1ヶ月の妊婦
初めに、物語としては隙間時間に読める程度の文量です。
「小説家になろう」で書くのは初めてなのでわかりにくい部分もあると思いますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
実話ではありますが、1つの物語として楽しんでいただいても嬉しいです。
※作品内で差別用語など不適切な言葉が見られることもありますが、決して助長目的ではありません。作品を構成する1つの要素として御理解ください。
子供が欲しかった訳じゃない。寧ろ、要らないとさえ思っていた。今のパートナーと真剣に話し合い、授かったら育てよう。そう決心した矢先の事だった。
前の旦那との結婚生活が上手くいかず、離婚をしたのが今年の8月の事だった。そこから急ピッチで引っ越しを決め、ほぼ無理矢理この家に引っ越しをした。名義や色々な手続きは私の名前だったが、彼と一緒に住む計画だったのでなんとかなった。しかし、離婚したばかりで両親には相手の存在は伝えられなかった。半年が過ぎ、私がまた入籍出来る様になってから伝えるつもりだった。やましい事が全くないとは言い切れないが、彼とは離婚してからの関係なのでなんとかなると思っていた。
引っ越しが落ち着いてから彼は新しい仕事が始まり、私も就職活動を頑張っていた。しかしここで、1つの壁にぶち当たった。私はこれまで、パートやアルバイトしかした事がないのである。前の旦那との問題ではあるが、正社員という社会人経験がないのだ。そんな事が、就職活動にとっては大きな問題だったのである。自分に出来そうな仕事を何社も選び、書類選考を通過した所で落とされる。そんな事を1ヶ月、ただひたすらに繰り返していた。たった1ヶ月かもしれないが、経験のない私にとって自尊心を失うには充分だった。
『今日もまた、どうせ落とされるんだろう。』
そんな言葉を心の片隅に追いやって、彼に職場見学の待ち合わせ場所まで車で送ってもらった。家を出る時は晴れていたのに、私を待ってくれていた人を見つける頃には雨が降り始めていた。私が車で向かうと伝えていたので、傘を持たずに来る事を想定してくれていたらしい。大きなビニール傘を持って、スーツの肩を濡らしながら私を傘の下に迎え入れてくれた。
『ああ、またやってしまった。』
そんな言葉をまた心の片隅に追いやる。
説明を聞きながら、珍しく持っていたタオル生地のハンカチで肩の水滴を拭いてあげた。
「あっ、ありがとうございます。すみません、大丈夫ですよ!優しいですね。」
そう言って、笑顔でお礼をもらえた事が今でも嬉しい。私は色々と駄目な所があるから、少しでも印象に残したいだなんて打算的な考えから出た行動でも、やっぱり喜んでもらえたら嬉しいんだなと、雨が降っているからなのかしみじみ思っていた。
職場見学は、30分もかからず修了した。もう少し時間がかかると思っていたので、彼は自分の用事を済ます為に少し離れた場所にいた。私もそれでいいと思っていた。まだ雨が降っていたので、先程の人が傘を渡そうとしてくれたが断った。
『きっと、もう会う事もないだろう。』
借りても返す事が出来ない。私は恐らく落選する。そしたらこの人と顔を合わす事はないのだ。たった数秒だが、そう言う時だけ頭は回るのである。私は近くのコンビニを探して、彼に電話をかけ、そこで待つ事を伝えた。
その日は、朝急に生理が来た日だった。今月の分はもう来ていたので、思わずトイレに彼を呼んでしまうくらいには驚いていた。生理不順気味の私は、予定がずれることは日常茶飯事だったが、この日は何故か気になって仕方がなかった。
雨の中iPhoneを使い1番近くのコンビニを探している時も、ずっと下腹部の内臓を締め付けるような違和感が続いていた。痛いと言えば痛いが、どうせいつものことだろうと甘く考えていた。歩いて5分くらいの所にローソンがあるようだったので、何も考えずそこへ足を向けた。久しぶりにスーツを着ていたので、早く歩くことは出来なかった。傘を持った人や自転車の人。スーツで荷物を持って前屈みに歩く人。広い道路を赤信号の為にゆっくり走るトラック。早く歩けない私は、暇つぶしをする様に色々な情景を眺めながらコンビニへ向かった。
コンビニに入った私は、まずトイレへ向かった。ナプキンや下着が心配だったのだ。案の定、出血量は多かった。下着を通り越えてストッキングにも少し赤い染みが出来ていたが、ほんの少しなので大丈夫だろうとトイレットペーパーで拭い新しいナプキンを取り付けた。そこからしばらく、時間にして約10分くらいトイレに座っていた。もうトイレに用はないが、なるべく座っていたかったのである。この時既に、普段の生理とは少し違っていたと今になって思う。普段の生理なら、迎えを待つ事に対して不安なんてほとんど持った事がないのだから。
トイレを出た時、1人の女性が近くの棚を見ていた。開くのを待っていたのかと思うと申し訳ない気持ちが込み上げて来た。足速に暖かい飲み物のコーナーへ行き、良く飲む甘めの紅茶を買った。雨に濡れて身体が冷えていたので、少しでも温まれば苦痛が減るとその時は思った。会計を終え、どこで飲もうかと辺りを見回した時、イートインコーナーが見えた。最近のコンビニではよく見かける、2、3席の小さい座れる場所だ。取り敢えず、1番奥の席に鞄を抱えるようにして小さく座った。しかし、思った程身体は楽にはなってくれなかった。暖かい飲み物を鞄の下側に押し込み、湯たんぽのように下腹部を暖めてみたがこれでも効果は見られなかった。それどころか、吐き気が込み上げて来た。むかつきを堪えながらiPhoneの画面を覗き込むが、彼からの新着メッセージは見られない。
