1―4
深呼吸をしている一瞬の間に頭を流れていったトラウマの記憶。どれをとっても、アイツの、森谷の顔が浮かび上がる。
こんなにも鮮明に覚えてる。あの本を避けるまでもなく、私はいつでも思い出せた。
投げ出された本が窓から落ちていく様子とか、それをつかもうと必死に伸ばした手の甲に傷があったこととか、私が追いかけることをわかっててそれを狙って私を地面に叩きつけた森谷の笑顔とか。
『この本好きだったのに、千島も読んでるとかすごい嫌なんだけどお』
クスクスと笑いながら、森谷は私が読んでいた本を取り上げた。指を切りかけて焦ったし、なにより私をイジメていた森谷に大切な本を奪われて腹が立った。
返してと手を伸ばした。私よりも少し背の高い森谷が手を上にピンと伸びして、私の手は全然届かなかった。何度もかすって腕が当たると、「必死こいてんなよ」と私の頬を叩いた。ヒリヒリとして痛かった。
森谷はあろうことか、そのまま本を窓の外に投げ捨てた。森谷のしようとしていることがわかった私は、森谷の手から離れていく本に手を伸ばした。
窓の枠を掴んで、転落防止についてる棒から、窓から身を乗り出して。あともう少しのところで本は届かなくて、指先に当たりそうで当たらないところで、私の手は空をかいた。
直後、ドンッと背中に衝撃を受けた。背中だったか腰だったか、とにかく体が窓の外に放り出されないようにこらえていたのに、あろうことか私を窓の外に押し出した。
知ってる、よく覚えている。私が落ちたあとに聞こえたのが、悲鳴じゃなくて笑い声だったこと。
あのあと、私は低木に引っかかって助かった。大きな怪我はなくて、低木によって引っかかれた傷だけだった。
私は森谷に突き飛ばされたのだと訴えたけど、森谷とクラスメートたちが口裏合わせてただの事故ということになった。事故というよりは自作自演に近くて、私は森谷を陥れようとした最低なやつ、という扱い。
大人は、多数を信じた。
悪いのは森谷とクラスメートたち。私を心配する素振りをして、結局私を嘲笑ったあの人たち。
そのときに落とされた本はむしろ私と被害者で、なんにも悪くなかった。トラウマを思い出す、なんて、本なんて見なくても思い出せる。ただ、言い訳が欲しかった。
スイッチがないなら作ってしまえばいいと思ったの。トラウマをいつとなく思い出すなら、思い出すきっかけを作ってそれを避ければと。
ほんとだ、夕陽さんの言うとおりだ。あんな奴らのせいで大好きだった本を一つ、奪われるなんて、すっごく悔しい。私は、この本は、なんにも悪くないのに。
人なんて信じられなくなったのは、イジメられてる私に話しかけて笑いかけてくれる人がいたから。その人たちですら、まんまと落とされた私を笑ったのだから。
『私のなにが気に入らないの?』
あの一言がいらなかったのかな。
『なんでここまでされなきゃいけないの!』
どれだけ訴えても誰も答えてくれなかった。
『黙ってろって言ったのはそっちじゃない』
確かに生意気な態度だったけど同い年でしょう。それに、突っかかってきたのは向こうだった。
ここまでされる必要ないよねって何度も思った。何度も、何度も。
いつだって、負けたくなかった。あの日、負けた気がした。悔しくてたまらない気持ちが、今さらになってふつふつと湧き上がってくる。
もう、恐怖心はほとんどわからないくらい小さくなって、心を満たしていくのは怒りだった。
こんなすぐに消えちゃうような、その程度の恐怖。いや、私にとってはその程度じゃなかった。
たくさん反抗したし、たくさん抵抗した。大きな傷はあの一度きり、それ以外は付属品。それでも私にとっては、その程度の一言で片付けられるほど小さくなかった。
夕陽さんから本を受け取る。文庫本サイズなのに、どうしてかずっしり重く感じられた。
今さら、その本が私を傷つけることはなかった。それ以上に、この本関係なしにいろいろと思い出したから。
