これが、解妖……?
想定外の台風による仕事の空きが生まれましたので、その際に書いてしまいました。
とりあえず、多いと読みにくいと思うので区切りをつけて一段落させました。
次回からはライブラリアンについての業務開始になるかと思います。
「キッシュ様、こわいの?」
強く握りすぎたのか、シオリが僕のことを見上げた。
「そんなことはないんだけど……何があるのかな?」
何があるのか分からないから恐怖を感じるのは人として、生物として本能の発現。
「だいじょーぶだよ。解妖は恐いものじゃないよ。神聖なものだから」
シオリはそういって僕に笑う。こんなにも小さな子だと言うのに、鬼であると言うことが僕には信じられない。それに僕よりも長い時を生きてきているのだろうし、どうもその姿とのギャップに戸惑ってしまう。とりあえず、シオリの頭の小さな角に関しては、精霊だということを信じる他のない、証拠なのかもしれない。
「じゃあ、行くよ、キッシュ様」
「う、うん」
扉の前で喉が鳴る。何があるのか、何が始まるというのか。期待半分不安半分の中で、シオリがドアノブに手をかけ、下ろす。重たい音が響いて引きドアが開く。
「う、わ……」
よくありそうな光が溢れるとか、真っ暗闇とか、そんな演出はどこにもない。ただ、荘厳で停止した時の刻みが、肌に感じる冷たい空気として、体をすり抜けた。
「ここは、何なんだ……?」
ライブラリーをいくつか見てきた僕自身でさえ、こんな施設は見たことがない。何にもないんだ。それなのに、外観からは気づけなかった巨大な空間。声が木霊する。
「ここはね、フェアリールームって言うんだよ」
シオリの声が幾重にも階段のない塔の中を渦巻いていく。
「フェアリールーム?」
ここで解妖とやらを実施する場所、ということらしい。精霊指定図書庫の異質と巨大さに驚かされたけれど、これもまた、想像の範疇になんてない奇異の空間。大木の生えている図書庫に隣接するのは、幾何学模様の施された壁画のような壁がはるか天井にある窓の明かりに不気味にも浮かび上がっている。見上げるだけで首が痛くなる。
「うんっ。ここでね、ライブラリアン様が解妖するの」
シオリの言葉は無限ループのように、的を得ているようで得ない繰り返しの言葉にしか聞こえない。具体的説明を求めようにも、空気を読んでもらえるほど、シオリは大人ではないよう。圧巻の空間にただ僕は、言葉を考えることすら忘れてしまっていた。
「さぁて、始めましょうかね」
「お待たせだよ〜」
後ろからラミアさんとエルシェさんがやってくる。思わずまた僕は固まってしまう。
「キッシュ? どうかした?」
ラミアさんはラフファッションから、礼装とでも言うべきなのか、白と金を貴重とした綺麗な服。身分が貴族にでも変貌したようなお姉さんから王女に見える。ズボラさがまるで夢のように消えていた。
「うふふ〜。驚いてるんだよね〜。この姿に」
相変わらずの笑みのエルシェさんも、フリルの少女からお妃のように別人へと纏う衣一つで美貌が輝いている。口調は相変わらずでも、先ほどまでの様子とは次元が異なるようにしか見えない。
「あー、そう言うこと。まっ、服くらいで驚かれてもねぇ」
「もっと、びっくりしちゃうんだよ〜」
確定事項らしい。僕が驚くというのは。
「あの、その紋章って……」
ラミアさんとエルシェさんの羽織るロングコートのような装束にある紋章。どこかで見たことがある。それがどこでだったかは、はっきりとは思い出せず、頭を掻いた。
「ああ、これ? これは国立ライブラリーの神霊享受指定図書のライブラリアンの紋章よ」
「ルルエルド司書官の功績図書の捺印って言った方が分かるよねぇ〜?」
エルシェさんの言葉に思い出した。ラミアさんの言葉は、ぴんと来るものがなかったけれど、エルシェさんの言うことに、記憶が波のように甦った。
ルルエルド司書官の刊行本は功績図書と言う唯一のジャンルに指定されている。その本の全てに押されている捺印と同じなんだ、二人のその紋章は。
「ど、どうして、その捺印が紋章になっているんですか?」
「だから言ったでしょ。これが神霊享受指定図書の紋章だって」