『少しでも早く。』
願いを込めるようにLINEを開き、彼へ電話をかけた。
「ごめん、出来るだけ早く来てくれないかな?」
彼は私の声色で状況を少し察してくれたらしく、詳しくは聞かず直ぐに向かうと言ってくれた。
『あと少しの我慢。』
普段なら一瞬で過ぎる数十分が、途轍も長く感じた。時間にして2、3分も経ってはいなかったが、私は吐き気が恐ろしくなったので外で待つ事を決めた。最悪吐いてしまっても、外ならまだ少しは迷惑を減らせると考えたのだ。結局蓋を開けずに飲み物は鞄にしまい、自動ドアを潜った。雨は相変わらずだったので、軒下を少し進んで喫煙所と反対側にしゃがみ込んだ。外は寒かったが、寒いお陰で吐き気は少しずつ消えていってくれた。
彼を待つ間は、色々な人が私の前を通り過ぎて行った。目の前の駐車スペースは車椅子のマークが描かれていたので余り車は停まらないと思っていたが、そんな事はなかった。少し大きめの白いセダンに乗ったいかにもな人は、少し変わった人だった。お店に入って直ぐに買い物を済ませ、車に帰って来たかと思ったらわざわざ私の真横の軒下でパンを食べ始めた。食べ物の匂いでまた少し吐き気が顔を出す。正直、少し離れて欲しかった。食べ終わるのも早かったので、実際に喉から物が出てくる事はなかった。他にも、30代くらいのスーツの男性も印象に残った。恐らく、スーツでしゃがみ込んでいる私が珍しく映ったのだろう。お店に入る時も、出て来た時も目が合った。普段の私なら目を逸らしたり、逆に笑いかけたりと対応しているのだろうなと思いながらも、眼球を動かす元気すら残っていなかった。
こんな状況の時、声をかけてくれるのは女性だけだった。現代社会は親切心で声をかけても変質者にされてしまう事が良くあると聞くから、やはり敬遠されてしまうのだろう。私も倒れていて意識が無い訳でも無いので、それでもいいと思っている。寧ろ、迷惑をかけて申し訳ない気持ちの方が大きかった。
初めに声をかけてくれたのは、一見男性に見えてしまうような女性だった。雰囲気や体付きが女性だったので間違える事は無かったが、ファッションはどちらとも言えない女性だった。彼女は、トラックから届いた商品を店内に届ける仕事をしているローソン店員だった。ファンキーな見た目のハスキーな声の人だったが、凄く優しい声色だったのを覚えている。
「しんどいんですか?」
荷物を台車に乗せ運びながら、足を止めて声をかけてくれたようだった。
「あ、ちょっと生理が重いみたいで…。すみません、迎えも呼んであるんで大丈夫です。」
「生理ですか、辛いですね。」と凄く心配してくれているようだった。それと同時に、何かの病気や発作では無い事にも安堵しているようだった。私は申し訳ない気持ちで心がいっぱいになっていた。彼女には中の席で待つ事を勧められたが、身体を小さくしていたいと断った。本当は吐き気が怖かった。
どのくらいの時間が経ったのか正直わからないが、次に声をかけてくれたのは明るめな茶髪の若い女性店員だった。飲み物を買った時、レジの中に見かけた顔だ。
「大丈夫ですか?」
「すみません、生理が重くて…」
「薬とかは?」
「急に来たもので、今は持っていないんです。迎えも呼んでいるので大丈夫です。」
「そうですか…それなら、中で待ちましょう。お姉さん、スカートだから下着とかも危ないので。」
そう言うと、彼女はしゃがみ込んでいる私に両手を差し出した。ネイルの可愛い手だったのを覚えている。
『普段から小さな子供に手を差し伸べているのかな。』
そんな事を思っていたら、私はいつの間にか彼女の手を取っていた。物凄く優しくて自然な手だった。ずっとしゃがみ込んでいた所為で関節が固まってしまい、少し足を引きずってしまった。それを見られて心配されてしまったのが、不思議と今でも恥ずかしい。
彼女に連れられ店内の椅子に再び座ってからは、正直よく覚えていない。気がつくと、彼に肩を叩かれながら名前を呼ばれていた。意識はずっとあったつもりだが、彼が店内に入って来たことすら気が付いていなかったのかと思うと珍しく自分が少し心配になった。彼に声をかけてくれた女性店員2人の事を簡単に伝え、お店に迷惑をかけてしまったと懺悔をしながら車に乗り込んだ。家に着いてからは、すぐにベットへ潜り込んだ。引っ越して来たこの家は二階建てで、寝室とペットの部屋を上にしていた。普段なら出せ遊べ構えと騒ぎ立てるふわふわの我が子達は、珍しく不安そうに静まり返っていた。
下腹部の内臓を誰かに締め付けられる感覚を想像して、きっと私の痛みはこんな感じの表現かななんて呑気なことを考えている反面、痛みで意識は朦朧としていた。寝ているのか起きているのか自分でもよくわからなくなりながら、私は1つの夢を思い出していた。