「公園でも寄っていこうか」
夕陽さんは私の手を引いた。今は一人きりになりたくなかったからちょうどよかった。
「ありがと」
素っ気なかったけど、ちゃんと伝わるようにお礼をいう。多分笑顔はうまくできてないだろうけど。
公園について、片隅にあるベンチに腰掛けた。距離が近いと突っ込むのは、やめにしておこうかな。
表紙をめくり、プロローグの文を読み始める。半分忘れかけていた懐かしいお話がそこにあった。懐かしいとか、やっぱり面白いとかそんな感想が浮かんできて、案外、なんでもないんだなって思った。
だけど少し読んで手を止めた。絶対このまま読み進めて、日が落ちても帰らない気がして。
そうしたら、すぐ隣に座っていた夕陽さんが不思議そうに首を傾げた。もう少し読まないの、と尋ねるように。
「夕陽さんに言いたいことがあったの」
言いたいことというよりは聞きたいことだ。ずっと疑問には思っていたけど、関わりたくないからとしてこなかった質問。
「どうして私に関わるの? 私だけじゃない。委員長とか、えっと、平瀬さんにも話しかけてたでしょ。どうしてクラスの人にわざわざ関わろうとするの?」
そらせないように、ジッと目を見つめる。夕陽さんは私から目をそらさずにジッと見つめ返してくれた。
「私が避けてもしつこかったし、状況とか見て察してるか誰からか聞いてるかと思ったんだけど。もしかして、なにも知らない?」
急に饒舌になったなと自分でも思った。それくらい言葉が次から次に出てきて、疑問がプカプカと浮かんできた。
なにも知らないから関わろうとするのか、知ってて関わろうとしてくるのか。知ってたなら、なんで関わろうとするのか。目的はなんなのか。
夕陽さんはちょっとびっくりしていて、でもそれからゆったりと微笑んだ。
「知ってるよ。聞いたよ。でも、関わっちゃいけないなんてルールはなかったから」
当たり前のように、さも当然のように返された。むしろ、なんで関わっちゃいけないのか問い返されてるようだ。
確かにそんなルールはない。みんながひしひしと感じていつの間にか浸透していた暗黙のルールだから。
誰一人として人と関わりたくないなら、お互い必要以上に関わらなければいいって。
そりゃあ体育祭とか、合唱祭とか、協力しなきゃいけない場面では協力するよ。去年もなんだかんだ、それでうまくやってきた。お互いが事なかれ主義みたいなものだから、うまく道筋立ててそれなりの成績でそれなりの思い出として終えた。
だけど、それが終われば仲良しごっこはプツリ。だってまだ、信じられないから。
「そんなルールはないけどさ、」
言葉が詰まった。
私はまだよかったけれど、もしあの子だったら、あの子だったら。誰かのトラウマを呼び覚ますことになるかもしれないのに。
「……私はまだ、乗り越えられるような傷だったんだよ。多分、一生のトラウマになるようなものじゃなくて、この先どっかで乗り越えられたかもしれない」
断言はできない。だって多分、一人じゃ乗り越えられなかったし。
「でもさ、私なんかよりもずっと辛い思いをしてる人もいるし、本気で人と関わることを恐れてる人だっているの。軽率な行動は、いつか自分の首を絞めるよ」
悪いことがいつか自分に返ってくるとして、悪意のないそれも含まれるのだとしたら。誰かの傷をほじくり返すことは、きっといつか自分の首を絞めることになる。
誰のために言ってるのかわからない台詞を吐く。自嘲する言葉が入っていたけど仕方ない。
私なんかよりって、誰からか言われたら腹が立つけどね。あなたより辛い人がいるんだからって。私だって辛かったの、辛かったんだけど。私よりも辛い人がいるのは事実だ。
だけど私は乗り越えられた。きっと乗り越えられるような傷だった。私がそう思いたいだけなのかもしれないけど。
ふと、夕陽さんが私の頬に手を添えた。夏の日に指先だけ冷えた手が、私の頬にひたりと当てられた。
