3―5
お待たせいたしました。
「あんたが言わせたでしょ! じゃなきゃなんでこんなもの録音できるのよ!」
ありえない!と胸ぐらをつかんだ雪花に、相変わらず夕陽さんは冷たい目のまま。一度開いた右手が、雪花の手首をぎゅっと掴む。
「痛いわ。イタイ。常に人の上に立とうとする、そのくせ好かれてると思いこんでいる、あなたって本当に」
「痛っ、」
ぎりぎりと、爪を立てているわけではないはずなのに、夕陽さんの右手に力が入っていくにつれて、雪花の表情が歪んでいく。その細い手に、指に、どこにそんな力があるというのか。
「志津ちゃんのことをどうこう言う前に、あなたこそ信用できる人を見つけたら? じゃなきゃ今度は、あなたが玩具にされるわ」
冷たい目で、冷たい声でたたみかける。淡々と、続ける。
「もうすでに、玩具かもしれないけど」
トドメの一言に、怒りが顕になる。だけど雪花は夕陽さんの胸ぐらを掴む手を緩める。それと同時に、夕陽さんの手を払うように突き飛ばす。
もう、ふらつくことはなかった。突き飛ばされても少しくらっとしただけで、すぐに立て直す。そうしてやられたことはやり返すのみと、同じように突き飛ばした。
同じくらいの力に見えたのにそうではなかったらしく、雪花は何歩か下がって再び夕陽さんと距離をとった。睨むような視線は、どこか恐れを抱いている。
当たり前のように、夕陽さんに直接向けられない怒りは、山川のほうへと向けられた。
「っざけんな! 志津、てめえ覚えてろよ!」
びくっと肩が大きく震える。怯える山川に、雪花はほんの少し満足したように口角を上げる。
俺は、なんでだろうか、それがひどく滑稽に思えた。怯むよりも先に、山川を庇うように前にはいでた。肘立ちになって、山川を背に隠すように。
なによりも、裏切られなかったことが背中を押した。今度は俺が助ける番だと少しでも力になる番だと思った。
夕陽さんはというと、雪花の怒鳴り声に全くびくともせず、凛として立っていた。そうして逃げ出そうとする雪花をギロリと睨みつける。
「逃げるなら、約束して。もう二度と志津ちゃんと晃くんに近づかないって」
「なんでわたしが、」
「傷害罪。志津ちゃんは一日ここに閉じ込められていたわけだし、監禁も入るよね。私、証拠を集めるのは得意なの」
名前を呼んだ仲良しアピールと、おそらく嘘ではない脅し文句で、雪花が怯んだ。夕陽さんならきっと、数日で証拠を掴んできそうだ。俺たちのことをよく知っていたから、なんとなくだけれどそう思った。
「わかったわよ、約束してあげる」
夕陽さんの睨みに怯んだのか、すっと目をそらしながら、でも態度だけは立派にそう言ってのけた。脅しはよく効いたらしく、振り返ることなくそそくさと立ち去っていく。
まさに、嵐が去っていった。大翔も雪花たちの後を追いかけていったけれど、大翔だけは一度振り返って、誰に向けてかぺこっと軽く頭を下げた。
あれはなんだったのか。考えるまでもなく、そこらを漁りだした夕陽さんが口を開く。
「雪花と大翔、ずーっと前からの知り合いだって。お兄さんたちが高校一緒みたいでね」
嫌な、予感がした。聞きたくないと思う気持ちに、聞きたいと思う好奇心が勝って耳を傾ける。
夕陽さんは手のひらサイズの鉄の塊を拾い上げいじりながら続けた。
「大翔のお兄さんって、雪花のお兄さんに酷いイジメに遭っててさ、妹の雪花も加わってね。その中で、雪花は自分がイジメてる男の、自分と同い年の弟に目をつけたの」
そんな情報、どこから仕入れたのか。ぺらぺらと夕陽さんが語るのは、俺も知らなかった大翔の話だ。