舞台はどこかの学校だった。私はインコ2羽とフクロウを1羽飼っているのだが、この夢に出てきたのはインコ2羽の方だった。体育館のような広い空間で、私は必死に2羽の大切な我が子を呼んでいた。どうしてこのような状況になったのかはわからないが、しばらくこの空間で放し飼いにしていたようだった。名前を呼んで私の元へ帰って来てくれるか物凄く不安だったが、2羽の我が子はしっかり私の元へ帰って来てくれた。私は持ち運び出来る小さめのケージを持っていたので、そこへ我が子達を急いで入れた。ケージに我が子達を入れた瞬間の安堵感は、正直もう味わいたく無い程重かった。フクロウは家で待っているらしかったので私はすぐに家に帰るべきだったのだが、何故か体育館から出て小さな和風建築の縁側へ向かっていた。そこも学校の敷地内の建物のようだった。ケージを小脇に抱え庭から建物に近づくと、既に何人かの生徒らしき人々が縁側に座っていた。お昼休憩などが出来る、ゆっくり時間の流れる空間だった。ふと私は、縁側には座らず下を覗き込むように地面にしゃがんだ。
『いるかな?』
夢の中の私は、何故かそう思っていた。何がいるのかも知らないはずなのに。しばらくすると、小さな生き物が縁側の下から私に近いて来た。それは、黒い小さなウサギだった。まだ子ウサギのようで、耳の長さや身体の大きさが凄く小さかった。
「おいで。」
私の動物に対する癖だろうか、近寄って来てくれた子に対しては絶対に手を伸ばしてしまう。その子は周りの誰にも目もくれず、私伸ばした手に擦り寄って来てくれた。
『なんて柔らかくて暖かくて…可愛いんだろう。』
不思議と夢の中なのに、温度や感触匂いまでもがありありと伝わって来たのだ。その子は私の手に擦り寄って来た後、ころんとふわふわのお腹を差し出した。身体全体は黒い毛色に覆われていたが、腹側は白い柔らかい毛に覆われていた。よく見ると、小さな足はソックスを履いていた。少し、子供の頃に一緒に育った愛犬を思い出した。イヌやネコにするようにお腹を優しく撫でていると、ふとこの子の顔が気になった。私が顔を覗き込むと、お腹を撫でられ気持ちよさそうに細めていた目をゆっくりと開けてくれた。黒々とした瞳がじっと私の顔を見つめてくれた。初めて見る子なのに、何故か見知った目をしているなとその時は思っていた。
「ごめんね、まだ連れて帰れないの。」
夢の中の私は、その宝石のようにきらきらと優しく光る瞳を見つめながら悲しそうに言った。ごめんごめんと謝る私の気持ちを分かっているのか、その子は身体を起こして私の手にただ寄り添っていてくれた。その表情が、だただた優しかった。
夢はそこで終わった。確か、ここ数日で見た夢だった。起きた直後に彼にも話したが、連れて帰って来なかったことが不思議で不思議でしょうがない。ここで少しだけ自分語りをしてしまうが、私は自他ともに認める動物好きだ。現実の私がもし外で飼い主もいない、野生でもない子ウサギを見つけたらそのままにするはずがないのだ。冷静に考えても、現状子ウサギを引き取って飼うことは可能な環境だし、小動物用のケージも1つ余っている。過去に何匹もウサギを飼った経験もある。
『どうして連れて帰って来てあげなかったんだろう。』
その思いに取りつかれながら、下腹部の痛みを鈍く感じつつ私は意識を手放した。
ガタガタと、彼が帰宅した物音で目が覚めた。私の所為で終わらなかった用事を済ませて帰って来たのだ。遠慮がちに扉を開けながら、体調はどうかと声をかけてくれる。相変わらず下腹部は締め付けられるように痛いが、ベットにいられるだけましだった。これまでの生活環境だったなら、どんな状況でも、それこそ私が意識不明にでもならない限りは家事やペットの世話は私がやらなければならなかった。頼めば何とかやってもらうことも出来たが、1から10まで現場を確認しながら指示を出さなければならなかったので、自分でやった方がマシだった。そんな環境に何年も身を置いていた私は、彼が何も言わずにこちらを気遣って動いてくれることが心底有難かった。一通り家事と世話を終えた彼は、私に夕飯までゆっくりしていることを提案してくれた。私は、今回は甘えさせてもらうことにした。食事の用意が出来たと数時間後に声を掛けてくれたが、どうしても食べる気になれなかった。彼の作る食事は体調や好みを考えていてくれるので毎回とても楽しみではあったのだが、その日から数日は口にすることが出来なくなった。
その日の夜、私は猛烈な痛みに襲われた。これまでも生理痛でベットから出られない程度の痛みは経験していたが、ここまでの痛みは初めての経験だった。どんな体勢をとっても内臓が痛い。痛い痛い痛い。隣で寝ていた彼にしがみ付きながら、痛みでうめき声が漏れた。涙も涎も出てしまっていた。しかし、申し訳ないと思う余裕すらなかった。どれくらい痛みに悶えていたのかはわからないが、気が付くと私は眠りに落ちてしまっていた。
翌朝、彼の目覚ましで目が覚めた。相変わらず痛みは続いていたが、昨夜程ではなかった。
「昨日はごめんね。あんなに痛いの初めてだったの。」
起きてから昨夜のことを思い出し、申し訳ない気持ちが押し寄せて来た。どうやら彼は異常な私の姿に驚き、救急車まで考えていたそうだ。本当に申し訳ない。仕事もあるのに…。
「俺、電車で行こうか?」
