20.大霊来たれり
リズの心は完全に緩みきっていた。
自分が闇使いであるという事実とは向き合わなければいけないが、叔父の元に送られたことも、継母や義姉との問題も、父が戻れば解決すると思っていた。
リズは、今のカルセルでの生活を楽しんで待っていればいい。
叔父が動いてくれている。父が戻れば、きっと父も動いてくれるはずだ。
リズを擁護するならば、カルセルでの生活が楽しすぎたという理由はある。
初めての心安らぐ生活。
常に継母と義姉という敵と向き合い続けなければならなかったウィランスの屋敷とは違い、カルセルでは味方しかいない。
叔父や、アンヌや、ノアールと過ごす生活で気が緩んでしまうのは仕方がないかもしれない。
リズは十七歳の、まだ成人も迎えていない少女なのだから。
それでも、リズは不用心過ぎた。
その証拠に、アンヌから木苺を採りに都市の外に行こうと誘われた時も、身の危険についてはなにも悩まなかった。
アンヌと一日を過ごすのは楽しそうだという良い面だけを考え、それに対して悪い部分はないか想像すらしなかった。
数ヶ月前のリズだったらあり得ないことだ。
良い未来というのは、想像しようとしなくても勝手に想像してしまうものだ。
だからこそ、悪い未来を考え、想定しておくことが大切なのだ。
良い未来を想像してその通りになったら素直に喜べば良い。
ただ、人生というのは良い未来の想像がその通りになるほど甘いものではない。
良い未来だけを考えて悪い結果になってしまった場合、実際以上に精神的な負担がある上に、悪い結果に対して一から対処法を考えなければならない。
それに比べ、悪い未来も考えておけば、その通りになってしまった時にショックを受けずに、早く対処が行える。
悲観主義者、というわけではない。リズはどちらかといえば楽観主義者である。
リズがその人生で、継母や義姉と一緒に過ごして学んだひとつの生き方だ。
だからリズは心折れずに十七歳の誕生日を迎えられたのだ。
そんなリズは今、都市を出たところだ。
門番に見送られ、アンヌとふたりで楽しそうに笑いながら森へと向かっている。
一言で言えば、リズは浮かれきっていたのだ。
自分でも気づかないうちに。
だからリズはアンヌの誘いをそのまま受けてしまった。
ノアールが側にいないというのに。
自分を護ってくれるどころか、護らなければならない友人と一緒にカルセルの外に出てしまったのだ。
愚かしくも。
***
天気はなんとか晴れといっていい程度には良かった。
青空と雲が半々といったところで、日差しが照ったり、雲に隠れたりを繰り返していた。
森には一時間もしないうちに着いた。
森といっても切り開かれた道があり、獣道を探索して木苺を探す、といったようなものではなかった。
人の手の入った森で道も整備され、歩きやすく危険もなさそうに思えた。
木々に囲まれ、リズは大きく深呼吸をした。
緑の匂いが気持ち良い。
左右を立ち並ぶ木に囲まれた道を歩いていると、リズはなんだか旅人にでもなった気分だった。
そういえばノアールと初めて会った時も、こんな道を歩いたことをリズは思い出した。
まだそれほど経ってもいないというのに、ずいぶんと昔のように感じた。
リズの歩調は元気そのもので、ともすればスキップでもしそうな快活さに満ちている。
その理由のひとつは、スカートではなくズボンを履いているからだ。
リズはアンヌから外で着るための動きやすい服を借りているのだ。乗馬以外でズボンを履くのは初めてかもしれない。
リズとアンヌは道を進み、道沿いにある木苺を収穫していった。
木の実も色々と落ちている。アンヌがパイに使えるような木の実を教えてくれたので、リズはそれらと同じような木の実を探しては拾っていた。
リズは純粋に楽しかった。
木苺狩りも木の実拾いも初めての経験であったし、自分で素材を採ってそれを調理するなど、しばらく前の自分だったならば考えられないことだ。
どんどん変化する生活にリズはワクワクする。
「リズ様、楽しそうですね」
「うん、楽しいよ。こういうことをするのは初めてだし」
木苺はあっという間に集まった。
かごいっぱいの木苺と木の実を眺め、ふたりは満足げにうなずいた。
木苺の酸っぱそうな匂いがかごから漂っていた。
「こ、これだけあれば十分ですね、それじゃ帰りましょうか」
「そうしよっか。なんだか来るのにかかった時間の方が長かったね」
辺りが急に暗くなり、アンヌが空を見上げていた。
「なんだか、暗くなって来ましたね。雨、降らないといいんですけど」
リズも空を見上げる。
いつの間にか空は雲一色だった。
灰色の雲が太陽を隠し、雲越しの太陽光は弱々しく、清々しかった森を鬱蒼としたものに感じさせた。