「雪花は大翔をイジメ始めた。逆らえばお兄さんがどんな目に遭うかって脅されてた。そんなときに大翔と仲が良い晃くんを見つけた」
なんとなく、予想がついた。俺を見つけた雪花が、自分の玩具に手を出す俺をよく思うわけがない。
「脅されて仕方なくだったみたい。ずっと後悔してるんだって」
今さらそれがどうしたというのか。なぜ夕陽さんはそれを俺に伝えたのか。
「そんなこと、今さら聞いても」
可哀想だと思うよ。あいつの境遇には同情するよ。だからといって、俺にしたことが許されるわけない。裏切り者は、裏切り者だ。
俺を裏切ったことが仕方のないことだったとしても、あの出来事がすべて雪花の計画だったとしても、そうですかと許せるわけがない。まず第一に、大翔は俺を頼ってくれなかったわけだ。
ああ、それが、一番の裏切りじゃないか。俺のことを頼りになるといつも相談してくれてたのに、俺の相談にものってくれてたのに、一番気が許せる親友だと言ってくれたのに。一番大切なときに頼ってくれなかった。大切なときに助けてくれなかった。信じた俺が、馬鹿だったんだけど。
俺も、なにも気づけなかったことも、悔やまれてしまう。せめて俺がなにか気づけばと、そう思ってしまうのは、心のどこかにほんの少し残っていたあいつへの期待のせいだ。
「ほんと、今さらだよね」
夕陽さんはにっこりと笑みを浮かべる。清々しいほどに晴れ晴れとした笑み。
「どんな事情があっても、それを知らずに酷い目に遭わされた晃くんは被害者だ。大翔は、晃くんを、お兄さんと同じ目に遭わせたんだから、とんだ裏切り者だ」
ああ、そうか、考えてみれば。大翔は自分のお兄さんを守るために、俺を見捨てたんだ。自分もイジメられたのに、兄もイジメられたのに、同じことを俺にやった。たとえ、仕方なくだったとしても。
両方守るなんて、できなかったのかもしれない。幼い俺たちには、どちらかを守ることが精一杯だったのかもしれない。それでも、あいつが俺を生贄にしたのは変わりない事実だ。
ただそれが、思い悩んだ末の決断だったのかもしれない、というだけで。
夕陽さんはにこりと笑う。
「だから、どうか、歪んだまま憎まないでほしいの。すべて知って受け止めた上で恨んでほしい。そうしたらきっと、同じところまで堕ちないで済むから」
歪んだまま、なにも知らないまま。きっとそのままただ相手を憎むことは簡単だけど、それでは行き場のない怒りが募るだけ。現に俺はずっとそうだった。
けれど、すべて知ってしまったら、受け止めたら、怒りよりもなによりもただただ悲しかった。こんな思い、もう二度としたくないと思えば、きっとあいつと同じことはしないと誓える。あいつにも、もうなにも言うまいと。
きっと、なにも知らなかったら。今度あいつの顔を見たときになんて言ったか、わからない。今ならもう、なにも言えないけど。
同じところまで堕ちなくて済むというのは、そういうことだろう。だからといって、あいつのことを恨んでないわけじゃない。でも、もう、俺の中で済む感情だ。
割り切った俺に対して、山川は複雑そうな顔をしている。
「それじゃあ、あたしを裏切った雪花たちが、本当に酷い奴だってことだね」
俯いて、顔を上げる。少し考えていたようだが、ふるふると首を横に振る。
「もう、考えるのはやめる。あたしはもう、雪花を信じるのはやめた。期待するのも、やめた」
いつかはきっとって信じてたけど、と山川はぽつりとこぼした。
こんなところに連れ込まれて暴行されても、どこかで改心してくれると信じていたのだろう。山川が雪花のことをどこまで知ってるのか、いつからの仲なのかはしらないけれど。