私の仕事が決まるまで、彼の仕事場までは私が送り迎えをしていた。電車でも通える場所ではあるが、駅まで少しかかる場所に家がある為、私から申し出たことだった。運転は私の数少ない取柄でもある。
「大丈夫、行けるよ。」
「わかった、行きは俺が運転するから帰りだけお願いね。」
そう言って彼は了承してくれた。身体が辛くないと言えば嘘になるが、私が今彼の役に立っていると実感出来る唯一の物事だったので頑張りたかった。送迎中に、今度の休みに病院へ行こうと言われた。昨夜私が寝ている間に周辺の産婦人科を調べてくれていたようだった。病院に通わないと生きなれない癖に病院嫌いの私の為に、評判のよさそうな所を探しておいてくれたのだ。今回ばかりは、素直に病院に行くことに従った。病院までの数日は、殆どを寝て過ごした。彼のおかげで何も心配することなくゆっくり過ごすことが出来た。療養中、ふと彼にこんな事を口走った。
「あのさ、もしなんだけど…流産してたらごめん。」
何故そう思ったのかは、正直今でもわからない。ただ何となく、女の勘とでも言うやつなのだろうか、そう思った。彼とは、今まで何度も妊娠していてもおかしくない状況になったことのある私だが、それでも妊娠したことはなかった。勿論流産もない。単純に、妊娠し難い体質なのだ。加えて、私は母方の祖母に物凄く似ていた。生き写しとも言われるくらいそっくりだったのだ。この祖母というのは、私の母を産む前に伯父を産んでいるのだが、彼は身体障がい者として産まれその前にも3人流産を経験していたらしい。時代が違うので似ているからと言って流産するものとは思っていないが、私は子供時代から何となく妊娠や出産には苦労するだろうと思って生きて来た。こんな遺伝のある私なので、流産したかもしれないと言う言葉が自分の口から出た事に驚いた。もしそうだとしても、私が謝る事ではないと彼は優しく励ましてくれた。その日からは、トイレに行くたびに目に付くドロッとした赤黒い液体を拭うのがなんとも悲しくて空しくてしょうがなかった。
病院当日、予めホームページで確認していたので朝7時に起きてネット予約をしてもらっていた。今回のことで初めて知った事だが、産婦人科の予約枠は案外すぐに埋まってしまうらしい。予約開始時刻にアクセスをして予約を取ることは出来たが、午前枠の半分より後ろの番号だった。レビューを書いていてくれた方、ありがとう。病院は家屋を改造して医院にしたかような、可愛らしい雰囲気の外観だった。初めて入る場所はどこであっても躊躇してしまうが、彼が付き添ってくれていたので何とかなった。受付に初診であることと予約番号を伝え、名前が呼ばれるのを待った。
正直、病院での診察は戸惑いの連続だった。問診や尿検査、血液検査はまだ良い、病院に来ているのだからわかる。しかし、いくら女性相手でもいきなりパンツと下着を脱いだらここに座ってくださいは戸惑う。産婦人科でそういった処置や診察をしているという知識はあるが、どういった時にそのような診察がされるかまでは知らない。医者の先生方からしたら当たり前のことなのだろうが、何も知らない私は前もってどのように診察を進めて行くのかは伝えてほしかった。これからでいいので、何卒よろしくお願いします。そして、子宮関係の異常で診察をこれから初めてされる、考えている方はある程度覚悟をしてから病院へ行くことをお勧めする。私が訪れた病院は今回2件のみだが、町医者も総合病院もどちらも同じようなものだった。
診察の話に戻ろうと思う。口頭で色々伝えた後、取り合えず尿検査をすることになった。まずは妊娠検査をしてみようとのことだった。流産のことは頭にあったが、どうせ生理不順だろうと高を括っていた私は狼狽えていた。
『本当に流産かもしれない…』
結果は驚いたことに、妊娠検査薬の線が表れていた。漫画などでよく見るあれだ。恥ずかしいことに、私は自分の体質の所為もあってか妊娠検査薬の実物を見たのはこれが初めてだった。2本の内1本だけだったので確実ではないらしいが、妊娠中に分泌されるホルモンはしっかり出ていたと結果に出た。
「ちょっと。エコー見てみましょうか。」
結果を見た女医さんは、そう言って私を隣の部屋へ行くように指示をした。少し嫌な予感がした。と言うのも、彼はそのまま診察室で待つか待合室で待つかを聞かれていたからである。彼と同じ空間にいられないだけで、この時の私はかなり不安だったのだ。隣の部屋へ行くと、漫画やドラマで見た事があるような大きな可動式の椅子があった。勿論、色合いは病院によくあるライトグリーンだ。
「パンツと下着を脱いだらここに座ってくださいね。準備出来たら教えてください。」
「あっ…私、血が出ているのですが大丈夫ですか?」
「気にしなくて大丈夫ですよー。それじゃ、待ってますので声かけてくださいね。」
本当に下着まで脱ぐのか一応確認をしたくて聞いた質問だったが、どうやら聞き間違いではなかったらしい。エコーと聞こえたので、てっきりお腹に器具を当てて診るのかと思ってしまっていた。
『そうか、なるべく子宮に近い所で見るのか…』
覚悟を決めて下半身のみ服を脱ぎ、例の椅子に座った。一応座るところには薄い紙が敷かれていたが、普段のトイレで確認している出血量には心もとなかった。
「あの、出来ました…」
声を掛けると、案内してくれた看護師さんがすぐに来てくれた。
「椅子、動かしますね。」
