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「もうっ、全然戻ってこないから心配したじゃんっ」
夕陽さんが寄ってきて、優しく抱きしめてくれた。髪を乱さないように、飾りがずれないように。器用だな、とそんな関係ないことを思った。
あの女の子とお母さんはキョトンとしていて、それでも知り合いに回収されたわたしを見て安心してるようだった。
「すみません、さっきちょっと言い合いしたから。お騒がせしました」
夕陽さんは親子の視線に気がついて、そう適当な説明をしてくれた。
気づけば大分と落ち着いていて、涙はもうほとんど止まりかけていた。何分か泣き止むまで夕陽さんは抱きしめてくれて、それがあったかくて、止まらなかった涙が止まった。
これがあの人たちなら、かつてのクラスメートたちなら、きっとわたしのことを嘲笑っただろう。でも夕陽さんは絶対に嘲笑わない。優しく微笑んでくれる。
きっと、とても心強かった。その笑顔に支えられた。
夕陽さんがなにも言わなかったのも、よかったのかもしれない。夕陽さんはわたしの傷を知っていても、理解したふうにわかるよとは言わない。
人のものさしが関係することに、わかるもなにもない。なにかしら、全く同じなにかがない限り、わかるなんて言えない。
わたしと夕陽さんには、全く同じ部分がきっとない。過去にトラウマがありますなんて、あまりに広すぎる。
だからわたしにも、夕陽さんのことはわからない。
「……ねえ、小島さん」
ふいに夕陽さんが話しかけてきた。
「ああ、よかった、目が腫れてなくて。あのね、魔法をかけてあげようと思うの」
魔法。なんとなく、その言葉だけで夕陽さんの言いたいことはわかった。
あの親子はもうすでにトイレから出て行ってて、今は二人きり。そうでなくても、ここにはメイク直しをするための椅子や鏡が用意されたスペースがある。
「いいかな?」
大丈夫、もう大丈夫。
遠慮気味に問いかけた夕陽さんに、わたしは大きく頷いた。
予想通り、魔法とは化粧のことだった。椅子に座らされたわたしは、手際の良い夕陽さんにされるがまま化粧をしてもらった。
いつもよりも色白になって、肌も綺麗に見せてくれて、頬にチークをのせて血色よく見せる。アイシャドウはほとんどわからない程度に薄め。最後に濃すぎない色のリップを塗られて完成。
ちょっと、変わった。大人びた感じ、背伸びした感じ。ほんの少し変わるだけナチュラルメイク。
それでも、魔法といっても過言じゃないくらい、それだけでふわっと色がつく。
「できたっ」
弾んだ声は楽しそうだった。それを聞いて自然と口角があがった。
「夕陽さん、ありがとう」
口からこぼれたお礼の言葉に、夕陽さんは嬉しそうにニコッと笑った。それから、ほんの少しだけ悲しそうに眉を下げた。
……申し訳なさそうにしてるみたいだった。悲しそうというより、申し訳なさそうだ。
夕陽さんに手を引かれてトイレを出て、ショッピングモールの中を歩く。さっきよりは前を向いて歩けている気がする。
ただ、だんだんと嫌な予感がしてきて、バクバクと心臓の音がうるさくなっていく。
でも、当たらなければいいと思う嫌な予感ほど、当たるもの。
「……あ、もしかして、キラ?」
誰かの声が聞こえた。誰かの声なんて言うまでもなく、聞き慣れた男の声だった。
呼ばれたのは夕陽さんだ。名前からしても、その人の視線が夕陽さんのほうを向いていたことからも。
「ユタさん、ですよね」
夕陽さんはそう言ってにこりと微笑んだ。どうして二人が知り合いなのかと気になったけど、名前からして多分SNSとかの知り合いなのだろう。
それならそれで、二人が知り合った偶然を呪いたくなった。
「今日いるのは知ってたけど、まさか会えるとは」
「ほんとにね! 嬉しいなあ」
口先では嬉しいと言いつつも、夕陽さんの目線はどこか冷たかった。冷ややかながらもニッコリとした笑みは、わたしに向けられるものとはまったく違っている。
どうか、帰って。そう願うも虚しく、ユタと呼ばれたその人はわたしの顔を覗き込んで首を傾げる。
「隣の人は友だち?」
驚いて思わず顔を上げた。なにを言ってるのと声が漏れそうになるのを、夕陽さんに腕を突かれ止められる。
「誰かに似てる気がするんだけど、」
予想外だった。とぼけて様子もなく本気でそんなことを言ってのけるのが。
今さら、知らないふりをするつもりなのか。最低な言葉で罵って裏切ったくせに、今さら、忘れたふりをすれば許されるとでも?
