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「本当にいいの?」
「うん」
やわらかい夜風にさらわれて近くの公園から桜の花びらが迷い込んでくる。
時折不意を突くかのように下から持ち上げられた空気が庭に咲く野花の香りを纏わせて桜の花びらを躍らせている。
「別に寝ずの番なんて、今はやらないところもあるのよ?学校のことも新学期でバタバタしてたし明日からもまた忙しくなるだろうから寝れるときに寝ておかないと・・・疲れ取れないわよ」
「大丈夫、あんまり眠くないし。眠くなったらこっちの線香付けて寝るから」
渦巻きの線香に目線を送ってからもう一度母を見やる。
私なんかに構わず母の方こそ早く寝るべきだ。目がしょぼついている。
「それは構わないけど・・・」
「それに私、そんなに疲れてないよ。結構あっという間だったし、座ってぼーっとしてる事のが多かったから」
母から目をそらしロウソクに火をつけると渦巻きではない方の線香に火をつけ香炉に立てた。
ロウソクの火を吹き消すのはいけない事だと母から教えられたのはつい先日だ。
なんでも人の息は穢れたものだとされてるらしく吹いて消すのは無礼なんだとか。まあ確かにそうでなくても仏壇とかで顔を近づけて吹き消す様はあまり見栄えよくないだろう。
慣れない手つきで2.3度手で仰いで火を消した。
「じゃ、あとは任せて」
立ち上がりながら言うと母もつられて立ち上がる。
その顔はまだ納得がいっていないような表情だったがその反面、線香も付けてしまったし引き下がるしかないといった諦めも滲んでいた。
「寝てていいよ。お母さんの方が明日朝早いんだから。あ、ちゃんとお風呂湯につかんなきゃだめだよ。じゃないと疲れ取れないから」
渋る母を急き立てつつ早口で言いくるめて部屋から追い出す。
胸元でひらひら手を振りながらおやすみーと気のない挨拶を送った。
諦めてお風呂場へと向かう母を見送り、パタンと小気味良く障子を閉めると、しんと静まり返った部屋が戻ってくる。
やっと一人だ。
喪服代わりの制服を見下ろして思わず息が漏れる。
一人と分かるとつい力が抜ける。なんだかんだ言いつつやはり少し疲れていた。肉体的にも精神的にも。
母にはお見通しだったのだろう。心配そうに揺れる母の目が脳裏に浮かんだ。
それでも一人寝ずの番を申し出たのは、まったく眠気を感じられず、どうせ布団に入ったところで寝がえりを繰り返しながら眠れない夜を超すのがオチだと容易に想像できたからだ。
だからこうして夜を過ごす理由が何かしらあった方がずっと良かった。
ふと、かすかな物音に振り返る。
外を遮断する襖の飾り窓が縁側まで上ってきた風に押されてカタカタと音を鳴らしていた。
さっきまでは母とのやり取りで気にも留めていなかったがここ何日かの強風と打って変わって今日は少し落ち着いているようだ。
何気なく襖の前まで歩いていき片側だけ開け放つと、ふわりと風が髪をなで春の匂いを運んできた。
すん、と花の香りを吸いこんで月を見上げる。
今日は満月だが雲の流れが早く薄い雲の先からぼんやりと月が見え隠れしていた。
舞い降りてくる桜の花びらが部屋の光に照らされて縁側にひとひら、ふたひら、まるで雪のように、音もなく落ちるのを目で追った。