例の椅子が稼働した。精神的にも肉体的にも余り取りたくない体勢ではあったが、今回ばかりは仕方がないと我慢をすることにした。向こうもプロだ、しっかりやってくれる。
「少し冷たくなりますよ。」
そう声を掛けて、看護師さんが洗浄液らしきものをかけた。ここまではよかった…。
「ちょっとごめんなさいね。」
いつの間にか先生が来ていて、器具を当てられた。当てるだけならまだいいが、ぐりぐりと押し込まれるのは正直少し痛かった。変に迷いがあるよりは思い切りよく来てくれた方がいいのはわかるが、前もって何をするのか教えてほしかった。それとも、言わないものなのか…。個人的には心の準備をさせてほしい。ただでさえ、身体のことで不安なのだから…。
「うーん…いるようには見えないし、子宮も育っているようには見えないのよね。」
なんとも歯切れの悪い言葉が聞こえた。私の身体には一体何が起きているのだろうか…。
「…診察室でお話ししましょうか。」
そう言って、先生は彼のいる診察室へ戻って行った。身だしなみを整えて診察室に戻ると、先生は眉間に皺を寄せていた。
「…子宮外妊娠の可能性があるから、大きい病院で念の為検査をした方がいいわ。」
その前にも色々言っていたが要約すると、考えられる可能性の中で1番最悪なのが子宮外妊娠なのでその検査を一応した方がいいとの事だった。
「近くに大きい病院があるから、今から予約取れるか聞いてみるわね。もし予約が取れなかったら、なるべく早い日程で予約を取るから診てもらって。取れたら、この後検査に行ける?」
『思ったより、大事になってしまった…』
そんなことをぼーっと考えている間に、病院がどこにあるかや予備の日程について彼が先生と話をしてくれていた。一緒に来てくれてありがとう。
「予約の確認をするから、少し待ってもらうかもしれないけど待合室で待っててくれるかしら。」
こうして、初めての産婦人科診察は一応終わった。まさかこんな事になってしまうとは思いもよらなかったので、ずっと身体がふわふわした感じだった。現実味があまりなかったが、下腹部の痛みがこれは現実だと私に話しかけてくる。
「子宮外妊娠は考えてなかった…」
ぼそっと、私は感情のあまりない声で呟いた。彼は隣で、iPhoneを駆使して子宮外妊娠に付いて調べてくれていた。私が覗き込むと、見やすいように画面を傾けてくれた。子宮外妊娠とは医学用語で異所性妊娠のことで、読んで字のごとくの内容のようだった。肝心なのは母体と子供の事だが、子供は大抵は育たないらしい。母体の死亡率は低いようだった。
「まぁ、そのまんまだね。」
読んだ感想、読んで字のごとくだと思った。分かりやすくて良い。
「うん、赤ちゃんは育たないみたいだけど母体は比較的大丈夫みたいだね。」
彼は恐らく、私の身体の心配をしてくれている。なんだか無性に、彼に申し訳なくなった。
「…ごめんね。」
「なにが?」
「…ある程度はわかってたと思うけど、赤ちゃん産んであげられなくて。あと、この後の予定も潰れちゃったし。色々付き合わせて…。」
「気にしなくていいよ。それにこれは2人の問題なんだからさ、誰が悪いとかじゃないし。」
「うん、ありがとう。」
しばらくすると、受付から名前が呼ばれた。
「お待たせしちゃってごめんなさいね。病院、予約が取れたからこの後行ってみてください。」
「いえいえ、大丈夫です。色々ありがとうございます。」
予約と病院までの案内の紙、紹介状を受取お金を払った。現状の私には痛い出費だが、今回は仕方がない。心の中でそう整理をつけ、予約を取ってもらった総合病院へ向かうことにした。
総合病院の第一印象は、病院と言うより市役所だった。
『老若男女、誰にでも向けられた施設は似てくるものなのだろうか。』
そんな取るに足らないことを考えていると、彼が受付の手伝いをしてくれていた。総合病院だけあって、何もかもが機械化されていて初めての人には少し難しかった。総合案内の人に聞いてしまえばしっかりと教えてはくれるが、忙しそうな人に声を掛けるのはどうしても気が引けてしまう。結局彼が聞いてくれたので結果は一緒だったが、かなりの早口説明だった。やはり忙しいみたいだ。説明を受けて2階に上がり、そのエリアの案内の人に詳細を伝えた。今回の私はただの初診ではなく紹介状を持って来ている患者なので、少し面倒くさい患者だと思う。しかも無理に他院から予約を入れて来ている奴だ。なんだか申し訳ない。ここで待っているようにと伝えられた場所で問診表を書くよう言われたが、1件目の病院で言われたとこもあってわからない部分が多く殆どが空欄になってしまった。その旨を伝え問診表を渡すと、案内の人はまた何処かに行ってしまった。
総合病院なので色々な所に待つ為のベンチが置かれていた。どのベンチにもいわゆるソーシャルディスタンスの張り紙が真ん中にされていて、仕方のないことだが少し寂しい気持ちになった。私が待っているように言われたエリアは、恐らく産婦人科のエリアなのだと思う。総合病院なのでどこで待っていても順番がわかるようモニターが至る所に設置されていたが、私の座っているベンチの後ろに磨りガラスのような不透明の仕切り版が置いてありそこに妊婦さんの張り紙がされていた。その張り紙を見た時、下腹部ではなく胸部の奥の方が少し締め付けられたのを感じた。胸部の締め付けには気付かないふりをしながら、気分転換に自分の番号をモニター画面から探した。色々な科があり、1つの科でも先生が何人かいたりしてなかなか自分の診てもらう先生の名前が見つからなかった。ようやく名前を探し出した時、診察中の番号はまだ午前の予約番号だったことに驚いた。