でも、ずっと昔から、兄の影響かイジメをし続けていて、歪んでしまったその性格は簡単には変わらないのだと、納得せざるを得なかったのだろう。だからもう、期待するのはやめると。
シンとその場が静まり返り、夕陽さんがくすっと笑みをこぼした。場違いなそれに、山川と俺が怪訝な顔をする。
「そんなに暗い顔しなくても、もう次があるじゃない」
次、という言葉に、はたと山川のほうを見た。ほとんど同じタイミングで、山川も俺のほうを見て目が合う。
「お互いがお互いを守ったんだから、お互いのことを信用して」
ああ、そういえば。次から次へといろんなことが起こって、今はすっかり、だったけれど。
守った、といっていいのだろうか。ただ囮になっただけなのに。それよりも、まだ、言ってないことがある。
「人、呼んできてくれてありがとう」
山川が、目を見開く。そうしてぶんぶんと首を横に振る。
「あたしのほうこそ、庇ってくれてありがとう。痛くて辛かったから、本当に助かったの」
いいえ、と返せば、山川はわずかに微笑んだ。そのまま視線を今度は夕陽さんのほうへ向ける。俺もつられるようにそちらへ目を向ける。
「夕陽さん、助けてくれてありがとう」
「あたしからも、言わせて。ありがとう」
なにが意外だったのか。雪花を追い返してくれた夕陽さんに、お礼を言うのは当然のはずなのだが。
夕陽さんはぱちぱちとまばたきをして、こてんと首を傾げる。
「私にも、お礼?」
「雪花を追い返してくれて、その上二度と近づかないって言わせてくれたのに、お礼しないほうがおかしいよ」
そうだよね、と同意を求めてくる山川に、俺は大きく頷いた。
「私は、私のしたいようにしただけなの。雪花にあの約束をさせたのも、私がそうしたかったからで……」
「でも、結果的にあたしは助かってるから、だから、ありがとう」
困惑する夕陽さんに、念を押すように山川がそう言った。夕陽さんはそう、と呟いて、そのお礼に答えるように笑みを浮かべる。
「私こそ、ありがとう」
なにに対するお礼だろうか。ふわりと浮かべる笑顔は消えそうで、しっかりとはこちらを向いていない。どこを見つめているのかわからない目線と、おそらくは自分たちに向けられたであろう笑顔の、その不安定さが、俺たちとの間に薄い壁を作る。
お礼はきっと、言われ慣れてないような雰囲気だけど、それだけじゃないような。まだ、やり残したことがあるような。
「お昼、食べて帰らない? 今から学校に行くのは微妙だし、せっかくだから、私、奢るから」
どうかな、と問いかける夕陽さんに、山川と顔を見合わせる。
今、何時だろう。でも、確かにお腹は空いてきた。今さら学校に行くのも、説明するのがまた面倒だし大事になる。
「自分の分くらい、出すよ。どこに行く?」
「あたしも、鞄はあそこにあるみたいだし。行くならゆっくりできるところがいいね」
夕陽さんの言葉の紡ぎ方は、予定外のことを提案する姿は、どこか縋るようにも見えた。奢るだなんて、学生なのに簡単に言うよな。
そう思って、奢るという言葉には断りを入れると、山川も断って、じゃあどこに行こうかと話し始めた。それが、少しだけ楽しいと思えて、そう思えたのは久しぶりで。
夕陽さんにはちゃんと感謝しているけれど、気になることもあった。
なにが、夕陽さんをそうさせているのか。ここまでさせているのか。夕陽さんは、なにを考えて、なにを目的にしているのか。
気になったけど、聞く気にはならなかった。そう簡単に触れてはいけない気がして。
椎名晃編【完】
°一言メモ°
人の顔と名前を覚えるのが苦手だけど、冷酷クラスの人たちはわりと覚えている。
実はザ・運動部って感じの子です。
本編の内容からはわかりませんが。