わかってるくせに、わたしが誰かなんて。誰に似てるかなんて気づいてるはずなのに。
でも、もしバレていないのであれば幸いだと、そう、油断したときだった。
「ゆたぁ? なにしてんの?」
ピリッとした空気を感じた。わたしの記憶がその声を全力で拒絶している。聞きたくないと耳を塞ごうとする。
「ん? ああ、さっき話してた、ネットで知り合ったキラさんと、その友だち」
ユタ、豊が、夕陽さんとわたしをその人に紹介する。
豊の言葉に彼女はわたしたちのほうを見て、二、三回まばたきをした。それからバシッと豊を叩く。
「ちょっとー、まなより可愛い子と友だちになるなって言ったじゃん!」
それも二人も、と、霧崎愛海はぷくっと頬をふくらませる。豊は楽しそうにケラケラと笑っている。
「関係ねえじゃん、もう付き合ってないんだし」
「意地悪言うなあ」
楽しそうな声に気持ちが沈んでいく。
だって、仕方ない。霧崎さんは、ブスだからとわたしをイジメた主犯だから。豊は、優しいふりをしてわたしを裏切った元幼なじみだから。
楽しそうな雰囲気に紛れて、夕陽さんはふふっと笑う。
「私はまなさんのが可愛いと思うな」
本音のようにさらっと霧崎さんを褒める夕陽さん。霧崎さんも悪い気はしないのか嬉しそうな顔をする。
だけどちょっと複雑な顔をして、ちらっとわたしを見やる。
「んー、でも、まなよりキラさんだっけ、あとその子の二人のがかわいいよ。まなも可愛いほうだけど」
敵わない、とにっこり笑みを浮かべる。嫌味のない笑みで、それは確かに敵わないと思っている、本心からの笑みだった。
霧崎さんは、自分が一番可愛いと言うタイプではなかった。自分より可愛い子を知っていたし、自分はその子より劣るからと普通に言っていた。
たまたま、同じクラスになったわたしが目をつけられて、イジメられるようになった。どうして目をつけられたのかなんて、単に暗くておどおどしてたから、くらいしか思いつかないけど。
霧崎さんは特別人を見下すことはなかった代わりに、人一倍自尊心が高い人だった。友だちと話してるのを邪魔したら悪いと横を素通りしたわたしに、『まなのこと無視した』と吐き捨てた。挨拶をしてほしかったらしく今度挨拶すれば、『まなの話を遮った』と言った。
結果的に回り回って、霧崎さんは人を見下すようになった。わたしはイジメられるようになっていった。
でも、そんな霧崎さんが、わたしをわたしだと気づかずに、わたしのほうが可愛いと言った。わたしのことをブスだと罵っていた霧崎さんが。
「あ、この子は明音っていうの! 私の友達、可愛いでしょ?」
夕陽さんは自慢げに笑いながら、さらっとわたしの名前を暴露した。ドキッとしたけど、わたしはすぐにそれとなく会釈をする。
その名前に、二人は一瞬驚いた顔をした。豊に至ってはまさか、と口を押さえる。
ただすぐに、そんなわけない、と言いたげな表情をする。もちろん、わたしがそれを見逃すわけがなかった。それが、嬉しかった。わたしが変われたという証拠でもあったから。
「愛海って言いますっ。アカネちゃん、よろしくね」
霧崎さんはスッと手を差し出してきた。握手を求められてるのだとすぐに理解して、震えそうな手をなんとか出して握手をした。
「うん、よろしく」
なんとか笑顔をつくることができた。無理やり笑ったときの引きつった感覚がするけれど、でも多分笑えているはず。
大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせた。わたしはもう、イジメられていた頃の小島明音じゃないんだと、言い聞かせた。あの頃と違うことは、この二人が証明してくれたんだからと。
