10.よろしければ案内を
「おいしかった?」
そう尋ねるリズに、ノアールは微かな微笑みを浮かべながら答えた。
「ええ、とても」
新居に移動しての、初めての夕食だった。
陽は落ちかけて赤みがかった光が窓から差し込んでいる。
生きる上でノアールが食事をする意味はないということで、食べさせるかどうかは難しいところだったが、リズは一緒に食べてもらうことにした。
ノアールの反応を見るに、リズは正しい選択をしたと思う。
叔父が用意してくれた家はカルセルの北区にある一軒家で、元々客人が長期滞在する場合のためのものらしい。
叔父は手入れをする必要があるので数日は自分の家に泊まるように、と言ったが、リズは翌日には移動することを希望した。
あまりにも世話になりっぱなしというのもどうかと思ったし、屋敷の住人の目もある。
それに、自分で掃除をする、というのもリズは興味があった。
これからどうなるかわからないし、経験できることはなんでも経験したい、という気持ちがリズには芽生えていた。
自分が住む場所なのだから、自分で手入れをするのが当たり前、という気もした。
だから、翌日には移動して、今日は早朝から住居の確認に掃除までを行っていたのだ。
都市の中で一軒家、という時点でなかなかに豪奢なものだが、家の広さも質も申し分なさそうだった。
叔父には感謝してもしきれない。
掃除に関しては思ったよりも時間がかかった。生活必需品はすべて揃えられており、掃除道具ももちろんあったのだが、あいにくとリズは自分で掃除というものをほぼしたことがない。
リズとしては考えて効率よく掃除したつもりではあるが、それでも半日がかりで大まかなところはきれいにできた程度のものであった。
半日でかなりの部分が終わったのはノアールの働きがかなり大きい。
リズと同じでノアールも掃除なんてしたことがないはずなのに、ノアールは実にきびきびと動いていた。
ノアールの動きがあんまりにも早いので、リズは汚れが残っているのではないかと勘ぐってチェックをしたのだが、よくわからない敗北感を突きつけられるだけに終わった。
そんなノアールは食卓を挟んでリズの対面にいる。食事を終えて満足げだ。
あまり表情はないが、雰囲気がどこか柔らかい。
ノアールの服装は掃除の前から、出会った時と同じ燕尾服に戻っていた。
なぜその服なのか? ときいてみたところ、どうにもこだわりがあるようだったが、それについてははぐらかされてしまった。
「リズ様、明日の予定はどうするのですか?」
「明日?」
言われてリズは考える。
急いでやることはなにもないと思う。とりあえずは叔父が動いてくれるそうなので、その結果待ちだ。
新居に関しても、急いでやるべきことはおおよそは終わったように思う。
あとは住んでいるうちにやるべきことが見つかったら、おいおいやればいいはずだ。
「今のところは、とくになにもないけど」
「リズ様は、このカルセルにある程度詳しいのですか?」
「まあね、叔父様のところには子供の頃から何度も来てるし」
「でしたら、明日はこの都市を案内してくれませんか?」
「案内?」
「ええ、これからしばらくはここで過ごすのでしょうし、何があるか知っておきたいのです」
それを聞いて、リズの中である台詞が脳裏をよぎる。
――――お嬢さん、よければ今日一日、僕を案内してくれないかい?
リズのお気に入りの物語の台詞だ。
身分を隠した王子が庶民の少女と一日を過ごす恋愛もので、王子が少女をデートに誘うときの台詞なのだ。
そのせいで、リズは妙な意識をしてしまった。
ノアールがリズの異変に気づいたのだろう。
「リズ様、どうかしましたか?」
「いいえ、なんでもないわ!」
「では、どうでしょう? ご都合が悪いようでしたら後日でも構いませんが」
リズは自分に言い聞かせる。ノアールにそんなつもりは一切ないのだと。
ノアールはリズの使い魔であり、使い魔であるからには主人を護衛するのは務めだ。
その務めを果たすためには、拠点周辺の地理などを把握するのは必須事項である。
そのためにノアールはリズに案内を頼んでいるのだ。
そして、その提案に対して主人がすべき正しい回答はなにか。
「いいわ、明日あたしがカルセルを案内してあげる」
「ありがとうございます」
そう言ってノアールが嬉しそうに笑った。
はっきりとその表情が見て取れた。
リズはそんなノアールを見て、言葉では言い表しようのない、複雑な感情が渦巻くのを感じた。
一番近い表現は、喜んでくれて嬉しい、だろうが、それに付随するいくつもの感情がそれを複雑なものにしていた。
胸の内がもぞもぞするような感覚に、これ以上この場にいるのは耐えられなかった。
リズは立ち上がって言う。
「あたしは部屋で休むから、なにかあったら呼んで」
「承知しました」
そのまま踵を返して二階に向かう。
寝室に使える部屋は三部屋もあったので、リズとノアールはもちろん別室だ。
村の宿を思い出し、ああいった風でなくて良かったと思う。
リズは一番奥の部屋の扉を開き、中へと入る。
夕焼けの光は去りつつあり、部屋はもう薄暗かった。
ベッドの脇にあるランプに明かりを灯す。蜜蝋のほのかな香りが鼻孔をくすぐった。
リズは靴を脱ぎ、そのままの格好でベッドにうつ伏せになる。
枕に顔を押し付けて、しばらく足をバタバタとさせる。
ノアールは使い魔である。
なぜって本人がそう言ったから。
リズとしては契約の内容もわからず、実感もないのだから困ったものだが、とにかく本人が言っている以上はそうなのだろう。
その証拠に、ノアールは自分の力になってくれているし、その態度も極めて慇懃なものだ。
叔父の判断も証拠になる。
リズはこの家に、しばらくはノアールとふたりで過ごすわけだ。
普通の男女だったならば、叔父は絶対にそんなことは許さない。
主人と護衛である使い魔だからこそ、この家にふたりで住むことを許可したのだ。
そこで、これからしばらくふたりで生活することを意識して、リズはまた足をバタバタとさせるのだ。
――――どうしてこんなに恥ずかしいんだろ。
たぶん、リズが家族以外の男性と接している機会が極端に少ないからだろうとは思う。
あと一年もすれば、パーティや舞踏会でそういった機会も増えたはずだ。
そうであったならば、こんなことにはならなかったと思う。
だいだいノアールは顔が良すぎるのだ。なんだあれは、許せない。
目に見える情報、というのは人に対して最も主張の強いものだ。そこにつけこもうとするなど、やはりノアールは邪悪な闇の眷属なのかもしれない。
リズはそんな理不尽な怒りを燃やして足をバタバタバタと動かす。
せっかくノアールといるのに慣れてきたのに、妙な意識をしたせいで台無しになってしまった。
リズは自分に言い聞かせる。
ノアールは使い魔。
ノアールは使い魔。
ノアールは使い魔。
それでも、リズの深層心理では、完全に明日はデートということになってしまっている。
その意識を上書きするのは容易なものではなかった。
リズは足をバタバタとさせるのをぱったりとやめた。
仰向けになったまま、死んでしまったのではないかと思わせるほどピクリともしない。
そんなリズの頭の中では、こんなことを考えている。
―――ーどうしよう……




