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はっきりと告げた俺に、夕陽さんは驚いた表情をした。それから困った笑みを浮かべる。
「そっ、か。そうなんだ。なんか、ごめんね。今日話したかったのはそれだけだから」
どう切り返せばいいのかと、困った笑みを浮かべている夕陽さんに、俺は「そっか」と一言返した。
本当に話したいことはそれだけだったらしく、夕陽さんは帰ろうかと立ち上がった。カルピスは飲み干していたから慌てて立ち上がって山川のほうを見たけれど、山川も頼んだものはもう飲み終えていたらしい。確認した上で立ち上がったのだろう。
会計を済ませて喫茶店を出て、みんな駅までは一緒のため三人で帰る。会話もそれほどなくて、話したとしても夕陽さんが一人話しているだけだったけれど、むしろ聞き流すだけだったから居心地が悪いとは思わなかった。
三人のままでも良かったかもしれない。誰かいたほうが、余計なことはなにも考えなくて済んだかもしれない。
「今度はお昼ご飯食べに行こうね」
なんて、絶対叶いもしない願いを言って、夕陽さんと別れた。山川はその言葉を笑って聞き流して、夕陽さんと同じ方面らしくそちらへ走っていった。
一人残された俺は、それでもやっと一人になれたと息を吐いた。そうして息を吸おうとして、ずっしりと気が重たくなったのを感じた。
『あれ、晃、いつの間にそんなにうまくなったんだよ。相変わらずすげえな!』
頭の中をこだまする声と屈託のない笑顔。消えろと願っても、染み付いたそれはなかなか消えてくれない。
空っぽになったっていいから、思い出の貼り付いた心ごと剥がしてしまえたらいいのに。忘れられたらいいのに。
最近はなにかとアイツのことを思い出す。思い出したくもないのに、無駄に思い出してしまう。
それが、なんだか嫌な予感がした。
その嫌な予感がぴたりと当たるように、翌日、山川が学校を休んだ。山川が休むなんて有り得ないとまではいかないけど、山川が学校を休むのは本当に珍しい。
山川のことを気にしてる余裕ないだろって思うけれど、昨日の今日だし、やっぱり嫌な予感が拭えなかった。特に、山川が学校になんにも連絡してないらしいから、余計に。
結局、山川は遅刻でもなんでもなく、その日学校に来ることはなかった。放課後まで連絡はなく、また連絡もつかなかったらしい。
保護者とは連絡がついて、どうやら今朝「知り合いと会ってくる」と言ったきりらしい。帰りは遅くなると、そう言ったきりだと。
心配、というよりは、ただただ嫌な予感がしていた。
その翌日のことだった。知らない番号から電話がかかってきたのは。
「朝早くにごめんなさいね。山川志津の母ですけれど」
電話越しの知らない人はそう言っていた。
「貴方に聞くのもなんだけど、志津が帰ってこなくてね。電話をかけたら友だちだって子が、今日は泊まるからって言ってたんだけど、あの子、急に人の家に泊まるような子じゃないから気になって」
「はあ」
なにが言いたいのか、わからず頭をひねっていると、「ああ、ごめんなさい」と小さく謝る声が聞こえた。
「それで、あの子からなにか聞きていないかしら。友だちも、名前を聞くのを忘れてしまってわからなくて」
「あの、どうしてそれを俺に? なにも聞いてませんけど」
「志津の部屋に貴方の携帯の番号のメモがあったから。お友だちかと思って」
確かに一度だけ、山川と連絡先を交換したことがあった。もしものときのための保険で、クラスメートの一人くらいは連絡先を知っていたほうが便利だと思って。お互いの利害が一致したから交換した。絶対に使うときはないと思って。
もしものときのための保険。それを今、メモとして机の上においていたのだとしたら。自分の母親が見つけるようにしていたとしたら。
