1−2
教室に入った瞬間、安堵した。誰からの視線も感じなかったからかもしれない。
扉を開ける人にこちらを向いても、興味がないというようにどこかまた別のほうを向く。
ここでは誰も、私を認識しない。誰も私を玩具にしようだなんて、そのために私を知ろうだなんてしない。
席に戻る前にすれ違った委員長は、本を抱えて軽く息を切らした私に疑問を抱いていた。なにか事件でもあったのかと思わせてしまったようだ。
「なんかあった?」
その問い、その目は、私を認識しない。見ているのは、困っているかもしれないクラスメート。そりゃあ私の名前くらい覚えているだろうけど、でも多分、それ以上でも以下でもないのだ。
「転校生が、ちょっと」
そう答えれば、察してくれたのか「ふーん」とだけ返した。もう解決したことだと伝わって、委員長は私を追い越していく。
だから私も、素直に席に戻った。
大丈夫とか、なにがあったのとか、あれ以上詳しく問い詰めようとしない。心の深いところには必ず入ってこない。
心を許せる場所ではないけれど、他のどこよりも楽かもしれない。無駄に思いやられることも、思いやる必要もないから。
それでも、彼女はそんな私の気持ちなんてお構いなしなのだろう。
「それはなんの本?」
いつの間にか戻ってきていた夕陽さんは、私の手にある本を指さしながら問いかけてきた。
さっき話しかけてきた女の子たちと話していればいいのに、どうして私に話しかけてくるのだろう。からかってるの? 馬鹿にしてるの?
黒い感情がこみ上げて、私はそれを心の奥へと追いやった。こんな感情も抱きたくなかったから、私は関わりたくなかったのに。
「小説」
再び返した言葉はやはり冷たかった。刺々しくて、多分隠しきれない感情がのせられていた。
構わないで、とそんな思いだって込められていたはずだ。それなのに、夕陽さんは私のそばから離れない。
たった一言の冷たい言葉では納得がいかなかったらしい。小説なんて見てわかると、そう思ったらしい。
「そうじゃなくて、」
困った表情をしていた。文を見つめる視界の隅でため息をこぼしていた。
呆れるような深いため息ではなかった。困っていることを表すような、小さく仕方ないと呟くようなため息だった。
だから、なんだというのだ。
ただのため息でも小さく体は震えた。人の感情の起伏は、小さくても恐ろしい。
「ねえ、ちょっと見せてよ」
どんなふうに、放たれた言葉だったかな。本に興味を示すような声だったかもしれない。私が構わないことに不満を抱いていた声かもしれない。私を、困らせようとしていたのかもしれない。
伸ばされた手に反応できなかった。夕陽さんが机においてあった栞を挟んで、私の手から本を引き抜くまで。反応できなくて、気づいたら本は夕陽さんの手の中にあった。
どこまで読んでいたのかわかるように栞は挟まれている。それが、気遣いだと言われても、私は納得できないだろう。
だって、アイツと重なってしまったから。伸ばされた手が、その姿が、違うとわかっていても重なってしまう。一瞬だけ脳裏を過ぎ去った記憶が、私を嘲るように、嫌な記憶を思い出させるように、夕陽さんの姿と重ねて。
「返してッ!」
気づけばそう叫んでいた。私の手には本が戻っていた。どんなとり方をしたか、冷静になって思い出し、申し訳なくなる。
ページを、紙の端を指で押さえていたのに、無理やり引き抜いてしまった。夕陽さんが強く掴んでいなかったから簡単に抜けたけど、紙を押さえていた指は、切ってしまっただろう。
「いたっ……」
案の定、小さく呟かれた言葉に、私の心臓がドクンと跳ねた。心臓の音がうるさくなる。
夕陽さんの左手の親指から血が滲み出ていて、罪悪感に目が眩みそうになった。
パチパチと瞬きをして、なんとかくらまないようにしっかりと見たら、みんなの視線が私のほうに集まっていた。
いくらみんなが無関心でも、いきなり大声を出したら誰だってびっくりして反射的にそちらを見るだろう。すぐにパラパラと別のほうを見ていくけど、一度集めてしまった注目に心が落ち着かない。
「ねえ、」
夕陽さんの声が、鋭く聞こえた。錯覚かもしれないと言い聞かせても、アイツの姿と、また重なる。
『調子乗ってんじゃねーよ、ブス』
肩に、突き飛ばされた感触が残っていた。そう言ってアイツは私を突き飛ばした。私の本を、床にばらまいておいて、私が怒ったら、そんなこと言って。
夕陽さんは、まっすぐと私を見据えた。ゆらりと揺れた瞳に、カタカタと体が小さく震える。
「バンドエイド、持ってない?」
夕陽さんは申し訳なさそうに、優しい声でそう尋ねた。手は差し出されない。本当に聞いているだけだ。
一瞬、思考が止まって、生徒手帳にいつもバンドエイドを挟んでいたことを思い出した。たまに紙で指を切ってしまうから、本を汚さないために入れていたやつだ。
それを取り出して渡そうとする手が、ふるふると小さく震えていた。私からバンドエイドを受け取った夕陽さんは、それを丁寧に指に巻いた。
「さっきはごめんね」
ああ、そっか。はじめに手を出したというか、なにかしたのは夕陽さんのほうだった。私がそれに怒ったわけで。
怒ったというよりは、怯えていた、怖かった。もしかしたらまた、そういう気持ちが拭えない。
