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 夏休みが始まった七月のある日。ヤマキタの公園を目指して、一人の小学生が坂を上っていた。六年生の山下結花(やましたゆか)。小学校の生徒会長で、高級住宅街の子供会長も務めていた。 

 山下は大人達から使命を受けていた。二年生が二人だけで、ヤマキタの公園で遊んでいる。それを問題と言い出したのは、町内会の高齢者達だった。彼等の主張を要約すれば、公営住宅の中でも程度の低い家庭に育つ児童が、町内の端に在る汚らしい不審者の居る公園で、反体制運動に参加する母の下で育つ障害児とつるみ始めた、だった。

 高齢者達は血気盛んに「乗り込む」と言ったが、何か起きている訳で無い状況で何かを起こし兼ねない彼等の行動を、小学校のPTA会長が言葉を選んで止めた。その為PTAで対応が検討されたが、校区内で遊び、しかも門限を守っている状況で大人達が行くのは、それこそ不審者を刺激するだけとの話になった。だからと言ってヤマキタに低級な児童達が集まり始めれば、それこそ非行の巣窟と成るおそれがあり、芽は摘んでおきたかった。

 大人達は高学年に様子を見に行かせようと考えた。児童の内で適切に、言葉を誤って不審者を刺激するおそれの無い児童は山下で、山下とあと数名で行かせてはとの話になった。しかし大人達の丸投げに頷ける児童は山下以外に居なかった。

 山下は「大丈夫です。私一人で行きます」と大人達に言った。大人達は「子供一人だけで行くのはどうか」と山下に言った。山下は「私は危険な場所に行くとは考えていません。二年生が二人で遊べる場所ですから」と、笑みを湛えながら大人達に答えた。

 山下は、大人達が責任を負いたがらない事を知っていた。大人達の「君がそう言うのなら」との反応は、山下の想定通りだった。

 加えて山下は、山下に力を貸す児童が居ない事も知っていた。山下の学力は群を抜き、運動も得意としていた。その上見た目も良い山下を、街の宝と言う大人は少なく無かった。一方で児童達、特に女子は山下と距離を置いていた。女子の内で一つでも山下に勝る部分がある者は居らず、山下と居れば惨めになるだけだった。親しい者の居ない山下を陰で蔑む事が、女子達の自尊心を保つ方法になっていると山下は気付いていた。

 ただ山下は、一人だけの訪問に不安が無い訳では無かった。ヤマキタヘ行く日、山下は大人達からボタン一つで警備員が駆け付ける子供用の携帯電話と、誰の差し入れか、ポケットサイズの催涙スプレーを渡された。山下は形式的な遠慮を示した後、それ等を受け取った。 

 ヤマキタに続く坂道は、全力疾走が必要な場合の準備運動と考えながら山下は上った。服装は動き易く、また露出の少ない物を山下の母は用意してくれた。母は心配を口にしなかったが、何時も母は山下に最大限の配慮をしてくれた。そんな母を唯一の味方だと山下は感じていた。

 その一方で県庁の上級職に就く父に対して、抱いているであろう想いを口にせず、日々の家事を黙々とこなす母を見て、自分も何処か似ていると山下は思っていた。実際に今、課せられた使命に不満等を口にせず向かう自分自身を、惨めに感じる瞬間もあった。

 坂を上り切り、ヤマキタに到着した。公園の石段を上ると、叢の中に直樹と龍星が居た。山下に気付いた二人は意外との表情を見せたが、龍星は、続けて直樹も「こんにちは」と山下に挨拶をした。彼等の礼儀は山下にとって意外だったが、穏やかさを意識した「こんにちは」を山下は返した。

 吉野はベンチに座って本を読んでいた。山下は吉野に挨拶をして、吉野は会釈を返した。山下は笑みを崩さずに居たが、吉野の黄色い爪と茶色の肌等々は、山下が生まれて初めて目にする不潔さだった。

 龍星は器用に草の葉で笛を作り、音を奏でていた。直樹は丸めた葉を口にあてがったが、呼気が聞こえるばかりだった。俯いた直樹を龍星は、オオバコの茎を使った草相撲に誘った。引っ張り合う度に手を滑らせる直樹に、龍星は茎の握り方を教えた。彼等なりに盛り上がり、山下の目にも、ゲームのプレイ動画ばかりを視聴している住宅街の男児達と比べて健全に見えた。