『どうりで説明が早口だった訳だ。』
病院とは時間がかかるものだ、仕方がないと気長に待つことにした。ようやく番号が呼ばれたのは、忘れられたのではないかと不安がよぎり始めた頃だった。私と同じく不安があった人はやはりいたようで、案内の人に声を掛けていた。不満ではないといいのだが…。案内されたスライド式の扉を開けると、そこは診察室ではなく通路だった。アルファベットと数字の書いてある扉がいくつも並んでいる無機質な空間だった。私は伝えられた番号を忘れないように唱えながら、その扉を開けた。
診察室には、眼鏡を掛けた中年の小太りな男性が座っていた。名前からして男性とわかってはいたが、診察内容が内容なのでどうしても少し構えてしまう。先生は、前の病院からの紹介状を確認していた。
「うーんなるほどね。今は痛みとかはある?」
「少し違和感はまだあります。」
紹介状の内容と私の現状を把握した後、特に説明もなく隣の部屋へ行くように言われた。ここでは、彼は外で待つように言われていた。
『ここでもか。』
先生が男性と言うことも相まって、説明不足に少し不信感と嫌悪感を抱いてしまう。診察内容は1つ前の産婦人科と大して変わらなかった。違いと言えば、先生の痛む場所を確認する時の力が強すぎて本気で痛かったことと、まだ洗浄液を掛けていないのにエコーを始めた事だった。看護師さんにまだ洗っていないと言われていたから、間違いないだろう。先生的には面倒臭かったのかもしれないが、個人的には洗ってからにして欲しかった。診察が終わったので1度外に出て彼を呼び、再び診察室に腰を下ろした。
「たぶん、流産です。」
他にも説明はしてくれていたと思うが、正直この言葉を前後はあまり覚えていない。
『流産か…。』
先生には念の為血液検査をするよう言われていた。ホルモンの分泌量を測定すれば、流産なのかどうかが確定するらしい。今回のと次回の測定結果で分泌量が正常値に戻っていれば、流産確定だ。気が付くと、彼と先生が次回の予定の相談をしていた。この日は週末だったので、週明けに来ることに決まった。先生から診察券などが入ったファイルを渡され、血液検査へと向かった。
病院が終わりあとは帰宅するだけだったが、彼にはショッピングに付き合ってもらうことにした。途中下腹部が痛くなることが度々あったが、私自身が気分転換したかったので我儘を聞いてもらった。ウィンドウショッピングをする中で、私の気持ちの為にもと彼に1つの提案をした。
「赤ちゃんの代わりになるぬいぐるみを買ってさ、その子に可愛い洋服を買ってあげたいんだけどどうかな?」
私の中では、女の勘と言っていいかわからないが流産は確定していた。
「もちろんいいよ。」
下腹部が痛くなり、飲みものを買って休憩している時に彼に言ってみた。彼の眼は、少し潤いを見せながらも、快く承諾してくれた。
ぬいぐるみは、ウサギのぬいぐるみと決めていた。流産と聞いてから、先日夢に出て来たあの子がそうだったのではないかとずっと思っていたからだ。あの子がそうであったならば、私の台詞も納得出来た。
私はしばしば、予知夢のようなものを見ることがあった。元夫の祖父の死を予言したこともあれば、死んだ私の祖父が何かを伝えたい時などもよく夢に出て来た。祖母の死も、私はしっかりと夢に見ていた。夢は人だけではなく、死んだペット達もよく出て来てくれた。俄かには信じられないが、夢で見たことを何度も目の当たりにしていると、私の家族や私自身、私の夢には気を付けろと言う意識が芽生えてしまうものだ。加えて、私の周りではよく不思議なことが起こった。心霊的な怖いものではないが、化学ではどうしても証明できないような物事が子供の頃からよく起こっていた。私を含め家族は全員霊感などは無く理系の大学に進学したような人間ばかりだが、私の周りの不思議な出来事の数々は皆信じていた。そうしたことを彼も知っていて実際一緒に生活をする中で体験もしているので、夢の件は信じてくれたのだ。この日は時間も遅くなってしまっていたので、次回の診察後にぬいぐるみを探す約束をした。
週明け、私は2回目の検査の為に病院を訪れていた。検査結果が出てから診察をすることになっていたので、先に採血を行っていた。注射針を刺されることが好きな人はあまりいないと思うが、私は血管が細いタイプの人間なので特に苦手だった。前回の採血でもそうだったが、採血中はいつも涙目である。今回採血を行ってくれる人は、男性の方だった。先に感想を言わせてもらうと…正直痛かった。針が刺さって痛いのは仕方がないのだが、その後血管が細くて見つかりにくいのかぐりぐりと動かされるのは少々堪えた。わかっている。この方は決して下手ではないのだ。寧ろ上手な方だと思う。過去に何度も血管が見付からなかったり血圧が足りなかったりして3,4回の刺し直しを経験している身なのでわかってはいるつもりだ。この方は1回で終わらせてくれた。だが…痛かった。涙目になりながらぶつぶつと彼に文句を零し、どうにか平静を保っていた。