今のは夕陽さんが悪かった。きっとなにがあったのか聞いた人は、そう答えてくれるだろうけど。
怪我をさせたのは、私のほうだ。冷静に「返して」とそう言えたら、夕陽さんだって怪我はしなかった。
「私のほうこそ、ごめん」
素っ気ない謝罪だった。それでも精一杯で、なんとか紡いだ言葉だった。
夕陽さんはちょっと困ったように笑った。
「千島さんは悪くないよ」
ほんとごめんね、と念を押すように謝る夕陽さんに、私はなにも言わなかった。真剣に目を見て謝罪されるのは慣れてなかったから、なにも言えなかったのほうが正しい。
教室にはいつもの空気が流れていた。夕陽さんはそそくさと自分の席に戻っていく。私はそれを見送ってから、再び本を読み始めた。
ちょっと気になって、ちらっと夕陽さんのほうを見ると、夕陽さんの目の前に委員長が立っていた。委員長の様子からして、さっきのことを少し言ってくれてるらしい。
その日の放課後も、なんだかんだで図書室に行ってしまった。今日はあまり本を読む気分じゃなくなったけど、なんとなく足を運んでしまう。
図書室に行ってしまえば、自分を囲む本に目をキラキラとさせて、一度は多分読んだことあるのも関係なしに手にとって。見たことないものはじっくりと、見たことあるものは懐かしむように目を通す。
私にたくさんのことを教えてくれる本に、囲まれる幸せ。どんなに小さくても、それが私の大きな幸せだと、多分言い切れる。多分なら、言い切れてないかな。
だって、やっぱり一つだけ避けてしまう本があるから。昼放課の、あんなことがあったあとだから、余計にその本は避けてしまった。本棚にすら近づかなかった。
たまに配置が変わってることはあるけど、どうやら今日はまだ変わっていないらしい。本を目にすることなく、席につく。
一冊、二冊と抱えた本を机において、読み始めようとした。
面白そうな内容の本。開いて数ページで引き込まれそうなものなのに、さっきのことを、夕陽さんとのことを思い出して、今さらのようにどっと疲れと眠気が襲ってきた。字を目で追えば追うほど、だんだんとまぶたが重くなっていく。
少しだけ寝てしまおうかと思った。だけど、そういうわけにも、と本に意識を持っていく。
そんな行動も意味はなく、私はいつの間にか本を閉じて、机に伏せて寝てしまっていた。
目を覚ましたのは、あれから一時間も経っていないくらいだった。はっとして目を覚ましてすぐに時計を見たら、思ったよりも時間は進んでいなかった。
起きれてよかったと安堵した瞬間に、ふと人の気配を感じた。なんなら、教室の時計を見るときに人影が視界の隅をよぎっていった。
まさかと思って前を見ると、案の定というべきか夕陽さんが座っていた。頬杖をついて向こうから夕日を浴びながら、私が選別してきた本を読んでいる。
思わず立ち上がると、やっと夕陽さんは私が起きたことに気づいたらしく、パタンと本を閉じた。ニコリと笑って、ひらひらと手を振る。
「おはよう」
私が聞きたいのは、そんな挨拶じゃない。なんで当たり前のようにそこに座っているのかってこと。
元から誰もいなかったのかいなくなったのかは知らないけど、二人きりというのはなんだか嫌だ。気まずいというかなんというか。
逃げ場がないと感じるのが、一番の原因かもしれない。
「ねえ、一緒に帰らない?」
夕陽さんはのんきに、そんなことを問いかけてくる。キラキラとした目は眩しくてとても見ていられない。
一瞬答えにつまってしまったのはどうしてだろうか。夕陽さんに悪意がないからと流されそうになってしまった。
だって、一緒に帰ろうなんて、誘われたの、何年ぶりなのかわからなかったから。それもこんな、悪意を感じない顔で。
それでも、答えは決まっていた。
「ごめん」
一言、断るためのその一言だけを告げると、私は荷物を持って図書室を出た。
きっと夕陽さんは後ろから追いかけてくるだろう。そう予想がついていたから、なるべく早歩きをした。
下駄箱で追いつかれたときは、さすがになにも言えなかったけれど、正門を出てからも追いかけられては困る。私は電車には乗らない、徒歩通学だし、追いかけられる可能性はある。
それってどうなのって思うけど。
とにかく一緒に帰るのはごめんなので、足を早めぐんぐんと進んでいった。いつもよりも早く、いつもの人通りのない道に出る。
夢中になって歩いたからか、横道から出てくる人影に気づけるはずもなく、ドンッと体に衝撃を感じたと思ったら、私はその場に尻もちをついていた。
ぶつかったのは私よりも幾分か背が高く体格もいい人だったらしい。完全に押し負けて、思い切り尻もちをついたために、すぐには立ち上がれなかった。
そんな冷静な解析をしているうちに、向こうも状況を察したらしく、ゆらりと影が私を覆う。ヒヤリ、と嫌な予感がした。
「いってぇなぁ……」
低い声は脅すようだった。私を脅すように唸るような声。
でも、見上げてみた彼らはニヤニヤと笑っていて、厭らしい笑みに表情がこわばる。怖いという気持ちよりも、先に口からこぼれそうになったのは「最悪」という言葉。運の悪さを呪いたくなる。
向こうも制服を着ていて、こちらも制服を着ていた。同年代なのは明らか。どちらとも鞄を持っていて、向こうも学校帰りだったのだろう。