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盆を過ぎると山陰は、公園のベンチまで届く様になった。
「ありがとうございます、吉野さん。貴重な本を貸して下さって」
山下は両手を添えて一冊の本を吉野に返した。受け取った吉野は別の一冊を山下に渡した。
「え、すごい。これ西田先生の、絶版になっている作品ですよね?」
山下の笑顔が弾けた。しかし山下の表情が曇り始めた。吉野が「短い作品です」と言うと、山下は小さく微笑んだ。
国立大学の付属中学校から県下一の進学校。そして国立大学の医学部。これが父に示された山下の進路だった。
進学に必要の無い書籍を父は嫌った。山下の部屋にある本棚は参考書や辞書、実用書が並んでいた。小説は不要な道楽と父に言い切られ、幼稚園の時に読んだ児童文学書だけが思い出の品として残っていた。
山下は家で小説を読む事が出来なかった。小説を読めるのは学校の図書館、又はヤマキタの公園に限られていた。
山下はベンチに腰掛けて本を開いた。隣に座る吉野もページを捲っていたが、時折吉野は唐突に立ち上がり独り言を呟いた。山下は、吉野の呟きが小説の内容が吉野の内で飛躍して、換言された結果だと分かり始めていた。山下にとって吉野の行為は奇行では無くなった。山下は読書に没頭した。
一方で日なたの直樹と龍星は、今日もバッタを追っていた。
「やるじゃん直樹」
龍星の称賛に直樹は満面の笑みを見せた。直樹は捕らえたバッタを両手で覆って龍星に近付けた。しかしバッタの蠢きに直樹は驚いて、指の隙間からバッタは飛び出してしまった。表情を曇らせた直樹に、龍星は「大物とれるようになったじゃん」と言った。直樹は笑顔に戻った。
遠方から、しかし大きなバイクのエンジン音が響いて来た。直樹は両耳を押さえて、龍星と地表を覗いた。鉄塔の建ち並ぶ田舎道を、銀色に輝く改造バイク数台が轟音を立てて走る様子が見えた。
例年であれば今夜、市街地で花火大会が行われるはずだった。しかし新型感染症が蔓延するこの年は中止になった。それでも彼等は市街地に向かっていた。
直樹は小学校に上がる前に一度だけ、母と花火大会の会場に行った。花火の爆音は正直苦手だったが、会場の光景は直樹の心を躍らせた。露店の並ぶ通りは昼間の様に明るく、浴衣や洒落た夏服の色彩が、幼い直樹の目の前を途切れる事無く通り過ぎた。蛍光色の手飾りは特に、直樹の目を釘付けにした。
直樹は龍星に、この公園で祭りが開かれて欲しいと言った。龍星は「あんなバイクが来ていいのか?」と直樹に聞いた。直樹は困った顔をして、龍星は笑った。
「それなら文学祭はどう?」
本を畳んだ山下が、直樹と龍星に言った。
「それって何ですか?」
龍星が山下に聞いた。
「本が好きな人の祭りよ」
「まじめな人の祭り?」
龍星の理解に山下は頷いた。
「プロの作家さんが来てトークショーやサイン会をしたり。西田先生が来たら日本中、世界中から人が集まるわ」
山下はそう言ってから「まあ、夢だけどね」と言って笑った。龍星は「ゆめなんだ」と言って、考え事をする様な表情に変わった。直樹は「おみせ」を連呼して、山下は「お店もあるよ」と答えた。喜んだ直樹を見て、龍星は笑った。
三人の交流を、吉野は穏やかに眺めていた。