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どうやらそのマサトという人物---おそらくは彼らと同じ人種---もいずれこちらに向かってくるらしい。
ここにくると言い切れるのはつまり彼らにとってここがかなり馴染みのある場所でいつものたまり場、いつものくつろぎ場、いつもの集合場所ということなのだ。
だからきっと彼らはここに居座る、くつろいでゆっくりして他愛もない会話に興じるつもりだ。
私の逃げる隙間なんて毛ほどもない。
じわじわと恐怖が絶望感に塗り替わっていく感覚をつま先から頭のてっぺんまで感じ取っていた。
しゃがみこんだままだった足ががくがく震え今にも崩れ落ちそうになっていた体がふと思い立った希望の一筋によってなんとか持ちこたえられた。
いや大丈夫、あの人たちだっていつまでもここにいるわけじゃない。
今が何時かが分からないのはネックだけど、授業が終わればいつかは帰るはずだし気分が変わればそれよりも早く撤収するかもしれない。
私はそれまでじっと、静かに、音を立てず気付かれないように我慢していれば大丈夫。
きっとなんとかなる。そういき込んだ時だった。
「何してるの?」
----え。
物凄い近くで声がした。
そう聞こえてきた声に頭が反応するのに相当時間がかかった気がしたが実際それほど経っていなかったのかもしれない。
壁際から顔だけひょっこり覗かせた彼の表情からはそんなに待たされたような感情は一切なくただ単純に、素直に、疑問符を顔に張り付けているだけだった。
いつの間に、
そう頭の中に浮かんだ瞬間、混乱が波となって押し寄せた。
気付かなかった。
私に話しかけ、いやその前になんで、気付かれた、どうしよう、見つかった、なにか、なにか言わなきゃ、なにを、何か言って、
心臓がどくどく高鳴りだす。
頭の中で言葉の羅列が巡りぐるぐると回ってはいろんな気持ちが交錯して上手く言葉にできない。
あ、とかう、という変な声しか出ないしまるで頭と連動しているかのように視線もぐるぐる回りだしていた。
きっと物凄く目が泳いでいるのだ、覗かせた顔が更に傾いて物珍しい生き物でも見るかのように少したれ目がちな目をきょろりとさせた。
ふんわりした蜂蜜色の髪が重力に沿って揺れる。
「あ?あいつ何してんだ?」
「おーいユウトぉ、どしたー?」
二人の声。さっきの人たちの声、そっか、三人いたんだ。
未だに混乱状態ではあったが自然と冷静にそんな言葉がストンと胸に落ちてきた。
いや二人だろうが三人であろうが今さらそんなことはどうでもいい。
どちらにしたって今のこの状況は変わらない。まさにこの、崖っぷちぎりぎりの緊迫な状況には。
冷や汗を流す私とは対照的にユウトと呼ばれた彼はどこまでも冷静だった。
珍しいものを見るような目つきは相変わらずで、ただどことなくその瞳の奥がこの現状を楽しんでいるかのように輝かせて見えるのは私の気のせいだろうか。
自分が窮地に立たされているという思考が相手をより一層極悪人か何かに見せようとしている、とか。
彼の瞳から目がそらせないまま固まっている私を一瞥しユウトさん---少なからずの敬意をはらって一応さん付け---は二人の声に反応して今までずっとそらさなかった目を初めてそらした。
その瞬間何かの呪縛から解かれたかのように一気に肩の力が抜け同時に何とか踏ん張っていた足がとうとう崩れ落ち地面にへたり込んだ。
今まで心臓の音に支配されていた耳がようやく正常に機能し始め自分の吐息と微かな風の音を拾い上げた。
まるで、自分の体を何かから取り戻せたかのような大げさな安堵の吐息を吐き出したが幸いユウトさんの耳には届かなかったようだ。
二人の呼びかけに応じた彼は顔を壁の向こう側へ戻してくれた。が、それは向こうへ行ったのではなく上半身だけ曲げた変な姿勢から直立した姿勢に戻っただけにすぎず、すぐにこちら側へ戻ってきた。
しかも今度は体つきで。
一時収まった心臓の鼓動がどくりと一度だけ大きく打ち鳴らした。
んーー、なんて間ののびた返事をしながらそのままふらふらと後進してきたが頭の後ろで組んでいる腕が邪魔で表情は見えない。
横からだったけど、全身が見えるようになって初めて気付いたがこの人、結構スタイルがいい。
全体的に見て線は細いがちゃんと鍛えているような印象を受ける引き締まった体をしている。
背丈は170いかないくらいだろうか、細いから余計高くみえる。
それに私のイメージしていた不良とは違って服装も、Yシャツ一枚ではあったが別にジャラジャラしてないし全然普通だ。
まあ髪の毛はどう見ても校則違反丸出しだが。
変にじろじろ観察していた私の視線に気づいたようにおもむろにこちらへ顔を向けてきた。
またあの目とかち合ってしまい反射的に肩がびくついたが彼はそんな私を気にも止めず、むしろ人の良さそうな顔でにっこり微笑みかけてきた。
とても優しげで女の子ウケしそうな完璧なスマイルだったがこの場にそぐわない表情が嫌に不気味で私はその反応に何も返すことはできなかった。
ただ嫌な予感がよぎり露骨に怪訝な表情をしてしまったが向こうは特に気を悪くした風でもなくむしろ更に笑みが深くなったような気がした。
「ねぇ」
弧を描いていた薄い唇が開き私に向かって発した言葉は、しかし私に向けられたものではなかった。
勘違いして固まった私を差し置いて笑顔のまま正面に向き直り二人に向かって言い放ったのだ。
「面白いものみつけたんだけどー」
悪魔のような一言を。