2.追放以上
リズは、馬車から外の風景をのんびりと眺めている。
街道の景色は平和そのもので、天気も快晴に近く申し分ない。
旅立ちには良い日だ。
それが、良き旅立ちであればよかったのだが。
どうして馬車に乗っているのかと言えば、叔父のいるカルセルという都市に向かっているからだ。
継母の手回しの早さは異常だった。
まず、リズが闇使いであるという事実は、一部の人間以外には伏せることになったようだ。
リズは病気ということになった。それはたぶん不治の病であり、絶対安静にしてなければ命に関わる病気なのだろう。病名は不明。それは継母に聞いてほしい。
実際のリズは元気マンマンだか、そこは関係がない。
とにかくリズは病気であり、療養をするために、叔父の家に行くことになったのだ。
つまりは実質的な追放だ。
いったいなにを治すために療養するというのだろうか、魔法の資質だろうか?
なにをどう療養すればいいのか説明してほしい。
しかし、その対応も一概に馬鹿げたこととは言えない。
ウィルスタイン家は、精霊使いの家系として名を馳せた家である。
騎士階級の貴族ではあるが、かつては大十字勲章を授かった家柄であるし、当代当主の父も優秀な騎士であり、王家に対してはそこらの爵位持ちの貴族よりもよほど顔が利く。
そんな家の娘が闇使いであると知られたらどうなるか、すくなくとも絶対にいい結果にはならない。
それほどに闇使いとはイメージが悪いのだ。
闇使いのイメージを最も悪くしているのは、国崩しの魔女という伝説からだ。
かつて、小国を滅ぼしたとされる闇使いがいたのだ。
力ある魔女が、闇の眷属に小国を蹂躙させたのだ。
闇使いは、極めて珍しい資質である。
故に、少数の悪い行いが、直接的なイメージに大きく響く。
ただでさえ悪霊や邪霊の類を使う術師は印象が悪いのに、そういった伝説まであってはおしまいだった。
力は使う者次第、とリズは思うが、すべての人間がそう割り切れるわけではないのは理解していた。
娘が国を滅ぼし得る資質を持っているかもしれない。そうなったらそれを隠すのは当然と言えた。
リズが父か継母の立場だったら、リズだって似たようなことを考えた可能性は否定しきれない。
ところで、馬車の旅には問題がある。
おしりが痛いことだ。
リズは何度も座り方を変えてそれをすこしでも緩和させようともぞもぞと動く。
それは、端から見ると落ち着きがないように見えた。
リズはもう立ち直った、とは言い難い。
自分の資質が子供の頃から夢見ていた精霊使いではなく、皆から恐れられる闇使いであったというのは、そんなに簡単に受け入れられるものではなかった。
それでも立ち直りつつはある。リズは前向きなのが取り柄だ。
いつまでくよくよしていても意味はない。くよくよしているだけで精霊使いになれるならば全身全霊をもってくよくよする覚悟だが、この世界はそのようにはできていない。
重要なのはこれからどうするか、だ。
叔父のところに行く、それはいい。
そこで十七歳から余生を過ごす、そんなつもりは毛頭ない。
闇使いの悪いところ、というのはだいたいがイメージのみである。
純粋な視点から見れば強い力であり、強い力であるが故に、悪用され世に悪いイメージがついてしまっただけなのだ。
ならば、リズがその悪いイメージを払拭すればいい。
闇使いの聖女、とかどうだろう。響きはかっこいいと思う。
前例はもちろんないが、何事にも初めてはあるものだ。
リズの力で国を救って英雄となるのだ。そうすれば闇使いの悪いイメージはなくなり、リズが忌み嫌われることもなくなるだろう。
夢物語かもしれないが、リズはそれくらいの意気込みを無理やりにすることで元気を取り戻しつつあった。
叔父さまと久しぶりに会えるわ、とか、カルセルに着いたらなにをしよう、などと多少は考えられる程度には、リズの精神状態は回復していた。
リズがおしりをもぞもぞしているうちに、街道は森林に入っていた。
春の若々しい緑が馬車の窓から見える。
今日は道中の村で一泊することになっている。
叔父の元へは同じ道を通って何度も行っているので、もうしばらくすれば村に着くことがわかっていた。