いえ、そう言うことを聞きたいわけではないんですが。
「これはね、ライブラリアンの中で、カイヨーの鍵なんだよっ」
シオリが裾を引張る。
「鍵?」
「うん。シオリ、ちゃんとお勉強したんだねぇ〜」
エルシェさんがシオリを撫でる。皇族が市民にふれあいをしているように見えた。むしろ、シオリの笑顔を見ていると、親子のような気もしないでもない。
「これはね……」
「説明するより見るほうが早いわよ。エルシェ。ちゃっちゃっとやるわよ。仕事はこれだけじゃないんだから」
エルシェさんの解説に耳を傾けようとしたら、ラミアさんが強制的に区切る。百聞は一見に如かずというわけらしい。
「館長の承認は取ってきたから、早速始めるわよ。ムーン、ノード。あんたたち、手伝いなさい」
図書庫の方から、二体―――精霊の数え方を知らないから、そう数えるが、ジョンケールとは異なる青い鳥とのっぺらとした巨人獣のような、妙な精霊が入ってきた。
「ムーン。あんたは上層の楼台にこれを灯してきて。ノード、あんたはいつも通りにね」
甲高い鳴き声と共に、ムーンと呼ばれる鳥の精霊が嘴に灯火台をラミアさんに預かると飛び上がる。一方で僕の隣にいるのぺっとした、何とも表現しがたい大きな精霊のノードは、ぼーっと隣に立っている。不思議と威圧感と言うか、巨大なものが発する空間圧迫する気圧がまるでない。糸のように感じるものがない。
「こら、ノードッ。ぼーっとしてないで、さっさと動くっ」
ラミアさんが叱咤した。どうやら性格は極めておっとりなようだ。ノォーっと、気の抜けるような声を漏らしながら、ゆっくりと空間の中央部へと歩いていく。足音もなく、空気のような軽さが、背中を見ていて感じられた。
塔―――と呼ぶべきなのか、ホールとは異なる狭く高い室内。狭いと言っても百数十人は入れそうな広さ。それでも天井の高さが尋常ではなく、やはり塔と言うべき建物。その中心に立つノード。入れ替わりのようにムーンが降りてくる。天井に揺らめく炎の明かりが僕らにまで陰を生む。
「この二体も、やっぱり本から、なんですよね……」
「そうだよ〜。ムーンは三百年前に絶滅した鳥類の精霊でぇ、ノードは私たちの抽象具現のファンタジー小説から解妖したんだよ〜」
独り言のつもりが、エルシェさんに聞こえたらしい。どちらもやはり精霊。もう驚きが少なくなってきている自分自身に、少し驚いていたけれど、そんなことよりも、これから始まることへの興味が勝る。
「うわっ」
僕だけの驚きの声が、その時響いた。ノードが中央部に立った瞬間、ズモモモと擬音をつけることが相応しいように、灰色の体が膨らみ塔全体を覆っていく。
「心配ないわよ。ノードは質量物質じゃないからすり抜けるわ」
ラミアさんの声が、ノードに飲み込まれていく足元と同時に聞こえた。
「う、ぁ……れ?」
眼前から迫るノードの体が、僕らを飲み込んだ。ラミアさんの言う通りに何かが触れたという感触はなく、そよ風が吹いた程度の感覚だけが残り、視界が灰色に染まった。
「キッシュ様、この中はね、ノードの精神領域なんだよ」
隣で相変わらず裾を掴んだり、手を取ってきたりするシオリが教えてくれる。でも、分からない。
「この体はねぇ、ノードの体内で〜、私たちライブラリアンの解妖の時の、万が一に備えて、塔の破損を防ぐ役割があるの〜」
エルシェさんの解説も、イマイチ理解出来ない。
「ノード、とは、どんな妖精なんですか?」
「ノードは、ファンタジー小説の中で精霊として主人公たちを敵の攻撃から防ぐ盾になっていたのよ。それを踏まえて、今は解妖の際に暴走する精霊がいるから、あたしらの身の保全に役立てているわけ」
―――なるほど。つまりノード自身は物質化しているわけではなく、その小説内でも精霊として具現化している盾。だからあの存在感のなさと巨体に似合わずの静けさがあるわけか。それにしても違和感がある。モノクロの世界に包まれて、時代を遡っているような、あり得ない感覚がある。
「頑張って、慣れようねぇ〜」
慣れないといけないらしい。というよりエルシェさん、あなたはどうして僕の考えていることが分かるんでしょうか? やはりあなたこそ妖精では?
