鵜野の里(1)
平群の里を北へ向かい、俵口より生駒山に登る。人家が遠くなると山道は、獣道となった。麓から見た生駒山は春の陽射しを浴びて青く霞んで見えたが、杉木立の中の道は暗い。
清滝峠を越え、下り始めた多胡弥は人の争うような声に立ち止まった。それも女の声だ。馬の鼻息も聞こえた。
「己ら、ただでは済まぬぞ。」
見ると若い女だ。細袴をはき馬に跨って鞭を振り回している。坂の上から白髪交じりの男が馬の轡を取って引いている。女が振るう鞭は馬の頭の上を右に左に掠めるばかりで男には届かない。
馬の後ろにはその男の息子であろうか、若い男が事の次第を見つめている。更にその後ろには俵荷駄を背の両側に括りつけた駄馬の轡を持った女がいた。足元には男が倒れている。
《山賊、追い剥ぎか。山道はこれがあるから困る。》と多胡弥は周りを見廻した。既に若い方の男に姿を捉えられたようだ。
「待たれよ。何事か。」声をかけた。
驚いたように振り返った白髪交じりの男は、多胡弥が一人なのを見て取ると勝ち誇ったように微笑んで言った。
「痛い目に会いたくなくば、すっこんでろぃ。」
「見たところ、隠れる場所も無いんでな。」と顎を廻して言うと多胡弥は懐に右手を忍ばせた。
「何うぉ」と男は叫ぶと手にした四尺ばかりの棒を振り上げて襲ってきた。
棒先が振り下ろされる間際に多胡弥の右手が裏拳に動いた。
「ぐうぇ」と叫びながら男が仰向けに倒れた。眉間が割れて血が噴出した。
馬の後ろにいた若い方の男が飛び出してきた。倒れている男を一瞥すると、
「この野郎」やおら殴りかかってきた。
次の瞬間に、やはり多胡弥の右手が裏拳に動いた。
「ぐわぁ」と今度は横っ飛びに坂道に崩れた。両手で押さえた若い男の鼻筋から血が滴り落ちた。
多胡弥が坂道を下って行くと駄馬の轡を取っていた女は山道を反れて熊笹の中を谷底の方へ逃げ出した。
馬から下りた女は、道端に倒れていた男を抱き起こした。
「連れの者か。」多胡弥が聞くと、女は肯いた。
「息はあるようだ。」と多胡弥は女から男を受け取ると背中に廻って気を入れた。
「うっ」と呻って男は息を吹き返したが、歩くことは難しいようだった。女は男を自分の乗っていた馬に乗せると山を降りることにした。
「何処まで行かれまするか。」と男を乗せた馬の轡を取りながら女が聞いた。
「鵜野の里まで。」やはり駄馬の轡を取っている多胡弥が応えた。
「鵜野の里は我が家のあるところです。鵜野の里のどちらまで。」
「宇努の連殿の館まで参ります。」
「あら、お隣ですわ。お隣の佐良良の家の勢津と申します。」勢津と名乗った女は、名乗った後で心臓がどぎまぎしてきた。この国では年頃に成った女が男に住まいと名を教えれば、それは夜に男が女の元を訪ねてきても良いと言うことを意味していた。
勢津は耳が熱くなるのを感じた。赤くなった耳をこの男は見つけただろうか。高鳴る心臓に頬を染めると俯いた。