①
朝靄の立つ水面を、一艘の小舟が滑って行く。やけに背の低い人影が舵を取っており、乗客は二人。
ほどなく、船頭──ホビットの青年が、靄の先に見えた対岸を指差した。
「見えて来ました。向こう岸のその先が、エルフ族の住まう村になります」
「おっ、ついに彼女たちの領域に入るわけですね。ちょっと緊張して来たなぁ」
暢気な口調で、乗客の一人が答える。彼の顔には、何故かある特徴的な仮面が装着されていた。
──本だ。
古びた黒い装丁の本を、開いた状態で顔に当て、表紙の上下から生えた二本のベルトで頭に固定しているのだ。いったい何故、そんな奇妙のファッションをしているのか。と言うか、見たところどこにも穴が空いていないが、どうやって前を見ているのだろう?
「気負わなくても大丈夫ですよ。エルフって言うと気難しいイメージを持たれるかと思いますが、彼女たちはみな優しいですから」
「アルさんは、エルフ族の方々とも交流が?」
「ええ、まあ。……と言っても、お客さんを案内したついでに、挨拶を交わす程度ですけどね」
照れ臭そうに、ホビットの青年──アルは、鼻先を指で擦った。
──と、そこで、
「そんなこと、どぉーだっていいけどさぁ」
もう一人の乗客──ボロの毛布に包まった少女が、不機嫌さを露わにした声を発した。
「寒い寒い寒い! なんでこんなに寒いの⁉︎ だいたい朝早すぎななのよ! しかも舟ガッタガッタすぎて、お尻痛いし! 何かしらのクッション的な物くらい、用意しときなさいよね! もう!」
「……姫様」
「だいたい、なんで高貴なる身の私がこんな森の奥深くまで来なきゃならないのよ! マジで意味ワカンナイ!」
仮面の青年に「姫様」と呼ばれた彼女は、自らを抱きながら喚き散らす。その姿は、残念ながら、あまり「高貴なる身」には見えない。顔立ちは端正だし、黙っていればまだよさそうなものだが、見に纏っているドレスは明らかに平民が着る物と変わらない──それどころか、貧乏人が泣く泣く質にかけそうなボロ着だ。
加えて、老婆のように真っ白い髪の毛は、ボサボサで、ハネまくり、尚且つ旅の疲れの為か、酷く痛んでいた。
「……でも、姫様今は一文無しじゃ」
「うるっさいわねオグマ! そもそも、なんだって私があんたみたいなド平民と旅しなきゃならないのよ! それも、『辺境に住む異人種を取材してその記録を本にまとめろ』だなんて!」
「状況説明ありがとうございます。──でも、仕方ないでしょ。僕たち、どうしても離れられないんだから」
言いながら、オグマはシャツから伸びた自らの喉に触れた。そこにはどうしたわけか、真っ赤な糸が結ばれているではないか。
しかも、チラチラと揺れるその先は、姫様の左足首へと括られている。しかも、船頭が全く気にしていない辺り、どうやらこの糸は二人にしか見えない物らしい。
彼の言葉を受けプックリとむくれた姫様は、やにわに立ち上がった。そして、何を思ったか赤い糸を掴み上げると、両手で目一杯引っ張り始めた。
「あーもうクソったれが! こんな忌々しいモン、こうしてやらァ!」
「うわっ、ちょっと待って! 無理に引っ張ったら僕の首が絞まるって!」
「うるっさい! これさえなければ! なければぁー!」
バタバタと暴れ始めた──主に暴れているのは一人だが──乗客たち。「ふ、二人ともやめてください! 舟が倒れちゃいますから!」と、船頭は慌てて止めに入る。
が、揺れは増して行くばかりであり──
「く、首、が……!」
「ぬぎぎぎ! こなクソ──きゃっ⁉︎」
「く、首──あっ」
ほどなく、目的地を目前にして小舟はひっくり返ってしまう。朝靄を掻き消すように、盛大は水飛沫が上がった。