「さぁ、始めるわよ。エルシェ」
「は〜い。じゃあ、シオリとキッシュ君は、そこで見ててね」
「あいあーい」
「分かりました」
中央部に行く二人を、シオリが当たり前のように手を繋いでくるから、そのまま繋いで、見つめる。
「カッコ良いんだよっ。ライブラリアンって」
「そうなの? と言うか、何が始まるの?」
解妖と言うことは理解した。その儀式の形態を知りたい所だけれど、どうやら見ていろということだけらしい。固唾を呑むわけでもなく、とりあえず、見るだけは目を向けた。
「あたしさ、あんまいい予感しないわけよね、これって」
「じゃあ、大丈夫だねぇ。ラミアちゃんのぉ、女の勘は、真逆だもんね〜」
「あんたの乙女の勘に言われたくないわ」
「う〜。私の勘はぁ、すごく当たるんだからぁ」
「最初だけでしょ。どうせその後はしょーもない結果にしかならないじゃん」
「最初から結果が分かるよりも良いもん〜」
僕の前の前で、ラミアさんとエルシェさんが言い争いをしています。見ていろと言われているので、見ていますが、良いのでしょうか? そう思った。
「じゃあ、あんたの勘とやらをご享受願いましょうか?」
「ん〜とねぇ、可愛いお花が咲き乱れる?」
意見を求められて語尾を疑問系とは、さすがはエルシェさん。主張するようでしていないです。
「あれは、何をしてるのかな?」
口は軽い口論。親しい仲だからこそ言い合う所で別段傷つかない応報合戦。それでも、疑問はある。中央部に置かれた本を取り巻くように、ラミアさんとエルシェさんがコート? の中から取り出したタクトのような棒で空間に指揮者のように何かをしている。指揮者に見えないこともない服装だけれど、音楽は始まらない。
「解妖の紋章を書いてるんだよ、キッシュ様」
「紋章?」
シオリの解説に、視線をシオリに下ろす。
「うんっ。本から妖精を呼び出すための呪文だよ」
呪文を描いているわけか。ただ適当に棒を振ってるわけじゃないんだ。
「そう、なんだ。あんまり実感、ないんだね」
読書のしすぎかもしれない。呪文を唱えて紋章を描くとかは、ファンタジー系小説にはよくある王道パターン。でも、僕の目の前でそれを行っているらしい二人は、お互いを皮肉り合う世間話をしている。何と言うか、とてもじゃないけれど信じられない。毎年開催されている本、メディアのキャラクターを装う、コスプレイヤーのフェスティバルの練習風景のようにしか見えない。まぁ実際に見たことはないんだけれど。
「そっち出来た?」
「うん。準備おっけーだよ〜」
二人が棒を振り終えたのか、本を挟んで対角に立つ。心なしか、さっきまでの表情とは別人―――服装に相応する凛としたものになったように見える。
「始まるよ、キッシュ様」
「う、うん」
にっこりとあどけない笑みを見せるシオリに、僕は固唾を呑んでいた。空気が変わった気がして。
「神栄なる言の葉に紡がれし、大いなる物語に住まうる御霊よ」
ラミアさんがタクトで本を指す。ラミアさんらしからぬ凛とした表情に、ドキッとする。
「与えられし眠りより目覚め、我らがライブラリアンの永久不変の語りべと模し」
エルシェさんが同じようにタクトで本を指す。ゆっくりとした喋りでも、別人のように言葉がはっきりするエルシェさんに驚かされる。
《その大いなる世界を、語継ぐ者とせし、今こそ、解き放たれよ》
二人が声を揃えてタクトを同時に天井へと掲げる。
「え……?」
タクトの先―――示された天井を追った瞬間、異様なものが視界に映りこむ。
天井を照らし出していた炎が風もないのに揺れ、影を大きく動かし、渦を巻くように炎が激しく燃え出していた。
「ちょっ、あれ、危ないんじゃ……」
思わずそう言っていた。何が起きているのかは分からない。でも、炎が何かに燃え移ったのか、天井が炎に覆われた。
