鵜野の里(2)
「何としても、新羅出兵は抑えねばならぬ。」宇努の連庭琴は言った。
新羅の馬飼、宇努の連の邸である。
欽明の帝の代に外交使節として倭国に派遣された新羅王子金庭興の裔である。新羅が任那を併合するに及んでその言を左右した外交の不実を欽明帝に咎められた金庭興は、そのような不徳義の国には帰りたくないとの口実で倭国に止まったのである。それ以来、新羅への倭国側情報の連絡施設としての役割を担っている。
「文武王より、できる事は何でもせよと言ってきておられる。」
「できる事とは。」多胡弥が尋ねた。
「黄金三百両が届けられている。これに転ぶ者は居らぬだろうか。」
現在の近江政庁の有力者の中に、黄金に転ぶ者があるだろうか。多胡弥には思いつかない。
「大海人様なれば、もしや心当たりがあるやも。」多胡弥は言った。
「ふ〜む。既に大海人様に心の内を見せている者以外でじゃ。」
《やはり目の前にいる男では役不足のようだ。やはり儂がやるしかないようだ。》と宇努の連は考えている。
「それから、金庚信将軍が倒れられたようだ。」と、宇努の連は続けた。
「それは、真で。」多胡弥が尋ねた。
「倒れられたとしか聞いておらぬ。一月ほど前のことじゃ。」
多胡弥は鼻の奥が熱くなってきた。父とも祖父とも慕う庚信将軍が倒れた。新羅人だけでなく加耶人にとっても救国の英雄である。
加耶を併合した新羅は、加耶の王族を新羅の貴族として待遇した。金庚信は、その加耶王家の末裔である。新羅の先の武烈王が政治と外交を担当し金庚信が軍事を担当して今の新羅という国を動かしてきた。
母の遠縁にあたる庚信将軍に預けられることで多胡弥は金城の花郎徒に入れたのだった。
多胡弥が生まれたのは南加耶の金海である。金官加耶と大和人が呼ぶ地域である。何故そう呼ぶのか多胡弥はしらない。
多胡弥は、倭系百済人の父と加耶人の母から生まれた。
倭国語が堪能なことから、二年前に高句麗が滅んだ後に倭国へ送られた新羅使金東厳一行の通訳としてこの国へやって来た。
新羅使一行は倭国との友好を謳い唐との戦闘の為、倭国への侵略の意思の無いことを表明した。倭国側はこれを歓迎し新羅王に船一艘を贈った。また内大臣の鎌足からは金庚信将軍に対して、やはり船一艘が贈られた。その返戻のひとつとして、多胡弥が新羅側への連絡役として残されたのである。その日から多胡弥は鎌足邸の食客のひとりとなった。
天智より死期の迫った鎌足に対して大織冠と藤原の姓を与えられた際に使者として訪れた大海人に、鎌足より奇貨として多胡弥は託されたのである。
「お隣の佐良良殿がお見えです。」外からこの家の家刀自が呼びかけた。
部屋から出て行った宇努の連は、すぐに戻ってくると言った。
「お主に用があるそうじゃ。」