⑥
「はあっ!」
かけ声と共に、彼は業火の渦を打ち出そうとした──
が、その瞬間。
男の体は──何の脈絡もなく、ズブ濡れになってしまったではないか。
まるで、見えないバケツの水を、頭上でびっくり返されたかのように。
当然ながら、掌の上の炎も瞬時に掻き消きえてしまう。彼自身も何が起こったのかわからないらしく、中途半端に振りかぶった姿勢のまま、固まっていた。
無論、他の者も。
「……いったい、何が……」
呆然と呟いた姫様は、そこでようやく目の前に立つ青年のことに気付いたらしい。
会場内でただ一人、立ち尽くすのではなく佇んでいる彼の右手には、例の羽根ペンが握られていた。そして、男エルフの方に向けられたそのペン先から、糸のように繋がった文字の羅列──文章らしき物──が、ウッスラと光りながら、宙空で揺らめいているのだ。
それを目にしたズブ濡れの男は、理解を越えた物を見るような表情──あるいは明確な恐怖の色──を浮かべる。
「……何故だ? 何故、無力人種がそんな物を持っている……⁉︎」
「いや、なんでって言われても──ほら、商売道具ですし?」
微妙に締まらない返答をすると、同時に浮かび上がっていた文章が消えた。オグマはペンを構えていた腕を下す。
「……なるほど。貴様らを侮っていたことは認めよう。──が、魔術道具が使えるとわかった以上、もう容赦はしない! 手心なぞ一切加えず、最大の力で捻り潰してくれる!」
再び、男は魔法を発動させる体勢を取った。
──しかし、それが果たされるよりも先に、厳然とした声が彼を制す。
「そこまでだ。これ以上見苦しい真似はやめなさい」
それは、オーディ村のリーダー──エリスの夫だった。
「バルク様! し、しかし、こんなどこの馬の骨ともわからぬ者に虚仮にされたまま、引き退るわけには」
「確かにそのとおりだ。……が、その為に仲間の一人が醜態を晒すなど、エルフとしてのプライドが許さない。──お前は一度村に帰って、頭を冷やすんだな」
「ぐっ……わかりました……」
悔しげに答えた直後、とっ散らかったテーブルの上から彼の姿が消えた。
バルクはオグマたちの方に向き直り、頭を下げる。
「三人ともすまなかった。我が村の者の無礼を、詫びさせてくれ」
「あ、いえ、そんな。みんな無事ですし」
と、言いかけた彼の声に被せて、
「まったくだわ。お陰で靴に鼻血が付いたじゃない。どうしてくれるの? もちろん、弁償してくれるんでしょうね?」
「いや、あんたむしろ請求されてもおかしくないですからね? 慰謝料」
彼女の連れが的確な指摘をする中、バルクは気が抜けたように笑みを零した。
「ふふ。──金を払うのは御免だが」
「ちっ」
「我々オーディ村も、君たちの取材に協力するとしよう。……実を言うと、初めは私も儀式の場に部外者が来るのには反対だったのだがね。気が変わったよ。知りたいことがあれば、なんでも訊いてくれたまえ」
それから、彼は会場を見渡し、
「他の者もすまなかった。──さあ、仕切り直しだ。みんなも二人のように、素敵なパートナーを見付けるように」
その言葉に、初々しい異人種同士のカップルは、やはり赤面した。
※
翌朝。
ノルニ村の入り口には、多くのエルフたちが集まっていた。次の目的地へと出発するオグマたちと、船頭のアルを見送る為だ。
「いろいろとお世話になりました。お陰でいい文章が書けそうです」
「それは何よりですわ。──ところで、その羽根ペンのことですけど」エリスは、オグマの胸ポケットに差してある物を手で示す。「そのような物、いったいどちらで手に入れられたのです?」
「えっと、旅に出る時に、普通に出版社から支給されたんですけど……? ──もしかして、これが何なのか知ってるんですか?」
「ええ……。それは、“記憶の筆記者”と呼ばれる特殊な魔術道具です。『持ち主の体験した出来事』をそのペンを使って書き留めておくと、それを再生し別の誰かに追体験させることができると言われています。ちょうど昨日、あなたがオーディ村の若者にしたように」
つまり、あのエルフの男が突然ズブ濡れになったのは、オグマの体験──すなわち、小舟が転覆し川に飛び込むハメになった──を、追体験させたからだったのだ。
魔力、あるいは魔法その物を仕込んだアイテムは、この世界には数ある。しかし、エルフが「特殊」と言うだけあって、かなり風変わりな機能の魔術道具だと言えよう。エリス自身も「実物を見るのは初めてですわ」とのことだ。
「どーしてあんただけそんな便利なモンもらってんのよ。不公平だわ」
「そう言われても──でも、お陰で三人とも助かったんだし、いいじゃないですか。これからも、ピンチの時はお守りしますよ?」
「当然よ、私姫だし。……まあ、でも? 助けてくれたことには、礼を言ってあげても──」
と、いつになく相方を褒めようとした──謂わゆる、「デレ」かけた──ところで。
突如、彼女は嘔吐感を堪えるかのように、唇をひん曲げ酷い渋面を作った。
「……えっ、どうしたんですか姫様。そんな急に変な顔して。見た目だけか取り柄なのに」
「う──うるっさい! あんたと話してたら、急に吐き気がして来たの!」
「ヒドイ!」
「それより、さっさと出発するわよ」
言うが早いか、踵を返した姫様は、そのままスタスタと歩き出してしまう。何か違和感でもあるのか、自らの喉に手を当て、首を傾げながら。
赤い糸に引っ張られたオグマは、急いでノルニ村のエルフたちに会釈し、その後ろ姿を追いかける。
無論、アルもすぐに──恋人に手を振ってから──、二人に続いた。
「待ってくださいよー。姫様、何か怒ってますか?」
「別に! ──て言うか、あんた舟ひっくり返したことまでメモしてたの? どんだけメモ魔なわけ? マメすぎてキモいわ」
「いやぁ、少しでもネタは多い方がいいかな、と。……あと、姫様の傍若無人っぷりを読者にも伝えたくて」
「なんか言った?」
「いえ、別に。──今日もいい天気だなー」
彼らのやり取りを一歩後ろで聞いていた船頭は、楽しそうに笑う。
「お二人とも、昨日は本当にありがとうございました。お陰で、リーナさんに想いを伝えることができました。──ところで、もしよろしければ、姫様のお名前を教えていただきたいんですけど……」
尋ねられた彼女は足を止め、傷んだ髪を揺らして振り返った。
そして──無一文のクセに──、無駄に偉そうなポーズでこう名乗る。
「エリーネよ。恩人の名前なんだから、覚えておきなさい」
「いや、あんた勝手に暴れてただけじゃん」