアールが好きだ。
一緒にいると安心するのが好きだ。
たまに見せる笑顔が好きだ。
いつもリズのことを考えて動いてくれるのが好きだ。
稀にしか見せない子供っぽい表情が好きだ。
後追いで、理由はいくらでも探せた。
けれど、そんなものはあとから頭で考えた理屈だ。
誰かを好きというのは、そんなものではないとリズは思う。
まず最初に好きがある。頭ではなく、心の中心にどうしようもない気持ちが存在する。
それが、本当に誰かを好きということなのだと思う。
リズは、ノアールが好きなのだ。
こんな気持を持っていまさら別れるなど、忌み嫌われる闇使いでいるよりも何倍も何倍も嫌だった。
リズは大きく息を吸って、吐いた。
自分の気持ちが、考えが整理できた。
ちょうどその時、リズはカルセルの家の前にたどり着いていた。
両手で顔をパチンと叩いて気合を入れた。
精霊使いになる理由はなく、ならない理由はリズにとってなによりも重要だった。
リズの目は、しっかりと家を見据えている。
リズの顔には、いつもの凛々しい表情が戻っていた。
決めた。
ノアールの話を断ろう。
***
家に戻ると、ノアールは暖炉の前のソファーで休んでいるようだった。
ノアールがリズの姿を認めて立ち上がる。
「リズ様、おかえりなさいませ」
「ただいまノアール」
ノアールは、いつもよりどこか眠そうに見えた。
端正な、一分の隙もない顔が、今日はどこか緩んでいる。
「決めたわ」
「では、これを」
そう言ってノアールが永竜の真核を出そうとするのを、リズはその手で制した。
「あたしはそれを使わない」
ノアールは、驚きを顕にした。ノアールにしては、という前置きはつくが、それでもノアールにとって最大限の驚きであることは目に見えて明らかだった。
「なぜです?」
「それは……」
理由を言うのが恥ずかしかった。
それでもリズはちゃんと話すべきだと考えた。
これは、ノアールがリズのために取ってきてくれたものなのだ。
「それを使えば、あたしは精霊使いになれるのね?」
「伝承に間違いがなければ」
「それは使ったら、あたしは闇使いではなくなるわけね?」
「そのはずです」
「なら、だめ」
ノアールが小さなため息をついたのが聞こえた。
「理由を教えてください」
「だって、それを使ったら、あたしとノアールの契約はどうなるの?」
ノアールは、リズの言わんとしていることを理解していないようであった。
「あたしが闇使いじゃなくなったら、ノアールはいなくなっちゃうんじゃないの? あたしとの繋がりが消えて」
それを聞いたノアールは、微笑んでいた。
その笑みは嬉しそうでもあり、寂しそうでもあった。
「リズ様、そのお心遣いはとても嬉しいです。けれど、それに関しては心配いりませんよ」
「どうして?」
ノアールの次の言葉がリズに与えた衝撃は、計り知れないものであった。
「わたしとリズ様は、契約などしてないのですから」




