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鬼の室(1)

大后(おほきさき)倭姫(やまとひめ)の宮へ大津の皇子に漢文を教えに来ていた鬼室集斯(きしつしゅうし)が暇乞いの挨拶の為に庭で待っていた。倭姫が現れると膝を折り、両腕を合わせてその中へ額ずいた。

「大后様には、ご機嫌麗しゅうに。」

「大津の様子はどうですか。」

「大津様は、聡明なお方でございます。飲み込みがはようございます。」

倭姫は、集斯の言葉に満足したように肯いた。

「そうであろう、天智の帝がえらくお気に入りでな、《あれは吾に良く似ておる》と仰っておいでじゃた。」


大津の皇子は、大海人に婚いだ天智の娘の大田皇女の長男である。娘の側から見れば孫であるし、弟の大海人側から見れば甥である。天智は四人の娘を大海人に婚せているから孫でもあり甥姪でもある皇子女が何人もいた。しかし長女でもある大田皇女が早世した為に不憫に思ったのか、大伯と大津の姉弟を皇后の倭姫に預けたのである。特に大津の皇子には目をかけていた。


鬼室集斯は、百済復興運動の中心的役割を演じた鬼室福信の子である。白村江の敗戦の後に玄界灘を越えてきた百済人の一人である。昨年、賜爵された百済人五十余名の一人である。小錦下となり学識頭(ふみのつかさのかみ)となった。近江朝廷内の学問の最高権威であり、貴族の末席に加えられたのである。


鬼室福信は百済滅亡時の王である義慈王の従兄弟と伝えられる。百済王と同じ扶余姓であったが、百済復興運動の中で本拠とした周留城の近くの岩窟に住み、そこを鬼室と称して敵味方から懼れられた。倭国に(むろつみ)として来ていた百済の王子扶余豊(ふよほう)を百済王として冊封し送り出した天智の帝によりこの時、同時にこの鬼室の姓が賜姓されたのである。天智の帝は義侠心だけで百済復興を応援した訳ではない。唐・新羅を排除した後は、百済を倭国の冊封国とする心算であったのである。


「このまま学問を進められれば、大友の皇子様より上達されるやも知りませぬ。」百済から渡って来てすぐにその学識を買われて大友の皇子の漢籍の師となった集斯であった。

外国(とつくに)の言葉であれば、子供の頃から慣れ親しむのが良いのであろう。」

「御意の通りでございます。」と集斯が応じると

「それにしても(なれ)には、百済訛りがありませぬのう。聞く所によれば、百済人は百済人だけで寄り添い未だに倭国の者たちと打ち解けぬ者たちもいると言う。倭語も不自由な者も居ると言う。」と倭姫は、訝しげに聞いた。


「身一つでやって来た者たちばかりでございます。いまは生活するのがやっとでございます。今しばらくお時間を頂ければと存じます。」

「そうであろうか。百済に帰るつもりで居るのではないのか。」倭姫は詰問するように言った。

「決してそのようなことではありませぬ。」少し口ごもりながら集斯は応えた。

(なれ)達は、倭国の官人です。もしそのような声があっても汝達が抑えてくれなければ困ります。」倭姫は続けた。

「新羅出兵などと口にする者たちも居るやに聞く。いまそのような事態になれば、この国はもちませぬ。大后として吾は許しませぬぞ。」




倭姫の父、古人の大兄が謀反の嫌疑により討たれた時には既に、彼女は乳部(みぶ)倭漢氏(やまとあやし)の元に引き取られて居て家族とは離れていたから唯一人助かった。

それから何度、自分の宿命を呪っただろう。中の大兄と呼ばれた天智の帝に婚わされた時、なにゆえ父や母の敵である男に嫁がねばならないのか。運命の皮肉に嘆きもした。

舒明帝の孫娘でなければ、天智の帝は吾を振り向きもしなかったであろう。吾は、ひたすら大君として即位することを望んだ男の飾り物でしかなかった。


しかし、今は違う。蘇我本宗家を滅ぼして父を奪った、孝徳の帝も石川麻呂も鎌足や天智の帝でさえも居なくなった。今この国で吾に指図できる者など誰もいないのじゃ。

吾は勝った。もう耐え忍ぶことなど何も無いのじゃ。吾は、吾の思うように生きていく。

ふと斉明女帝の面影が浮かんだ。

吾も斉明様のように生きられるだろうか。




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