しばらく進んだところで、馬車がとまった。
次いで、御者がのぞき窓から声をかけてくる。
「お嬢さま、すいません、すこし休憩をいただいてもよろしいでしょうか?」
リズはすぐに答えた。
「わかったわ」
こういう場合の休憩、というのは用足しだ。
なぜ休憩を? と聞くのはマナー違反である。
のぞき窓から御者が降りるのが見えた。
この期に及んでリズは継母と義姉を甘く見ていた。
あるいは、リズが余裕のある状態ならば気付けたかもしれない。
不審な点はいくつもあった。
ひとつ、父にリズの託宣の結果が闇使いだと本当に伝わっているのか。
リズの父は今、不安定な北方の情勢を安定させるべく駆り出されている。
だからこそ屋敷の事情は継母に一任されているわけである。しかし、リズの問題は当主が判断すべき重大な問題であり、これだけ迅速に実質的な追放がなされるのは不自然だ。
ふたつ、叔父に話は伝わっているのか。
今は託宣の儀を行ってから一週間後である。
これこれこういう事情なので、療養という建前で娘を預かってほしい、なるほどわかった、そういったやりとりがきちんとされているのか。
カルセルは領を跨いだ都市だ。
双方が早馬を出し、叔父が即断したとしても、一週間で連絡が取れるかは極めて怪しい。
みっつ、なぜ同行するのは御者ひとりだけなのか。
闇使いのお嬢様と同行するのはちょっと……
そういった使用人がいないとは限らないが、いくら追放とはいえ、年頃の令嬢を男の御者ひとりで送るのはいかにもおかしい。
リズも心のどこかで違和感を感じてはいたが、そのときが来るまで気付けなかった。
気力を取り戻すので精一杯であったというのもあるし、継母がこれ以上のなにかをするとは考えられなかったのもある。
御者の休憩は、やけに長かった。
いつまで経っても戻ってくる気配がない。
嫌な予感しかしなかった。
御者が動物や魔物に襲われた場合、リズはここに置いてけぼりということになる。
そうなった場合、誰かが街道を通るまで待つことになり、その誰か、はいつ来るかわからないのだ。
迷った。
馬車の小さな窓からでは、外に見えるのは森の木々だけだった。
外に出るべきだろうか。
このまま馬車の中で待っていても埒が明かないというのはあったし、御者に事故があった場合、まだ無事で助けを求めているという可能性もある。
決めた。
せめて外に出て様子をうかがおう。それからどうするかはまた考える。
リズは馬車の扉を開いた。緑のいい香りが鼻腔をくすぐる。
リズは馬車のステップを降り、地面に両足を着く。久々の大地の感触に安堵を覚え、そこで、聞こえてはならない音がした。
狼の咆哮だった。
それも、かなり近い。
事態は急速に動いた。
大人しく待っていたはずの馬がいななき、馬車が走りだしたのだ。
リズは、いきなりの事態に馬車に戻ることができなかった。
乗り手のいない馬車は無情にもリズを置いて走り去った。
そして、それ以上にのっぴきらない危機がリズを待っていた。
リズは、恐る恐る馬車が走り去ったのと逆の方向に視線を移す。
狼。
脳の何かが麻痺でもしたのか、リズは初めて目にする狼に、本物の狼ってこんなに大きいんだ、という感想を抱いた。
低く唸る狼の口から垂れる唾液が、やけに生々しく映った。
それからじわじわと全身に恐怖が広がった。
リズは深呼吸をひとつ。
怖がっていても意味はない。どうするのが最善なのか、自分が生き残る手段は何か、それを考えることにすべての力を使うべきだ。
エリザベート・ウィルスタインはこんなところでは終われない。
決意が恐怖を上書きする。
熱に浮かされていたかのようにぼやけた意識が、決意によって鮮明になる。
そうして視野が広がると、狼の存在に目が釘付けになっていたことに気づく。
狼の背後にいた男の存在が、今になってようやく視界に入った。
髭面で、太った、見るからにガラの悪そうな男だった。
男が口を開く。
「なんだなんだ、ずいぶんなべっぴんさんじゃねぇか」
リズは男の下品な口調に嫌悪しつつも、それを顔に出さないように努めた。