血液検査の結果は思ったより早く出たようだった。こんなに早く呼ばれるとは思っていなかったので、呼ばれた時は少し間抜けな顔で反応してしまっていたと思う。今回も無機質な廊下を少しだけ進み、診察室の扉を開けた。先生は先週と変わらない感じで、PCと向き合いながら着席を促してくれた。
「えー検査結果ですが、流産です。」
「あ…はい。」
『…思ってたんと違う。』
なんともあっさり、流産宣告をされてしまった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔とはよく聞くが、私にとってはこの時がきっとそうだった。正直少しは残念そうな態度や、何かしらの言葉を掛けてくれると思っていた。それが何もなく、無感情にただ結果報告と説明をしてくれただけだった。こんな態度を取られてしまったので、私や彼がした質問に対する回答が曖昧なこともただただ不信感が増すばかりだった。わからないなら、それなりの言い方があってもいいとは思うのだ。私はこの時まだ出血と痛みが続いていたので、いつ頃には止まるのだろうかと質問をした。その回答は、わからないがその内止まるとしか言ってくれなかった。もし続くようだったらまた受診してくださいの一言くらいは言って欲しかったと思っている。もし止まらなかったら?と質問を加えてみたが、残念ながらその内止まると思いますしか先生の口からは出てこなかった。私は素人なのでわからないが、どうやら確定事項らしい。おかげで診察は短時間で終わった。先生の態度を見て、私の中で1つの仮設が生まれた。
「もしかしたらなんだけどさ、あの先生…私達望んで赤ちゃん作ってないと思ったからあんな言い方だったのかな?」
「あー…そうかもしれないね。それならあの態度もなんか納得出来るわ。」
仮説を彼に聞いてもらい、先生の態度への不満を愚痴として消化するしかこの時の私には出来なかった。私は今年28歳になるアラサーだが、低身長なのと声が高いこと、加えて童顔なのでよく成人したばかりくらいに勘違いされることがあった。それは特に中年以降の男性に勘違いされることが多かったので、今回もその所為で望んでないと思われてしまったのではないかと考えた。ここからは私の個人的な意見になるのだが、仮に望んでなかったとしても「残念ながら」くらいは言ってくれてもいいと思う。本人達が望んでなかったことを自己申告していたらまた変わってくるとは思うが、そうでないなら命なのだから悲しいことだと思って欲しい。医者も仕事だからいちいち感情移入出来ないことは重々承知しているので、建前だけでも良いからそのような態度や言葉が欲しかった。
今回の妊娠については、私も望んでしたものではない。現段階で子供が欲しいとは思っていなかったのは、確かなことだ。そんな奴が何を言っているのかと思うかもしれないが、自分の体内にもう1つの命が存在していると思うと…私を母に選んでくれたのだと思うとその命が愛おしくて堪らなくなってしまったのだ。自分でも、まさかこんな感情になるとは思ってもみなかった。正直、今でも不思議だ。もう会えない、顔を見ることは出来ないとわかってはいるのだが、お腹にいた子に会いたくて仕方がないのだ。上手く言葉に表せている自信はないが、子供が欲しいのではなく、お腹にいたその子が欲しくて愛おしいのだ。だから、流産したことを残念なことだと思ってくれない先生に不満が募ってしまったのだ。
「私、もし妊娠しても…ここには来たくない。」
「うん、別の所にしようね。」
この病院のやり方が合っている人もきっといるだろう。ここまでの人が時間をかけて診察を待っているのだから。ただ、診察を受けてこんなことを思ってしまう1患者もいると言うことを、この文章を呼んでくれた人だけでも知ってくれたら嬉しいと思う。
「早く、ぬいぐるみお迎えに行こう!」
気を取り直すためにも、足取りを軽くして車へと向かった。
あまり聞かない話だとは思うが、私と彼はお腹にいた子供の名前を考えていた。1カ月しかお腹にいなかったのに?流産するまで認知していなかったのに?と思うかもしれないが、2人で名前を付けることを決めた。私の夢の話にも少し関係するのだが、その子のことを忘れたくなかったからだ。私はよく不思議な夢を見る所為か、現実に起こった事なのか夢の中の出来事なのか区別がつかない事がよくある。今回の事も、あまりに衝撃的過ぎて夢の中の出来事と後で思ってしまわないか不安になってしまったのだ。
夢の中の黒い子ウサギが印象的だったので、私はその子の見た目から漢字を考えていたがなかなかしっくり来る響きが思い付かないでいた。悩みながら彼を迎えに行き、帰って来てからその話をすると彼は既に良い名前を思い付いていたようだった。
「願いが沢山叶うように、叶えるに多いで『叶多』はどう?今回はさ、やってあげたいことやその子がしたいこと何もしてあげられなかったから、こんな名前どうかなって…。」
「叶多。…叶多くん。」
「うん、叶多くん!」
この時はまだ検査結果が出る前だったが、私も彼も何となく流産であることは確信していた。
『叶多くん!』
私と彼の、初めての子供の名前が決定した。