まっすぐと射抜くような目が私を見つめる。夕陽さんは「本当に?」と私に問うた。
「本当に、一生のトラウマになるような、そんな傷じゃなかったのかな。私はそうじゃないと思う」
夕陽さんの言葉に首を傾げた。
「傍から見たらどんな小さな出来事でも、その人が辛ければ辛いんだし、トラウマにだってなるはずだよ。千島さんは単にその本に言い訳していただけで、人を信用できるようになったわけじゃないでしょ?」
見透かされているみたいで怖いと思った。なによりもそのとおりだった。
まだ人と関わるのは怖いし、きっとまだ人を信用することはできない。心から信用して自分をさらけ出すことができる日はいつだろうか。もう一生そんな日はこないかもしれない。
トラウマを克服するのは簡単ではない。一つ壁を壊せたところで、またその先に壁がある。
誰かのせいで壁の中に閉じ込められて、そりゃあ怒りも湧いてくるよ。だって彼女たちがいなきゃ、私はこんなふうに閉じこもってなかったかもしれないんだから。
いくつもの壁を乗り越えるまでに、一生が終わるかもしれない。確かに、夕陽さんの言ってることもわかるんだけど。
「なんてね。ごめん、ちょっと意地悪しちゃった。なんだかんだクラスのこと見てるよね、千島さんって。思ったとおりだ」
今度はにっこりと笑ってそんなことを言うから、感情の起伏が激しいな、なんて思った。その目はどこか羨望が混じっている気がした。
クラスのことを見てるっていうのは、そりゃあ無駄に誰も関わってこなきゃ周りに目を向ける余裕もできるだけ。前までは周りから目をそらすだけで手一杯だったからその反動からかもしれない。
「だからさ、友達になってよ」
唐突に意味がわからないことを言い出す。なにか飲んでたら絶対むせてただろう。特になにもなかったのに咳き込んでしまったし。
私は思い切り怪訝な顔をして、夕陽さんのほうを見てしまった。
「意味わかんない」
吐き捨てるように言うけど、夕陽さんはふふっと笑みを浮かべて私の手を優しく握る。
「それがあなたの使命だと思って」
ああ、それも知ってるの。
わざとらしく使命なんて言葉を使った夕陽さんに、少しだけ心臓が跳ねたけど、いつか聞いたものとはまったく違う内容だった。
そんな一言で上書きされるわけないのに、なんて思ったけれどどうだろう。今は確かにアイツの顔は思い出せない。同じようなことを言われたなと言葉だけは出てくるけど、夕陽さんの笑顔のほうが印象づく。
私が、アイツのことをとにかく忘れたいからかもしれない。夕陽さんの言葉があまりに意外だったからかもしれない。
さてどうしたものかと、握られた手を見つめた。あの頃は反抗したけれど、今は別にいいかなと思えている。
「私は別に、人のことを信用できるようになったわけじゃないんだよ」
そう言ったけれど、夕陽さんは「わかってる」と言って笑った。
「まずは名前を呼ぶだけでも大丈夫。少しずつでいいの。あのね、私も友達いないから、」
……夕陽さんが?
問い返したくなったけど、嘘はついていない目をしていた気がする。問い詰めちゃいけない話題な気がした。
少しだけ心を軽くしてもらったお礼と言ったら変かもしれないけど、借りは返したいというかなんのいうか。弱いところに漬け込まれたと言ったら言い方はアレだけど。
「それなら、いいけど」
答えてしまってから少しだけ後悔した。やっぱりやめといたほうがよかったかなって。
だけど夕陽さんがぱあっと明るい笑顔を浮かべるから、まあいっかとも思ってしまった。これでよかったんだと思おう。
こうやって一歩踏み出したことが、この日の選択が、間違ってなかったことを知るのは、もう何ヶ月かあとの話。
千島由希編【完】
°一言メモ°
由希は、強気だけど実はちょっぴり寂しがり屋、俗に言うツンデレな子です。
でもちゃんと素直なところは素直。