ウォルトライブラリー所長
思っていたより早く更新できました。
今回は新キャラ登場させました。
それほど長くありませんが、次回はちょっと回想入れます。
通勤路はいたって普通だった。僕らより吸う穂先を歩くラミアさんと、僕の隣を歩くエルシェさん。女生徒並んで歩くことはそれほど多い方じゃないから、マンションを出手すぐは、エルシェさんが一番後ろを歩いていた。
「優しいね、キッシュ君」
「あ、いえ、別にそういうつもりじゃ……」
どうやら気づかれていたみたいだった。僕が歩幅を小さくして、歩く速度を落としたことを。
「キッシュ君、ラクリアから来たんだよね?」
「はい。そうですけど?」
ラミアさんは基本的にそれほど会話に入ってこない。むしろさっき僕の手から奪った菓子詰めを見ながら、どれから食べようかと悩んでいるようだ。でも、一方でエルシェさんは良く声をかけてくる。僕から話しかけることはなく、楽といえば楽。けれど、何となく距離が近いせいか、あまりエルシェさんを見て話すことが出来ないというより、恥ずかしい気持ちが大きかった。
「どんな街だったの? 私、ラクリアには行ったことないの」
大抵エルシェさんから聞かれることは、はい、いいえ、で答えられるものじゃなかった。何かしら補足説明をしなければ伝わらないことばかり。おかげで話しやすい気分にもなる。
「そうですね、こことは違って、見た感じから立体映像や機械が溢れてました。生活に苦労することのない街と言った感じでしょうか」
ラクリアは本当に便利だった。インフラの整備は完璧。数分後とに移動手段になる乗り物が何かしらやってくる。どれも無人操作による、完全制御システムのおかげ。買い物ですら自宅から、近所の店にネットから注文すれば配達されてくる。遠出するにも、レールを使えば快適に移動できるし、スタンダーレールの運行本数も多いし、遠方ならレールラインの高速鉄道もどこへでも繋がっている。あまりに遠いときにはエアシップで空の旅だが、それはあまり使うことはなかった。
「へぇ〜、便利だねぇ〜」
「はい。仕事へ行くにもこれほど歩くことはありませんでしたね」
何より仕事の時の移動手段が今のところでは一番の違いだろう。ラクリアに居る時はマンションからすぐ近くにスタンダーレールの駅があったし、場所によっては動く(ノーウォーク)歩道が完備されていたから、歩くと言う動作はマンションから外に出る時と、勤務先へ着いた時くらいだった。しかし、この街に来てからは、基本が徒歩だ。スタンダーレール、レールラインの駅は逆方向。無人輸送のバスなどもほとんど見かけない。
「すっごく田舎だよね〜」
エルシェさんが不意にそう呟きながら朝日に照らされ、朝露の煌めく花たちが戯れる軒先を見ていた。
「そうですね。でも、悪くないですよね」
そう。不思議と嫌だとか、不便とか強く思うことがない。むしろ気に入ってしまった。何かをするにしろ、どこかへいくにしろ、自分の足で歩かなければならない。買い物も自動で配達も出来ないようだし、大型のモールなどもない。だから、この時間だって、空が真っ青だとか、太陽が眩しい、各家庭の庭先の輝かしさなどによく目が移ろう。今までそんなことを思いながら仕事へ行くことなんてなかった。いつもの時間に起床し、支度をし、仕事へ赴き、その日の仕事をいて、帰路に就く。大して周りの背景なんて気にしなかった。
「ドキドキするよね?」
そんな僕に、エルシェさんが優しい笑みでそう聞いてきた。
「ドキドキ、ですか?」
「うん、ドキドキ。今日は何か良いことがありそう、とか、わくわくしそうなお日様日和とか、歩くだけでも楽しくなるよね?」
エルシェさんの言うドキドキと、僕なりに感じているドキドキは、今は恐らく少し違うと思う。今日から仕事に就く僕にとっては着任式のことで緊張からドキドキはしている。それでも、エルシェさんの言うドキドキも何となく意味は理解できた。
「清らかな空。頬を愛おしく撫でる風。ドレスを纏う朝露の花。その中を歩く私たちは、まるで舞踏会へ誘われる蝶のように軽やかに足が進んでいく。きっと今日は素敵な一日になる。そんな感じがしてくるよね、この町は」
不意にエルシェさんがいつものような微笑ましさのある笑みではなく、優しさにあふれた、母性に満ちた―――言わば、女神のような微笑を携え、僕を見上げた。思わぬ表現とその笑顔に、僕の心は朝だと言うのに、妙に跳ね上がりそうになった。いや、跳ね上がったかもしれない。賛同か否かを求める問いかけに、僕はエルシェさんのその笑みに魅了されてしまい、肯くだけで良いはずだというのに、それすらも奪われてしまう。感覚の略奪。それは虜という言葉に片付けられてしまうほどに、僕の目には輝いて見えた。