「大丈夫だよ。あれが解妖の灯火だから」
シオリが僕に言う。
「灯火って……」
どう見ても火災。灯火には見えない。
「ほらっ、キッシュ様っ」
シオリが天井を指差す。それを僕も辿る。
「な、なに、あれ……?」
その瞬間、視界が固定され、目と口が開いた。
天井で燃えていた炎が、ゆっくりと竜巻のように燃え盛りながら渦を巻き、降りてくる。それを見て、鳥肌が全身を駆け巡った。
「ラミアさんっ、エルシェさんっ、危ないですよっ!」
気づいた時には、そう叫んでいた。でも、僕の叫びにラミアさんはおかしそうに、エルシェさんは何故か楽しそうな笑みで僕を見返すだけで、タクトを翳したまま、その炎が降りてくるのを待つように視線を天井へと向けた。
炎がスゥっと降りてきて、その渦の大きさがはっきりと分かった時には既に遅かった。
「ラミアさんっ! エルシェさんっ!」
渦巻く炎に、床に置かれた本ごと、二人が飲み込まれた。何か消火できるものはないか。慌てて探そうとしたけれど、シオリが手を握ったまま離してくれなくて、動けない。
「シオリっ、あ、あれっ」
こんな小さな子のどこにそんなちからがあるんだよっ、と言いたくなるくらいに手を解くことが出来なかった。
「大丈夫だよっ。あの炎は聖炎解妖の灯火って言うの。焼けたりしないよ。あれが本の妖精に息吹を吹き込むんだよ」
そうは言うけれど、どこからどう見ても、燃え盛る炎。
「エルシェッ」
「うんっ」
その時だった。ラミアさんとエルシェさんの声が炎の中から聞こえた。
《解き放て、壮大なストーリーをっ》
「うわ―――っ」
そう聞こえた瞬間、炎が空間を埋め尽くすように僕らの方へ吹き荒れた。焼かれる。そう強く思った瞬間、僕は何も出来ず、シオリの小さな手を握り締め、眩しさに目を閉じるしか出来なかった。
―――明日からが仕事なのに、僕は死んだ。炎に焼かれて。焼死なんて嫌だなって思っていたのに、ああ、僕は死んだんだ。もう熱さも何も感じない。死んでしまったんだと、力が抜けた。
もっと読みたい本があった。もっとやりたい仕事があった。まだ部屋の片付けもほとんど終わってない。この町の散策もしたかった。田舎の両親を差し置いて先に旅立ってしまったことを詫びたい。来月に出る好きな作家の新刊本も予約したのに。
そんな色々な後悔が脳裏を過ぎった。走馬灯は出てこないけれど。
「キッシュ様? どうかしたの? 終わったよ?」
ああ、終わったんだ。僕の人生。シオリ、君も一緒についてきちゃったんだね。ごめんね、僕があの時手を離して逃がしていれば、こんなことにならなかったのに。
「ん〜? キッシュ様。キッシュ様ってばぁ」
ああ、大丈夫だよ。シオリのことは、僕が責任を持って天の国へ連れて行くから。それがせめてもの僕に出来ることだろうからさ。
「ん〜? ラミアさまぁ、エルシェさまぁ、キッシュ様が変になっちゃったぁ」
ああ、死んじゃったからね。生きてる時に比べたら体がないわけだから変にもなるさ。精神世界に来てしまったからには、僕も体を亡くした精神だけでいるんだ。それは生きてる時にはない、異質なものなんだろうね。もうどこにだって飛べそうだよ。体だってほら、軽いんだ。―――軽い?
「あ、あれ? 重い……?」
何となく飛べるかも。そう思ったのに、力を入れた感覚に腕が上がる。
「キッシュ? 大丈夫? つーか、何、その手?」
「握手かな? はい」
「いや、あんたね……」
腕から伝わる温もり。すべすべして細いのに、温かい。気持ちが良かった。これが天使の温もりなんだろうか。
「わたしもぉっ」
反対の手にも温もりが宿った。そのまま体が引張られる。―――ああ、このまま僕は天国へ連れて行かれるのかな。シオリ、君もきっと同じようになっているんだよね?