ぬいぐるみ選びは何件もお店を回った。大きさや見た目、触り心地に至るまで『叶多くん』と思える子がどうしても欲しかったからだ。お店を回りながら、しっくりくる子が、叶多くんが見付からないと私が落ち込み始めた頃、彼がネットショッピングで良さそうな子を見付けた。Jelly catと言うブランドのぬいぐるみだ。見せてもらった瞬間、これだと思った。彼はネットで買うかと私に尋ねて来たが、私はどうしても直接叶多くんを迎えに行きたかった。調べたところ、市内に何件か取り扱い店舗を見付けることが出来た。初めは本物の赤ん坊くらいのサイズの子を探していたので、なかなかコレだと言う子に出会えなかった。店員さんに聞いてもらったところ、メーカーの方でも大きい子は余り在庫にもいないらしい。どうしようかと悩みながらまだ他にも行ってない店舗があったので移動することにしたが、壁側の棚に1体だけ置かれていた子が何となく気になった。
多店舗でも、状況はどこも同じようなものだった。彼が店員さんと話したりiPhoneで調べてくれたりしている時、なぜだか壁側の棚の子が頭に浮かんできた。浮かんでは消え、浮かんでは消え、どうしても頭から離れない。
『…あの子がそうだったんだ。』
そう思った瞬間から、早く迎えに行きたくて行きたくて堪らなくなった。彼にあの子がいいと伝え、急いでそのお店に戻ってもらった。店員さんも覚えてくれていたようで、戻って来てくれたんですねと彼に言ってくれていた。私はそんなことはどうでもよくなってしまっていて、ただ叶多くんを優しく抱きしめていた。
「叶多くん、ここからママーって呼んでたんだね。」
「すぐに気が付かなくてごめんね…。」
涙ぐみながら叶多くんを抱える私を、彼は優しく抱きしめてくれていた。
叶多くんをお迎えした後、その足で洋服も買いに行っていた。ウィンドウショッピングをしながら似合いそうなものを探していると、MIKIHOUSEのベビー服が目に付いた。ふわふわの真っ白なポンチョで、クマの耳がフードに付いた可愛らしいデザインのものだ。私は一目で気に入った。店員さんに購入の意思を伝えると、生まれたばかりから数年は使えるデザインと言うことや、防寒面の優秀さなどをすごく丁寧に説明してくれた。まさか、もういない子へのプレゼントだとは思っていないだろう。彼に子供の事を質問する店員さんは、子供の事を想像してくれているのか幸せそうな顔をしてくれていた。彼には夢で見た子ウサギ姿の叶多くんの事を細かく説明していたので、店員さんにはその特徴を答えていた。
袋にクマさんのポンチョを包むとき、せっかくだから名前を書いて贈ったらどうかと提案された。私は戸惑っていたが、彼がせっかくだからと私達2人の名前と叶多と言う字を頼んだ。確認の為と見せてもらったお祝いの紙には、筆ペンを使った綺麗な文字で3人の名前が書かれていた。
車に戻ってすぐ、叶多くんを袋から出してあげた。ふわふわのウサギの姿をした叶多くんを抱きしめ、すうっと匂いを吸い込んだ。不思議と赤ちゃんのような香りがした。この日は子供には少し肌寒い日だったので、私はいそいそと袋から買ったばかりのポンチョを引っ張り出した。プレゼントだと思っていた店員さんは、MIKIHOUSEのロゴが書かれた可愛い巾着状の袋を用意してくれていた。勿論、お祝いの紙も丁寧に入っている。ベビー服を着せる経験などなかった私は、彼に手伝ってもらいながら叶多くんにポンチョを着せた。正直、ポンチョを着た叶多くんは誰よりも可愛かった。きっと、子供を持った親は皆同じ事を思うだろう。ぬいぐるみの姿をした我が子だが、私と彼の瞳にはしっかりと人の姿として映っていた。
「凄く可愛いね、叶多くん!」
フードを被せ、色々なポーズを取りながら彼に自慢げに見せた。
「もうママに遊ばれてるじゃん!」
少し笑いあった後、3人で抱き合ってしばらく泣いた。
「「「やっと会えたね。」」」
最後まで読んでいただきありがとうございました。そして、後書きまで読んでくれることにより一層の感謝を申し上げます。
叶多を手に抱きながら、私はずっと思っていたことがありました。流産の話をすると、皆一様に「残念だったね、次があるよ。」と言うのです。私達の事を思ってくれての言葉なのでありがたいとは思いますが、私が欲しい言葉はそれではないとどうしても思ってしまうのです。私は、この世に叶多と言う命が産まれたことへの祝福の言葉が欲しくなってしまったのです。勿論、「残念」と言う言葉が流産に対してのものだと言うことは理解しています。これは単に私の個人的な願望なのですが…ベビー用品のエリアは皆祝福に包まれています。産まれて来たことへの祝福に。叶多も、お腹から出ては来られなかったとしても、短い命だったとしても、この世に生はしっかりと受けていたはずです。それなのに、誰も…家族でさえも生に対してお祝いの言葉は言ってくれませんでした。勿論私も…。もし叶多がこの事を知ったら悲しむのではないか、と言う妄想に私は取りつかれました。「誰も叶多くんにおめでとうって言ってくれない。」当たり前のことです。しかし、ここは文章の世界。この話を読んでくれた方だけでもいいのです。叶多がこの世に生を受けたことへの祝福の言葉を、心の中でだけでも唱えてくれると嬉しいです。
「叶多くん、私をママに選んでくれてありがとう。」
fin