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公園で石谷直樹は、いつも一人で遊んでいた。
直樹の身体は、何処かの部品が欠けているのか多いのか、挙動の度に手の平が羽ばたき、それが直樹の知能と何等かの関係があると、皆は薄らに気付いていた。直樹と遊ぶには配慮が必要で、同学年の二年生を始めとする小学校の児童達は、福祉教育の時間以外、直樹を仲間に加える事が無かった。
直樹の遊ぶ公園は「ヤマキタ」にあった。ヤマキタは市街地の北側に隣接する丘陵地に造成された大規模な分譲地の、北端に位置する山の裏手を指していた。碁盤の目に整備された分譲地は、一区画六十坪以上からなる高所得者向けの住宅街で、ヤマキタは町名こそ分譲地と同じだったが、日当たり不良で、僅かな平地部分の周囲は上向下向の崖となり、大手業者による開発の手は届かなかった。
地元工務店が社運を賭けてヤマキタに十数区画を造成したが、買い手は付かず工務店は倒産。工務店社長の自死した遺体がヤマキタで発見された事により、人は更に寄り付かなくなった。
今となっては区画の境界さえも分からなくなり、ヤマキタに在るのは、事情どころか場所さえもよく知らずに、大手賃貸開発業者の誘いに乗って高齢者が建てた木造アパートが一棟と、子育て世帯を客層とした故に造られた小さな公園だけだった。公園に在ったはずの遊具は債権者達の手に渡り、水道は用を成さず、トイレは元より無かった。誰の目にも手作りと分かる工務店作成のベンチだけが、使用し得る代物だった。
それでも直樹にとって、ヤマキタの公園は十分な場所だった。鉄棒やジャングルジムは、手首の弱い直樹が扱える物では無く、シーソーは他の公園で使用した際に、見知らぬ子供が乱暴に動かして転落してしまった苦い記憶を蘇らせた。
同じ色の石を並べたり、水溜の泥濘に手の平を当てて、その感触を味わう事を直樹は好んだ。邪魔する者の居ないそこでの遊戯を、直樹は際限無く続けられた。
直樹以外にその公園を訪れるのは、吉野久志と言う五十歳半ばの男性だった。吉野はヤマキタのアパート、直樹と同じアパートの住人だった。アパートには他にも高齢の女性が一人住んでいたはずだったが、ここ半年以上見掛ける事が無く、吉野は直樹にとって唯一の隣人だった。
吉野は毎日、午後三時になると公園にやって来て、ベンチで本を読み始めた。平仮名の読みを誤る直樹にとって、母国語とさえ思えない難解な漢字が踊る表紙だけを見ても、直樹の語彙には無い敬意を、吉野に対して抱いていた。
読書する吉野は頻回に立ち上がり、小声で何かを呟いた。良く聞く「でんぱこうげき」の意味が、直樹には分からなかったが、抑揚の無い吉野の低音は、甲高い声が苦手な直樹には心地良かった。吉野の白いはずのシャツは襟元を中心に黄ばみ、白髪頭さえも所々が黄金色に輝いていたが、彫の深い顔立ちはテレビに映る俳優達と大差無く見えて、直樹にとって吉野は自慢の御近所様だった。
午後五時になり、遠方から届く夕暮れのサイレンを耳に留めると、直樹は公園の出口に向けて駆け出した。叢を越えて出口の石段を下り始めると、隣接する自宅アパートの向こうに、田園を跨ぐ高圧線の鉄塔群と点在する民家が遠い地表に広がっていた。
直樹はその景色が大好きだった。地表までの遠さは直樹を浮遊させて、普段より大きく手の平を羽ばたかせた直樹は、石段を下りた勢いで自宅の玄関に着くのだった。
ノブを回すと扉は容易に開くが、閉めるには多少の力が必要だった。直樹が何度も試みる音を聞いて、母は玄関に顔を出した。母は直樹より少しばかり大きな手を伸ばし、ノブを手前に引いた。かちりと音を立てて扉は閉まり、直樹は母に笑みを向けた。母も直樹に微笑んだ。
直樹は母と二人で暮らしだった。自宅は四畳半の二間に台所。洗濯機は屋外で、浴室にシャワーは無かった。和式の便器は直樹が使えない為、プラスチック製の洋式便座が被されていた。
親子の会話は殆ど無かった。しかしそれは直樹も母も元より言葉の少ない二人だった為で、母は人一倍時間を掛けて食事を準備し、直樹を風呂に入れて、寝かせつけながら一緒に寝た。そんな母を直樹は大好きだった。
直樹の母が幼少の頃、軽度知的障害児が特別支援教育の対象になる事は、今以上に少なかった。母は小学校入学時から授業に付いて行けず、無計画故の大家族だった為に家も貧しく、義務教育終了後は寮のある工場へ就職する他の選択肢が無かった。
母は就職先で、人並に仕事を熟す事が出来なかった。ある日母が寮に戻ると、母の荷物が全て寮の玄関前に置かれていた。抱えられる分の荷物を持って敷地から出ると、母は見知らぬ男性から仕事を紹介された。
頭が悪くても、不器用でも、風俗なら仕事が出来た。
二十歳を過ぎた頃に、客として父がやって来た。年齢も近く、育った環境も、学業の程度も似ていた二人は、力を合わせれば幸せになれると夢を見た。交際を始めて間も無く母は妊娠した。母は仕事を休まざるを得なくなり、日雇の土木作業に従事していた父は、より高給を求めて、父の願いを耳にした同僚の誘いに乗った。
父名義で作った金融機関の通帳を、同僚に紹介された男性に渡すだけで二万円を受け取れた。父は街の金融機関を隈無く回った。
ある日、父は母の元へ戻って来なかった。代わりに公的機関の職員が来て、母を施設に連れて行った。
公的な支援の元で直樹は生まれた。公的な施設での生活を続けた事で、直樹の発達の遅れは早期に発見された。施設を出て、今のアパートに引っ越した三歳の頃から、直樹は民間の療育機関に通い始めた。
当初は母の傍を離れたがらなかった直樹だったが、次第に療育機関の庭に盛られた土山に向けて駆け出し、這い上がり、泥に塗れても笑顔を見せる様になった。直樹の汚れた服を洗う事は、母にとって喜びになった。療育機関を運営する法人が主催する集会への参加を、母は当然断らなかった。
旗を靡かせ、プラカードを手にした人々と、母は市街地を行進した。反対、反対。何を反対しているのか、母には分からなかった。ただ旗持ちの一人が、「子供達の未来の為に、私達が行動しなきゃ」と言うので、直樹が小学校の特別支援学級に進み、療育機関の利用を終結した後も、母は言われるままに集会への参加を続けていた。
午後九時を過ぎると、ヤマキタは灯りを無くした。ヤマキタに街灯は無く、アパートの住民は床に就いていた。ヤマキタを通る道は分譲地からの一本だけで、それはヤマキタで終わっていた。夜間に車両が通る事は無く、日中でも住民以外でヤマキタに立ち入るのは、郵便配達員と生活保護の担当者だけだった。