嫌な予感が、ただの予感じゃなくなっていく気がした。
「志津さんからはなにも聞いてませんが、少なくとも、高校にお泊りをするほど仲の良い人はいないと思います」
失礼だとは思うけど、はっきりとそう言った。
「そう、よね。ありがとう。もう少し待って連絡が取れなきゃ手を打つわ」
電話が切れる音がした。手を打つとは、おそらく警察に相談するなりなんなりするのだろう。
とりあえず考え事は学校についてからにしようと、学校までの道を急いだ。
見慣れた景色をぐんぐん進んでいると、ふいにカシャンという音が聞こえた。
なにか蹴ってしまったのかとため息をつきながら足元を見ると、そこには鍵が転がっていた。家の鍵のような重大なものではなくて、おそらく引き出しやなにかのボックスなどの鍵らしい。
そう大切なものには見えないけれど、でも失くしたときには大変そうなもの。見えるところにあげておこうかと思ったけど、駅前に交番があることを思い出して鍵を届けることにした。学校につく時間はいつも早くて余裕があるし、落とし物を届けて手続きやらなんやらする時間くらいは十分にある。
優しさとか、そういうものじゃない。落とした人が困っているかどうかはどうでもいい。ただ自分が落としたときには必ず返ってきてほしいし、それを望むならこういうときに無視せず届けるべきだろう。自分のしたことは自分に返ってくると、そう信じているから。
それなのに、鍵を拾おうと前かがみになった瞬間、なにかで頭を殴られた。あ、やばいなって思った頃には道路にも倒れてぶつけて、ずきずきと痛んだ。
立たなければと、慌てて立ち上がろうとしたせいで、視界がぐらりと揺れた。勢いよく頭を打ったのに立ち上がろうとして頭を揺らしたから、多分、脳震盪を起こしたんだろうなと、そんなことを考える頃にはもうほとんど目の前の景色が認識できなくなっていた。
気を失っていく直前に聞こえたのは、とても聞き覚えのある声だった。
そうして、目を開いたときには知らない景色が広がっていた。どこにでもありそうな、なんの変哲もない倉庫。どこか遠くから人の声が聞こえて、頭が重くてずきずきと痛かった。
冷たい地面に倒れ込んでいる状態だったから、なんとか起き上がろうとして、手の自由がきかないことがわかった。
なにかで手首を縛られている。しっかりきつく縛られているのはなんとなくわかった。手首自体は体の後ろで縛られていて見えないけれど。
足をあげて、勢いをつけて起き上がる。一瞬やばいかと思ったけど、なんとか上半身を起こせて、長いこと運動部にいたのは無駄じゃなかったなと思ってしまった。
起き上がった瞬間に、近くから「わっ」と驚く小さな声が聞こえた。そちらを見れば、目を丸くしてこちらを見る山川の姿があった。
「椎名くん、大丈夫?」
心配そうに尋ねる山川は本当に申し訳なさそうな顔をしていて、その顔にも制服にも汚れがついていた。いつも綺麗に結んでいる髪はぼさぼさで、砂がついて汚れていた。
それよりも気になったのは、顔のあちこちが腫れて赤くなっていたこと。スカートからはみ出した足にも傷はあって、靴は脱がされていたこと。どう考えても、暴力をふるわれた後だと物語るその姿。
「山川のほうこそ、」
大丈夫って聞くまでもなく、大丈夫じゃない見た目をしていた。これ以上言ったところで山川は「大丈夫」と答えるだろう。
「知り合いに会いに行くって」
制服であったことに疑問をもって、先生から聞いていたことを口にした。
「うん、呼ばれたから。用事が済んだら学校に行こうと思ってて」
ただの元クラスメートだったから油断しちゃったと、そう笑う山川も手首を縛られていた。山川の場合は体の前で縛られていて、代わりに足首も縛られていた。
笑った顔は、とっくに諦めた顔だった。ここから逃げることを。ずっと一人だったから。
