吉野宮滝(2)
遠くでせせらぎの音が聞こえる。先程まで千字文の漢字を舎人の恵尺について練習していた草壁と忍壁の皇子二人が、解放されたのか外に飛び出していった。同い年の為もあり、いつでも二人一緒で何か企んでいるようだ。[木穀]媛娘は、それでも気を使って草壁を忍壁に草壁様と呼ばせている。それでもふざけ合って、どうかすると草壁と呼び捨てにしている。それでいいのだと沙羅羅は思っている。
夫の大海人が近江の京を捨てて来た以上、草壁が大君の座に着くことなど先ず無い。大友の皇子の若さから考えれば、大友と十市皇女の子が継いでいくのだろう。それであれば、ここ吉野の里でゆっくり暮らしていくのも良いと沙羅羅は最近では思えるようになった。
「姫様、陽も陰って参りました。夕餉には、何を頂きましょう。」と[木穀]媛娘が声をかけて来た。沙羅羅は振り向くと言った。
「大海人様が、お戻りかどうか解かりませぬが、十市様から送られた鮒寿司を頂きましょう。」と、杯をあおる仕草をした。
「そういたしますか。」[木穀]媛娘は笑顔で肯くと、炊屋の方へ出て行った。
大海人は日雄の離宮に泊まることが多くなってきていて一度戻って来ると何日も宮滝の吉野の宮を空けることが多い。気の知れた女同士の息抜きである。
ややあって、[木穀]媛娘が駆けて来た。
「姫様、こんな物が鮒寿司の桶の中から出て参りました。」と言うと小さな短冊を差し出した。
それには、謀 金 細人 とあった。沙羅羅には、何を書いてあるのかすぐに解かった。と同時に血の気が引いていく。座り込んで手をついた。
「誰か舎人に、これを皇子へ」と沙羅羅が言うと、[木穀]媛娘は外へ飛び出した。
沙羅羅は、祖父石川麻呂の事件を思い出していた。右大臣であった蘇我の石川麻呂が謀殺された時に、鎌足殿と大友村主が裏で動いたと噂に聞いている。沙羅羅には誰も教えてくれぬが、鎌足殿が動いたという事は、父の天智が動いたという事であるくらい今の沙羅羅なら解かる。
事件の時は、僅か五歳だったから何も解からなかったが、母が狂い死にしたのは覚えている。祖父の石川麻呂の事も記憶にはないが、可愛がって呉れていたと言うことは聞いた。優しかった母が突然何も言わなくなって、身重の身体で臥せっていた。
沙羅羅も姉の大田も乳母に引き取られたから、当時は何も知らなかった。弟の建の皇子を生んだ後に亡くなったと聞いた。建は言葉が喋れなかったから、不憫に思ったのであろう祖母の斉明帝の本で育てられた。その姉の大田も弟の建も今はもう居ない。祖父を奪い、母を奪い、父は天涯孤独となった吾から死しても猶、夫を奪うと言うのか。
叫びだしたい、狂いたい、狂っていた方がまだ良いではないか。大君というのは何なのか。せっかく掴んだ小さな幸せを、京から離れたこんな山の中へ取りに来るものなのか。怒りなのか絶望なのか沙羅羅には解からなかった。
草壁を抱きしめた。抱きしめて思った。この子だけは、誰にも渡さない。たとえ鬼神が襲ってきても、吾が護る。