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空梅雨の続く土曜日の午後。小学校の体育館で、二年三組の学級レクリエーションが催された。
別名親子レクリエーションで、夜の仕事に備えて昼は寝ている母と、昼から飲酒する父と暮らす龍星は参加を考えていなかった。しかし学級の担任が「先生と一緒に楽しもう」と何度も勧めて来たので、龍星は仕方無く顔を出した。
休日の龍星が居場所に困っていた事は確かだった。自宅に居れば酔った父が絡んで来るので、せめて昼間は外出したかった。しかし龍星を家に呼ぶ児童は皆無で、公園も、龍星が住む公営住宅街には二つあったが、大きな公園は中学生やその卒業生達が、原形を留めないオートバイを並べて居座っていた。小さな公園には次世代を担う五、六年生達が屯し、低学年が遊べる場所は残っていなかった。
学年レクリエーションはいかにも幼児向けの、ボーリング的な球遊びや、オーバーリアクションの踊り。そして親子で楽しめる玩具を賭けたじゃんけん大会だった。龍星は楽しい振り、仲良しの振りをするのが苦手だった。担任の目があったので動作は真似をしたが、表情は能面以外を見せる事が出来なかった。
レクリエーションの終了時、児童達に駄菓子が配られた。十円菓子が数個入った紙袋に狂喜する周囲を傍観していた龍星だったが、ふと龍星は、機会を得た気がした。
龍星は特別支援学級の男児、直樹がヤマキタの住人だと知っていた。龍星の耳にもヤマキタは、部外者が足を踏み入れる場所では無いとの噂が届いていた。詳細を知らない龍星にとって、ヤマキタは少しばかりの怖さと、それ以上の好奇心を抱かせる場所だった。
ヤマキタに入るには、多少なりとも理由が必要な気がしていた。親しい訳では無いが知人が居て、今は手土産もあった。自宅とは方向が真逆だったが、龍星は紙袋を手にヤマキタへ向かった。
住宅街の北に続く坂道を龍星は上った。上る程に小さくなる家々の形状は目に留まらず、踵までずれ落ちた靴下を直す事もせず、龍星は黙々と上り続けた。トランポリンの直樹が、あれ程真直ぐに飛べる理由が分かった気がして、龍星は意地になる心地を抱いていた。
住宅街を過ぎると、細道が先に続いていた。舗装はされているが、脇から伸びる草木が道幅を更に狭めていた。しかし平坦で、一息ついた龍星の視野は広がった。右側には山と言うより崖が聳えて、蔓の巻き付いた左側のフェンスからは、遠い地表の景色が垣間見えた。地表への遠さは龍星の歩みを急かせた。
暫く行くと道が開けた。雑草が生い茂る区画の先にアパートがあり、その傍には公園らしきものが見えた。歩みを進めた龍星は公園の石段を上った。
上る途中で龍星は、ベンチに腰掛ける吉野を見付けた。龍星が視線を逸らす前に吉野と目が合い、龍星は慌てて会釈をした。吉野は龍星に会釈を返して、再び手元の本に目を移した。龍星は残りの階段をそっと駆けた。
直樹は公園の真中辺りで屈み、石を並べていた。直樹はなかなか気付かず、龍星は声を掛けた。
「よう」
直樹は顔を上げた。龍星は片手を挙げた。
直樹は無反応だった。ヤマキタの公園に何者かが現れる事自体、初めてだった。更にそれが直樹にとってのヒーローだったから、直樹には当然の反応だった。
龍星は直樹の傍に寄り、小声で尋ねた。
「あの人、お前の父ちゃん?」
間があって、直樹は首を横に振った。二人の会話は続かず、龍星は早速紙袋を開けた。
「もらったから、お前も食べろよ」
駄菓子。直樹は駄菓子を食べた事が無かった。母が買ってくれなかった訳で無く、直樹が欲しがらなかった。駄菓子が何物であるかを、直樹はよく知らなかった。
龍星は駄菓子を一つ取り出した。指を這わせて開封すると、赤みがかった棒状のスナック菓子が姿を見せた。直樹はそれを凝視した。
「やるよ」
直樹は手に取った。思いの外軽かったそれを直樹は頬張った。給食等では体験出来ない濃厚な味付けだった。とても美味だった。
発語無く口を動かし、食べ終わった直樹は龍星の持つ紙袋を見詰めた。龍星は笑って、もう一つ取り出して直樹に渡した。未開封だったそれを直樹は開けようとしたが、開ける途中で棒の上端が崩れて、直樹は手を止めた。龍星はその駄菓子を、中身が出て来る程度にそっと開いた。
龍星の準備を待ち、与えれば無心に頬張った。邪気の無い直樹を龍星は期待して、その通りの直樹は龍星を満足させた。
翌週の土曜日。龍星は再びヤマキタの公園にやって来た。
「やるよ」
駄菓子が二つ、龍星のポケットから出て来た。直樹は頬張り、その間に龍星はもう一つを開封した。二つ目を食べ終えた直樹に、龍星は言った。
「じゃあな。ゴミはお前が捨てとけよ」
両手に空袋を手にした直樹は、出口に向かった龍星を追い抜いて、自宅に向けて駆けて行った。しかし石段を降りる手前で、ベンチの吉野が直樹に声を掛けた。「私が捨てておくよ」と、吉野は言った。
直樹は龍星の方に向いた。龍星からの指示は無く、直樹は吉野に空袋を渡した。
龍星はその後も、土日のいずれかにはヤマキタの公園に顔を出した。特に遊ぶ訳で無く、必ず駄菓子を持って来て直樹に与えた。空袋はその度に吉野が回収した。
父の酒代に消えて、龍星に小遣いが与えられる事は無かった。ただ公営住宅に住む児童達は、小学校の通学路にある商店の、老いた男性店主は無口だと知っていた。龍星のポケットが膨らんでいても、店主はやはり無口だった。緊張したのは二回目までだった。龍星にとってその商店は、ヤマキタの改札口だった。
涸れたまま梅雨が明けた土曜日の午後。龍星は商店に立ち寄った。
駄菓子を二つポケットに入れて、龍星は商店を出て行こうとした。すると店主が龍星に声を掛けた。正確には、店主の呟きを龍星は耳にした。
「君の分を、払ってくれる人がいるんだよ」
動揺よりも、龍星は察した。店主と目を合わせずにポケットの駄菓子をレジ台に置いて、龍星は商店を駆けて出た。
駆けた勢いで、龍星は走り続けた。住宅街の坂を上り、ヤマキタの公園まで走り切った。汗を拭わず呼吸だけを整えて、龍星は直樹に言った。
「菓子は、持ってこれなくなった」
龍星は吉野の方に向いた。一歩が踏み出せずにただ見詰めて、顔を上げた吉野に龍星は頭を下げた。吉野は龍星に会釈を返して、また本を読み始めた。
直樹は龍星に石並べを教えた。似た色や形の石を並べる遊戯に、龍星は楽しさを見出せなかった。しかし石探しの途中で黒曜石を見付けて、龍星が直樹にその貴重さを伝えると、直樹は楽しそうにして、龍星と一緒に黒曜石を探し始めた。