過去の傷はどう頑張って消えない。消えないから、平静を装って仮面の中に隠してしまうしかない。相手が自分を傷つけた人だったら余計に。
それでも崩れそうな笑顔を繕って、二人の前から逃げないように必死になっているのは、わたしが二人のことを見返したいから。
霧崎さんはわたしの手を離したあと、「そうだ」となにかを閃いたように呟く。
「ねえ、せっかくだしプリクラでも撮らない? 初対面でおかしいかもしれないけど、記念ってことで。そのあとちょっと遊ぼうよ」
霧崎さんの提案は予想外だった。いや、心のどこかで覚悟はしていたけれど、でもやっぱり面と向かって言われると答えられなかった。
豊も夕陽さんも賛成してて、なにも言わないのはわたしだけ。なにか言わなきゃと思っても、うまく言葉が出てこない。
「アカネちゃんは?」
霧崎さんがわたしに話を振った。いい提案でしょと言いたげに、屈託のない笑みを浮かべる姿が、余計に恐怖心を煽る。
なにか、なにか言わなきゃ。頭を働かせようとするけれど、思考が回らずなにも浮かばない。
どれだけ自分に言い聞かせても暗示をかけても、わたしがこの人にイジメられた事実は消えない。どるだけ記憶の隅に追いやっても覚えてるのは確かだし、なにより身体は正直だ。私自身が、霧崎さんを恐れている。
『なんとか言えよブス。せっかく遊んでやってるんだからさあ』
頭を踏みつけられた感覚も、腹を蹴られた痛みも覚えている。この人に、やられたのに、わたしはまだ、我慢しなきゃいけないの。
行く、とたった二文字口にするだけなのに、声にはならない。焦るわたしに、夕陽さんがそっと寄り添って軽く背中をさすった。
「やっぱプリクラだけでもいい? この子昔イジメられてて、私ともやっと遊びに行くようになったばっかだから」
人間不信ってやつかな、と、夕陽さんはさらっとそれを口にした。
知っているとは思っていたけど、それを簡単に言ってしまったことに驚いた。それに、わたしは人間不信というまででもないし。確かに彼らへの反応をごまかすにはそれが一番かもしれないけど。
やめて、と制止しようとした。夕陽さんが、わたしのためを思って適当な言い訳をしてくれたんだろうってことはわかるけど、それでも、そんな。
「なにそれ、サイテーじゃん」
なにか言おうと開いた口が、すっと閉じた。
霧崎さんは、悪びれる様子もなく、そんなことを言った。
「きっとアカネちゃんが可愛いから嫉妬したんだね。ほんと最低」
どの口が、と怒りがこみ上げた。わたしをイジメたことは棚に上げて、平然とそんなことを言うなんて。
有り得ないと思うけれど、これが現実。誰だって自分の非を明かすようなことしない。仲良くなりたい人が目の前にいるのに、その人に嫌われるかもしれない発言は絶対しない。
わたしのことを少しでも思い出せばいいのに。思い出す素振りだけでもすればいいのに、心当たりがありますと一瞬取り乱せばいいのに。
でも、逆にチャンスだったのかもしれない。
「プリクラだけなら大丈夫なの?」
そう尋ねる霧崎さんに、頑張って笑いかけた。
「うん。せっかくだし、それだけなら」
自分を応援してなんとか奮い立たせる。とにかく簡潔な返事だけして、なんとか笑えと言い聞かせる。
だってもう、霧崎さんに貶されていた頃のわたしではないんだから。
向かったのはショッピングモールの中にあるゲームセンター。プリクラ機があるのは把握済みらしく、霧崎さんは豊の腕を引っ張ってぐんぐん歩いていく。後ろを追いかけるわたしたちに、ときおり話を振りながら、だけど自分中心にあれこれ話している。豊はほとんど聞き役だった。
夕陽さんはわたしの手を引いてくれた。緊張が手から伝わってくるらしく、ときどき強くぎゅっと握りしめてくれる。