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自宅に戻った直樹は、公園にも行かず母に話した。助けてくれた人が居た事。しかしその人に、感謝を伝えられなかった事。食事の時も話し続けて、気付かない内に直樹は、普段口にしない緑の野菜を完食していた。
母は直樹に、明日学校で「ありがとう」を伝えれば良いと答えた。
翌朝。直樹は特別支援学級の教員に昨日の一件を伝えた。廊下を一人で歩く児童と聞いた教員は、二年三組の松原龍星だと直樹に教えた。そして教員は、その出来事を龍星の担任に伝えて、龍星を連れて来ると言って支援学級を出て行った。
直樹は教員を待つ間「ありがとう」を練習した。「あいがどぉ」は「ありがどお」まで上達した。
しかし支援学級に戻って来たのは、教員一人だけだった。授業が始まり平仮名の音読、数字の書き取り。いつもの活動が続いた。直樹は気になったが、教員が話題に触れなかったので、龍星も廊下を通らなかったので、直樹はどうすれば良いか分からなかった。
支援学級の教員が職員室を訪れた時、校長が龍星の担任と話をしていた。龍星が暴力を振るった、相手は市教育委員会の役職者の孫だと校長は言った。教員は、直樹への上手な伝え方が分からなかった。
下校時刻になった。皆でさよならの挨拶をして、直樹は廊下に出た。支援学級の靴箱は直ぐ近くにあった。
直樹は入学して初めて、靴箱へ向かわずに廊下の先へ進んだ。廊下の角を折れると普通学級の靴箱で、周囲には多くの児童達が居た。
直樹は龍星を探した。しかし見付けられず、直樹と距離を空ける児童達の間を縫って、更に廊下の先へ進んだ。
再び角を折れた静かな廊下には、職員室と、隣に校長室があった。校長室から大人達の声が漏れ聞こえていた。
「謝る事も出来ないのですか、この子は」
直樹は廊下側の窓から校長室を覗き見た。応接机を囲んで椅子に座る大人達の中に、直樹を苛めた児童が一人。そして龍星が居た。校長とその他数名の大人達は龍星に視線を浴びせていた。龍星の隣に座る金の刺繍を施したジャージ姿の男性だけが、目を閉じて腕を組んでいた。
直樹は高揚した。昨日から抱き続けた想いを抑える理由は、直樹には無かった。直樹は迷わず校長室の扉を開いた。
「あいがどぉ」
元気の良い、滑舌の悪い発声に、皆は視線を向けた。直樹を苛めた児童は直樹から目を逸らした。龍星と目が合い、直樹はもう一度龍星に言った。
「ありがどお」
龍星は直樹の登場の思い掛け無さに、硬い表情を瞬間崩した。それが直樹には笑った様に見えて、直樹から顔一杯の笑みが溢れ出した。余りにも締まりの無い表情に、龍星も表情を和らげて直樹に答えた。
「べつに、いいよ」
「ありがどぉう」
大人達の一人に促されて、直樹は校長室を後にした。
直樹の足取りは軽かった。遠ざかる校長室から誰かの怒声が響いて来ても、直樹の心は満たされたままだった。
翌日。支援学級のトランポリンで跳ねていた直樹は、廊下を通る龍星を見付けた。直樹はトランポリンで跳ねたまま龍星に両手を振った。視線を向けた龍星に直樹が何度も両手を振ると、龍星は片手を振り返した。
それから二人は、言葉は交わさなかったが、支援学級の窓を挟んで見掛けた時は手を振った。