「あれ? もう起きちゃったんだ」
つまんないの、と子どもが拗ねるみたいな言い方とその声に、山川の表情がはたと曇った。それから小さな声で「ごめん」と謝る。
雰囲気とか話の流れからして、それが山川を呼び出したただの元クラスメートでないことは確実だった。考えるまでもなく、山川はできれば二度と会いたくなかった人物だろう。
声のしたほうをぱっと見やれば、声をかけてきたらしい女子と、取り巻きっぽい二人、それから一人、そいつらに隠れてこちらの様子をうかがう男子がいた。俺はそいつをよく知っていた。
嘘だろうと、目をそらしたくなった。この状況について理解してしまうのが怖かった、もう二度と会いたくないと思っていた人を直視するのが怖かった。
だけど目はそらせなくて、よくよく知るその人物を、食い入るように見ていた。
「晃くんだよね、はじめまして! わたし、志津の元友人の雪花でーす。それから、右から李梨花と乃愛ね」
山川の元友人だって奴らが名乗っているけれど、もちろん興味はなくて耳に入ってこない。代わりに一人だけジッと見つめていると、雪花はその視線に気づいてニヤッと笑った。
「ふふっ、晃くんはコイツとは知り合いだもんね! 同じ高校でね、意気投合しちゃったんだよねっ」
きゃぴきゃぴと話す雪花の声に、そいつがコクンと頷いた。
湯川大翔。俺の元親友で、俺にとって最低最悪なやつ。こいつさえいなければと、どれだけ思ったか。こいつがいなかったらと、何度思わされたか。
大翔も俺のほうをじっと見ていて、だけどなにも言うことはなかった。そんな大翔と俺の間に、雪花がひょこりと顔を出す。
「ほら、高校ってさ、勉強が忙しくなって中学よりもストレス溜まるじゃん? そんなときに志津を見つけちゃって、でもって同じ学校に大翔の知り合いがいるって言うからさ。玩具にちょうどいいなって思って」
クスクスと笑いながら、雪花はさも当然のようにそう言った。それを聞いて思わず睨みつけたけれど、雪花は怖くない怖くないと馬鹿にするように笑っていた。
あまりにも、腹が立った。人を玩具と言いやがるコイツに、腹が立った。縛られてさえいなければ、その顔を思い切り殴ってやるのに。山川はきっとそれ以上のことをされているから、蹴り飛ばすくらいやってやるのに。
腹が立つと同時に、そんな思考の奴らとつるみ始めた大翔に幻滅した。なんだかどうでも良くなっていく気がした。ああ、そういう奴だったんだなって。
やっぱり、期待していたんだと思う。周りにのせられてそうしただけだって、期待していたんだと思う。
長年一緒にいたから、一度裏切られて絶望しても、心のどこかでは期待していたのだろう。
愛と憎しみが紙一重という理由がわかった気がした。友だちとしての愛が確かにあったからこそ、俺は大翔を憎いと思ったし怒りもあった。
だけど、ずっと心に重くのしかかっていた、大翔の笑顔が消えていく気がした。深い憎しみは浅く薄っぺらく変わっていく気がした。できることなら俺の目に見えないどん底でもがき苦しんでくれればいいのにとは思うけれど、そうでなくても関わりさえしなければもうどうでもよかった。コイツのために考えることすら煩わしくなった。
「とりあえずそこで大人しくしててね」
にっこりと笑みを浮かべながら、雪花はそう言った。そう言って、二人と大翔を連れて外へと言ってしまった。
逃げないと思っているのか、腕を縛っていれば大丈夫だと思っているのか、出口はしっかり閉めることなく鍵などはかかっていない。中途半端に開いた扉の隙間から、薄暗い倉庫に外の光が入り込んでくる。
まあ、縛られている状態じゃあ満足に逃げることなんてできないし、そんなんで見つかってしまえばどうなるかわかんないし。今は動かないのがい一番だろう。
そう、思っていたのに。