「どなたですか?」
男はくくくと笑うだけだった。
リズとて返事が返ってくるとは思っていない。考える時間を稼ぐための会話だった。
話しながら自分にできることは何かを考える。
狼が襲ってこないのは、この男が狼の飼い主だからだろう。
狼はリズを見据えて唸りはするが、動かずにその場でリズを睨んでいるだけだった。
「なにが目的なんですか?」
意外なことに、男はそれに対しては反応した。
「心あたりがあるんじゃねぇのか?」
心あたり、その妙な言い回しが、リズの感じていた違和感と合流し、急に答えが閃いた。
継母だ。
偶然の野盗だったらこんなことは絶対に言わない。
継母は、リズを郊外に出して、そこで殺すつもりだったのだ。
そこまでやるか。
リズの中で、継母と姉に対する怒りがふつふつと湧き上がり、その炎は激しく燃え上がった。
怒りの炎が描き出したのは、ひとつの強烈な意思だった。
死んでも生き残ってやる。
「あーあ、ほんとにもったいねぇなぁ……」
男が、心底残念そうな声で言う。
それから男の声は急に黒さを増し、
「まあ、殺すんだが」
男が指を弾くと同時に、狼は動いた。
狼は恐ろしい速度でリズへと駆け出した。
狼がリズの正面まで迫り、その口が大きく開かれ、今にもリズの喉笛にその牙を突き立てようとしたところで、狼が突然弾かれた。
狼は一瞬、叩かれた犬のような情けない鳴き声を出したが、俊敏な着地を見せ、倒れ込むようなことはしなかった。
リズが魔法で弾いたのだ。魔法というよりも、実際はありったけの魔力を全開にしてぶつけただけだ。
凌ぐのが精一杯であり、それも一度か二度できるかどうかでしかない。
とにかく、初手は防いだ。
リズがこのまま戦った場合、逃げようとした場合、どちらの結果も無数に想像できる。
しかし、その中で最良の結果でも、今すぐ喉を掻ききって死んだ方がマシ、というような代物だ。
それならば、イチかバチかの手段を使う。
託宣の儀の結果を思い出す。
茨と、氷と、運命のルーンに置かれた小石を思い出す。
リズは、闇使いだ。
できることをやる。
狼が警戒して動かない時間はいくばくもないだろう。
本で学んだだけの内容をぶっつけ本番で試す。
めちゃくちゃな話だが、リズが今できる最善は「めちゃくちゃ」だった。
体内に魔力を巡らせ、違う世界からの扉が開くのをイメージする。
その扉から、自分を助けてくれる何者かが現れるのをイメージする。
リズの前の空間に、小さな黒いシミのようなものが浮かんでいるのが見えた。
そのシミは不気味に広がり、それから急速にしぼんで消えてしまった。
失敗した。
「いま、なにをした?」
男が警戒心を顕にする。
「さあ、なにかしら?」
リズはそう返した。時間を稼ぐためでもあるが、実際に自分でわかっていないのも本当だ。
どうする、もう一度やるか。
リズがそう考えていると、目の前の空間に、突然黒い帳のようなものが出現した。
そこから何者かが歩み出て、帳は霞のように消えてしまった。
リズが呼んで出てきたからには、闇の眷属なのだろう。
闇の眷属は、狼にも、男にも背を向けて、リズをじっと見つめていた。
その姿は、リズに今の状況を忘れさせた。
闇に属する者だというのに、その姿は邪霊にも悪霊にも見えず、人間の男性にしか見えなかった。
それも、桁違いに美形の。
夜魔なのだろう、おそらくは。人型をした、闇の眷属の総称だ。
リズは、自らが呼び出した者から、目が離せずにいた。
夜闇のような美しい黒髪に透き通るような白い肌、背丈が高いのに線が細い身体。
服はなぜか執事が着るような燕尾服を着ている。
目、鼻、口、顔に関しても整っていない場所を探す方が難しかった。
夢の中にしか存在を許されないような姿がそこにはあった。
黒曜石のような瞳にリズの姿が映っているのが見えた。
リズは、見惚れていたのだと思う。
夜魔が口を開いたことで、リズはようやく正気に戻った。
よく通るが、どこか冷たい印象を抱かせる声が響く。
「お呼びいただき、光栄です」
夜魔はそう言いながら、執事のようにうやうやしく頭を下げたのだった。