「気絶、しちゃったのかなぁ?」
「寝てんでしょ。いつまで寝てんのよっ」
「いたっ」
体が持ち上げられた瞬間、脳天を劈く痛みに目を閉じていたのだと、眩しい世界に気づいた。
「あ、あれ……?」
眩しい。そう思ったはずなんだけれど、薄暗かった。
「起きた?」
目の前に僕の手をとったまましゃがんでくるエルシェさんの顔。その横には同じように屈むシオリの顔と角が見えた。
「あれ? ここは?」
「ここはって、解妖の塔よ。キッシュ、あんた頭でも打った?」
頭上から聞こえる声に顔を上げる。ラミアさんが呆れた面持ちで見下ろしていた。
「あれ? 皆さん、ご無事、だったんですか?」
記憶が段々と甦ってくる。炎が室内全体を焼いたと思ったのに、壁はともかく、ラミアさんもエルシェさんも、シオリも全くの無傷で僕を見ている。そう言う僕自身も何の外傷もなかった。
「無事って何が?」
「ですから、さっきの炎で、皆……」
「炎? ……あぁ、うん。平気だよ。あれはね〜、熱くない炎なんだよ〜」
「だから言ったよ、キッシュ様」
まだ多少混乱しているらしい僕の頭に振る言葉には、その日現実を現実と認識するには、いささか時間を要するようで、すぐには理解することができなかった。
「……って、そ、それは、何ですか?」
それは置いておいて、気がついたことに問いを投げる。
「ん? これ? これの妖精」
ラミアさんの片手の中には、春の植物図鑑。燃えたはずなのに、やっぱり燃えた後なんかない、今までの本の姿。そして僕が気づいた違和感と言うか、超常的な異質物。植物のようなんだけれど、何かうねうね気味の悪い根だか、茎だかが動いてる。緑色の蛸のよう。
「可愛いよね〜」
エルシェさんが平気でそれを撫でる。しかも愛おしそうな笑顔で。いや、僕にはどう見ても気色悪い物にしか見えないんですけど。
「まぁ可愛くはないけど、害はないわよ」
「えー、可愛いよぉ。ねぇ、シオリ?」
「うん。仲間、仲間♪」
シオリなりの逃げなのか、感想は言わずに妖精が増えたことに笑みを見せる。
「それ、植物、ですよ、ね?」
「そうよ。名前はないけど」
いえ、それ以前に動いているのが変だと思わないのでしょうか、ラミアさん。
「ご飯食べる植物もいるし、動く植物もいるから、同じだよ?」
エルシェさんがまた心を見透かしたように言う。
「いえ、それらとは次元が違いすぎませんか?」
食虫植物とか、熱帯雨林地域に生息する、根を張っては枯らし、また根を張っては枯らすことで、歩くように移動する植物の話は聞いたことがある。でも、それは時間を掛けてそう見えるものであり、今、僕の目の前―――ラミアさんの片腕の中で蠢く植物とはまるで違う。植物の妖精なら動かないことが基本じゃないだろうか、図書庫で見かけた花の妖精らしいものは、揺れこそしていたけれど、ここまで動いてはなかった。
「妖精だし?」
「妖精だもんね〜」
「妖精、ようせー」
ああ、理解していたさ。いましたとも。ただ、受け入れたくなかっただけ。ここでは僕の常識が非常識なんだって。
「どうだった?」
「え?」
ラミアさんが、まだ名前のないウネウネうなる植物の妖精を持ちながら聞いてくる。
「解妖だよ。基本的には、こうやって妖精を呼び起こすんだよ〜」
「あぁ、そうですね。……とりあえず、驚きました」
死んだと思うくらいの炎だったのに、火傷一つも負っていない。最後の方は何が起きたのか、全く分からなかった。それは単純な驚き。それが精々の結果だ。
「ま、最初はそんな感じか」
「うん。館長もびっくりして尻餅ついちゃったもんね〜」
そうなんだ。館長はどうやら僕と同じ人種らしい。
「さて、ノード。もう良いわよ」
ノォー、と僕らを包み込んでいたノードが者と大きさに戻る。こうして見ると、ノードは大きいんだけれど、今まで僕らを飲み込んでいた姿を思い返すと、そうでもないような気がしてしまう。
「終わり? 今日はもう終わり?」
シオリがラミアさんから図鑑を大事そうに受け取り、胸に抱える。
「そうね。後は搬入本の整理と、他のライブラリーへの転用本の箱詰めもしないといけないし」
「私も、不明図書と廃棄図書の搬入手続き書を書かないといけないから、また今度だね〜」