嫌な予感がした。
いつの間にか過ぎるのだ。
リズが数分前に空を見上げた時は、まだ青空が多く見えていた。それが、今は青空などまったく見えない。
気がつけば、鳥の鳴き声も聞こえなくなっていた。
さきほどまでは森中に響いていた鳥の声が、今はない。
動物の鳴き声はしばらく聞き続けていた故に、頭が自動的に背景雑音と判断して意識しないようになっていた。
だが、今は気にならなくなっているのではなく、本当になにも生き物の気配がしないのだ。
まるで、リズたちの周りにいる生き物がすべて逃げ出してしまったかのように。
リズがカルセルに来てから読んだ、魔法の実戦書に『不可解な出来事があったら魔法を疑え』というものがあった。
今がまさにその状況だった。
かといってどう備えればいいかもわからず、リズが急いで帰りましょうとアンヌに伝えようとした時に、それは起こった。
落雷が、リズたちの近くに落ちたのだ。
爆発音としか言いようのない轟音が全身に響き、目を開けていられない閃光が同時に来た。
アンヌの悲鳴が聞こえた。
リズは思わず目をつぶり、再び目を開いた時には、リズたちから十歩もない至近距離にそれはいた。
それをなにかの動物に例えるならば、獅子に似ていた。
ただ、それはなにかに例えるなら、である。
獅子は体高がリズの三倍以上もあったりはしないし、その体が黒い不気味な靄のようなもので構成されてもいないし、雷光を身にまとっていたりもしない。
バチバチとした破裂音が周囲に響いていた。
リズは、とつぜん猫に出くわしてしまったネズミのように動けなくなった。
そこから、リズの頭は死を感じた生物にしか許されない速度で動いた。
肌で感じる魔力から、尋常ではない怪物なのはすぐにわかった。
それが精霊であることも。しかも大霊に属するものであろうこともだ。
継母か義姉の仕業だ。それ以外にはあり得ない。
確率で言えば偶然現れた大霊に襲われるよりも、流星の落下に直撃して死ぬほうが遥かに簡単だろう。
明らかにこの大霊はリズを狙って現れたのだ。
これだけの力を感じさせる精霊を呼び出すなど尋常ではない。大量の人を使っての儀式的な召喚か、リズが思いもよらぬなにかか。
ただ、それを考察する意味はなさそうだった。
どんな魔法でこれほどの怪物が呼び出せたか知らないが、現実に目の前にいる以上それはもう関係がないのだから。
リズはそこでようやく、己の愚かさを悟った。
アンヌを巻き込んでしまったことを。
自分の立場がどんなものであったかを。
ノアールがいないことを。
ノアールがいないのに都市の外に出てしまったことを。
リズは、平時では絶対に出ない類の汗が吹き出るのを感じた。
大霊が、吠えた。
肉を持った生物では絶対に出せない声で。
アンヌは状況を理解できずに、ただ呆然と雷を纏う巨大な獅子を見上げて言った。
「リ、リズ様……なんですか……これ……」
リズの動きは素早かった。
生存本能というよりも、自らの失態に対する責任感が体を突き動かした。
アンヌ、ごめんと心の中で謝って、側に居たアンヌを木々の方へと突き飛ばした。
次いでリズは身を翻して全力で走り出した。
木々の中に逃げ込むか一瞬だけ迷ったが、火事になる恐れを考え、道をそのまま全速力で走った。
距離を空けるのだ。アンヌから。
リズの判断は、正しかった。
アンヌを突き飛ばすのも、逃げ出すのも、あと一秒でも遅かったら、その場には黒焦げの死体がふたつあったはずだ。
リズとアンヌが居た場所を、大霊から放たれた雷光が焦がしていた。
リズは走り続けようとしたが、あってはならぬことが起きた。
踏み出すはずの右足が、左足のかかとにひっかかったのだ。
盛大な転倒が起きた。
体をひねってはみたがまともに衝撃をころすことはできず、リズは地面で二回転もしてからようやく止まった。
リズが立ち上がろうとしながら大霊を見上げると、巨大な獅子との距離は、ろくに開いてもいなかった。
耳に響く破裂音に、リズの全身が震え上がった。
絶対に逃げられない確信が、リズの中で湧き上がった。
――――うそ……
リズは、今日死ぬ可能性など微塵も考えなかった。
アンヌと作ったパイが予想以上に美味しいことは考えても、こんな未来は考えもしなかった。
なにが起きているのかわからなかった。
リズの頭は、現実を拒否することしかできない。
全身を打ち付けたはずなのに、痛みはまるで感じなかった。
リズはただ、雷を纏った大霊を見上げている。
大霊の雷が、不穏な揺れを見せた。
一秒後に、自分は死ぬ。
リズがそう確信して最後に思い浮かべたのは、母の姿でもなく、父の姿でもなく、ノアールの姿であった。
雷光が放たれ、リズに――――