「どうしてここに来たんですか?」

 龍星が山下に尋ねた。低学年としては上等の丁寧語で、事前の松原家に関する情報からは想像し難いものがあった。山下は龍星に答えた。

「人がほとんど来ない公園で、低学年が二人で遊んでいるって聞いたからよ。子供会長として様子を見に来たの」

 龍星は不思議そうな顔をしてから答えた。

「大丈夫ですよ、吉野さんがいるから」

 その時吉野はベンチの周りを歩きながら、何かを呟いていた。噂通りの奇行で、山下は龍星の言葉を当然鵜呑みに出来なかった。ただ早計に奇人と断定する訳にはいかないと考え、山下は吉野に名と役職を伝えた上で尋ねた。

「学校から遠い公園で小さい子供達が遊ぶ事に、心配する声も出ています。大人のご意見を伺えればと思うのですが、いかがですか?」

 催涙スプレーは、下ろした右手の直ぐ傍にあった。真っ当な返答があるとの期待を、山下は微塵も抱いていなかった。

 吉野は本を閉じて、山下に顔を向けた。硬くなろうとする表情を何とか抑えた山下に、吉野は穏やかな口調で答えた。

「おっしゃる通り、小さな子供が遊ぶには適した場所で無いかも知れません。ただ他の子以上に身体の小さな直樹君にとって、ここは大切な遊び場です。何よりも直樹君と遊んでくれる子は、龍星君が初めてです」

「私は病気の身ですので、大人として期待される程の事は出来ないかも知れません。でも私は、この環境を守ってあげたいと思っています」

 想定外だった。その表情を吉野に見せてしまったと山下は気付いた。焦る山下は適切な返答を見付け切れずに、「分かりました」と、上の立場にある様な言葉を残してヤマキタの公園を後にした。

 思考と感情の整理を付けられないまま、山下は町内会やPTAの大人達が待つ公民館に到着した。大人達は(こぞ)って山下に結果を尋ねた。濃密な視線を浴びる山下は、せめて動揺を悟られない様に声色を繕った。

「まだはっきり分からないので。明日、もう一度確認に行きます」

 大人達の顔が、期待外れの表情に変わった。山下は自身を卑下する感情に続けて、この大人達の狭小さを思った。

 翌日、午後三時過ぎ。ヤマキタの公園に山下がやって来た。山下は直樹と龍星に挨拶をした後、ベンチで読書する吉野の傍に歩み寄った。

 顔を上げた吉野は、山下に会釈を見せた。山下は吉野に向けて、深々と頭を下げた。頭を下げたまま山下は言った。

「貴方がいらっしゃる所に様子を見に来る事自体、失礼な行為でした。本当に、すみませんでした」

 昨夜、自室のベッドで山下は確信した。外見に惑わされず、噂から耳を塞ぎ、確かに聞いた言葉と伝わった感情を比較すれば、公民館に居た大人達と吉野。比べるのも失礼だと思った。通報装置付きの携帯電話と催涙スプレーは自宅の隅に置いて来た。山下は自分の心に従おうと思った。

 低頭したままの山下に、吉野は言った。

「失礼という事はありません。ただ、そう言って頂ける経験が無かったので。有難うございます」

 皮膚の茶色より、吉野の柔和な、紳士を感じさせる表情が山下の目に留まった。山下はもう一度頭を下げて、吉野は会釈を返した。

 吉野は視線を手元に移し、読書を再開した。吉野が手にする本の表紙に山下は気付いた。

「それは、西田幸恵(にしだゆきえ)先生の小説ですか?」

 山下は吉野に尋ねた。吉野が頷くと山下から言葉が溢れた。

「私、西田先生の本が大好きなんです」

 山下は西田幸恵の小説に関する話を続けた。続ける程に高ぶる山下の話を、吉野は頷きながら聞いていた。好きな話題を好きなだけ口に出来た高揚に山下は満たされた。そして時折語られた吉野の解釈は山下にとって興味深く、奥深く、これ程の造詣の深さに山下は接した事が無かった。

 自宅を経由して公民館に現れた山下は、大人達に報告をした。

「特に問題は無いと思います。時々、様子を見に行こうと思います」

 山下は催涙スプレー等を大人達に返却した。大人達が見せた表情から目を逸らし、山下は公民館を後にした。

 山下は、大人達が想像した時々よりも頻繁に、週に一度は必ずヤマキタの公園に顔を出した。

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