どうやら、これで今日は終わりらしい。何か数時間なんだけれど、実に衝撃的なものばかりを目の当たりにしてきて、酷く精神的に疲労しているかもしれない。
「キッシュ。あんたも今日は上がって良いわよ。明日は八時出ね。着任式があるから」
「あ、はい」
やっと終わりか。心の中で安堵する自分を、ラミアさんとエルシェさんが笑った。
「な、なんですか?」
「い〜や、別に」
「頑張れそうだなぁって、思っただけだよ」
眼鏡を上げるラミアさんといつもの雰囲気に戻るエルシェさんの言うことが、いまいち分からなかった。
「がんばろね、キッシュ様」
「うん、まぁ……はい」
ここで僕に何が出来るのか。指示された仕事のうち、出来ることはそう多いものじゃない。今までと異なる司書と言う職業に、僕は素直に返答することが出来なかった。
「それじゃあ、お疲れ様でした」
「ボランティアありがとね〜」
「明日から一緒にがんばろうねぇ〜」
ラミアさんの一言は、トドメの一刺しとして胸を貫いた。結構色々させられたけれど、研修のようなものだった。当然規定外時間労働で賃金はない。この後家に戻って片づけをしなければならない事を考えると、気が重くなった。それでもエルシェさんの笑顔に、多少はいい経験が学べたと思う材料にはなったかもしれない。
「さぁて、今日も残業かねぇ」
「うぅ〜、寝不足はお肌の大敵だよぉ〜」
精霊指定図書庫に戻り、帰り支度を終えて、部屋を出ようとするとそんな声が聞こえた。中央の大木の木の伸びた枝の書棚の本の冊数は皆目検討がつかない。そしてカウンターらしき場所に積み上げられた本。これも軽く数百はある。これら全てが妖精の宿る本だなんて、数時間前の僕なら信じられないだろうけれど、今はそれもどこか納得してしまう僕がいる。
「ほら、あんたたちっ! ちゃっちゃと働きなさいよっ」
人の声ではない、鳥の声でも獣の声でもない、響くような透き通るような不思議な声が幾重物音色を奏でた。
何となく、後ろ髪を引かれる。自分ひとりだけ先に帰るのは、今までそうなかった。でも、やることもある以上、以前慌ただしく働いているラミアさんとエルシェさん、それに妖精たちに一礼して部屋を出る。
「うぁ、そうだった……」
部屋を出た瞬間、空気は閑散ではない静けさ―――それこそ静寂と言う不快にならない静けさが、かすかな違和感を生む。あまりに騒々しい中から出たからだろうけれど。
そして、今度こそ物質的な圧迫感に息が詰まる。部屋を出た瞬間の身を捩らなければ通れない通路。この通路を通るだけでも、また一苦労を強いられてしまった。
「お疲れ様です」
「はい、お疲れ様でした。大変でしたでしょう?」
受付を通る際、挨拶をしたら第一声がそうだった。
「ええ、まぁ。すごい経験をしましたけどね」
受付の人はどうやら知っているらしい。―――当然か。同じ職場なんだし。
「キッシュさん、ただ、このことは口外禁止事項ですので、くれぐれも内密によろしくお願いします」
「え?」
予想外の言葉。
「どういうこと、ですか?」
「キッシュさんは、これまで書籍精霊をご存知でしたか?」
書籍精霊。ラミアさんやエルシェさんとはまた異なる呼び方。恐らくは同一対象を称するのだろうけれど、確かにこれは存じなかった。
「そう言うことです。司書であれど精霊指定図書の在するライブラリー並びに国立ライブラリー以外での書籍精霊については目下調査中であり、ライブラリーを管轄するライブラリアンと私たち司書には、口外不門の義務が課せられているのです。明日、館長より通達があると思いますが、片隅に入れて置いてください。キッシュさんは素質を見越されたライブラリアンの見習い、と言うことですから特にですよ」
「は、はぁ……」
それっきり、受付の女性は明日からお待ちしていると、僕を送り出す。口外は禁止と言うことの疑問と、妙に納得する事象に、夕暮れの町並みを味わうこともなく、帰路に就いた。
閲覧ありがとうございました。
前書きに書いたので、特に書くことはありません。
とりあえず、次回更新予定作は本作同様、更新が滞っていた「波の間に間にうたごえを」です。
予定日は今の所6日を予定しております。