鵜野の里(3)
娘の命の恩人だということで半ば強引に多胡弥は佐良良の邸に連れてこられた。下にも置かぬもてなしぶりである。説き伏せられて夕餉を頂くことになった。百済の馬飼、佐良良の造善那。やはり欽明の帝の代に百済の聖明王より送られた良馬の世話係りとして、この地にやってきた百済人の裔だという。
ここ生駒山の河内側の麓には広大な牧が広がっている。馬飼も宇努の連や佐良良の造だけでなく何軒にも及ぶと言う。
「海の向こうの事は知らぬが、ここでは百済も新羅も関係ねぇ。」と善那は続けた。
「うちの家刀自とお隣の家刀自は、大の仲良しよ。向こうは新羅の王族の出らしいが、こちとら百済の馬飼よ。塩だって醤だって借りたり貸したりの仲だ。何の違いもありゃしねぇ。」酔いが廻ってきたのか、声が大きくなった。
確かにその通りだと多胡弥は思った。海を越えて倭国へ上陸した時点で戦の無い国へ着いたと思った。昔から東方に常世の国があると伝えられている。神仙が住む三神山があるとも聞いた。
ここ大和の国は、平和ということでは将に理想郷ではないか。
「大海人様の下で働いているのだと。こう見えても吾が家は、佐良良姫様の乳人であるぞ。何かの縁があるのであろう。のぅ。」
脇にいる勢津を指して膳那は言った。
「この子は佐良良姫様の乳姉妹じゃ。お主は、えー」
「二月ほど姫様より早い生まれでございます。」このやり取りは親子の間で何度も繰り返されているのか、勢津はぴしゃりと言った。
善那は今度は、多胡弥の方へ顔を向けると言った。
「馬飼は、良い仕事だぞ。まだまだ、この国では馬が足りない。馬は何処へ持っていっても引っ張りだこだ。」
何か意味ありげな言い方をした。そして続けた。
「隣に馬の算段に来たのであれば、その必要は無い。儂が大海人様の下にお届け致すまでのことよ。のぉ。」
「いい加減なことをお言いでないよ。まったく酔っ払っちまって、しょうがないね。」と家刀自に促されて、善那はふらつく足で出て行った。
「ごめんなさい、父上の悪い癖で酔うと気が大きくなるものだから。」と勢津が言い訳を言った。
馬は軍馬や駅馬そして物資の輸送に貴重な存在であったから、朝廷の管理下にあった。一匹や二匹の誤魔化しはできても多くの頭数を動かすことは出来ないのである。
勢津は周りを片付けると床をつくり出て行った。多胡弥は横になると思い出していた。峠道を下って来る中で急に黙り込んだ勢津の仕草。小柄だが目鼻立ちの整った瓜実顔。何よりも馬上で鞭を振り回していた気丈さ。
《惚れたのか》と思った。
佐良良の邸の前で、別れ際の挨拶に絡み合った瞳と瞳。
《あれを、目交うと言うのか。》
寝返りを打ち横になった。
すると夜着に着替えた勢津が入って来て多胡弥の脇に立った。多胡弥が勢津の手を取ると、勢津は多胡弥の胸に入って来た。
「儂で良いのか。」多胡弥が聞いた。
勢津は多胡弥の胸の中で頷いた。