「え、えっと……」
「エル・デ・バートの第四刊行書籍、《サルマンタ通りのブレンディ》より、第一章十七ページより抜粋」
返答に困ってしまった僕に、正面を歩くラミアさんが少々呆れ声でそう言った。
「え?」
振り返ることなく紡がれたその言葉に、僕はラミアさんを見た。
「清らかな空。頬を愛おしく撫でる風。ドレスを纏う朝露の花。その中を歩く君は、まるで舞踏会へ誘われる蝶のような軽やかな足取りで、僕の目の前を美しい靴音と香りを残して通り過ぎる。その背中を追う僕は思ってしまった。その美しい後姿を永遠に眺められるのであれば、この熱いブレンドコーヒーが氷になってしまっても、僕は気づくことなく口に運んでしまうのだろう」
ラミアさんがやはり振り返ることなく、続ける。一体何のことなのか、僕には分からなかった。
「えっと、ラミア、さん?」
その言葉は、明らかに日常的会話に用いるような言葉ではない。小説や物語に使う文字としての表現方法だろう。今時、そんな恥ずかしい言葉を惜しげもなく言葉にする人は、そうはいない。いるとしたら、よほどの自己陶酔型の人間か、空気を読めない人だろう。
「エルシェ〜、あんた、やっぱ腹黒いわぁ」
そこで初めてラミアさんが振り返る。視線は僕ではなく、エルシェさんを向いているが。
「もぉ〜、そんなことないもん〜。私が感じたままに言っただけだよぉ……ちょっとだけ、似てたかもしれないけどぉ〜」
エルシェさんが頬を膨らませてそう言い返す。
「キッシュ」
「は、はい?」
「エルシェが常日頃そんなこと思うと思ったら大間違いよ。この子はね、腹黒いんだから」
ほら、とラミアさんがバッグを漁りながら一冊の本を僕に投げた。いきなり投げるから慌てて手に取ると、文庫本だった。
「サルマンタ通りのブレンディ? あの、これは?」
さっきラミアさんが言っていた本らしい。僕の知らない作家だった。
「あ〜〜〜〜〜っ!」
と、ラミアさんが僕に読んでみなさいとでも言うように僕へ顎を上げてみせる。よく意味が分からないままページを開こうとした時、エルシェさんの驚いているようなんだけれど、口調がのんびりした声が響く。
「十七ページよ」
「十七ページ?」
言われた通りにページを開いてみる。
「ダメダメダメぇ〜。キッシュ君、ダメ〜」
でも、開こうとした時、僕よりも小さな手が、本を開かせないと伸びてくる。温かく柔らかい手のひらが僕の手を包むように押さえ込む。それでも力は僕の方が強かった。いや、捲るのが早かった。
「あっ……」
その瞬間、飛び込んできた文字の世界。文頭から読んでいないため、内容の把握は難しい。でも、言われた通りに十七ページに視線を落とすと、引っかかる一文が見えた。
「清らかな空。頬を愛おしく撫でる風……って、これ」
そこにある文章は、ラミアさんが話したものと全くの同文。エルシェさんが最初に僕に見せた笑顔とともに語りかけた言葉は、ほとんど同じ文章だった。
「そゆこと。良かったわねぇ、エルシェ。キッシュがその小説読んでなくて。読まれてたらとんだ恥晒してたわけだし?」
悪戯っ子な笑顔でエルシェさんを見るラミアさん。
「あっ」
むぅ〜、と恥ずかしいのだろう。僕が開いていた小説を奪い去ると、そのまま自分のカバンに押し込んでしまった。
「これで分かったでしょ、キッシュ。エルシェはミーハーなわけ。見た目と雰囲気だって演出よ、演出」
そういわれて改めてエルシェさんに視線を向けると、エルシェさんは子供のような膨れ顔でラミアさんの悪戯な笑みを睨んでいた。
「……なるほど。そう言うことですか」
思わず笑いが出そうになった。
「あ〜、キッシュ君、笑ったぁ〜」
「笑ってないですよ」
エルシェさんの人柄が自然ではなく、影響されたものを反映している。だから、さっきの表情もその一環だったのだろう。そして、感情豊かにラミアさんに反応する姿が、恐らく本当のエルシェさん。
「笑ったもん〜、今だって笑ってるよぉ〜」
「笑ってないですって」
そんな風に僕を見てくるエルシェさんに、おかしさではなく、愛らしさとでも言うのか、少しだけその見栄っ張りと言うか、素直な姿に表情が緩んだかもしれない。でも、自分でも認識する事実は、エルシェさんがたとえ雰囲気を繕っていても、それがあまりに自然に見えてしまうくらいに似合ってしまう。それが演出であろうと、僕は確かに魅了された。だからこそ、僕にしてみればどちらの表情もエルシェさん自身に見えた。
「もぉ〜、キッシュ君、笑いすぎだよぉ」
「だから笑ってないですよ」
そう良いながら、きっと僕は笑っていたのだろう。着任の挨拶の緊張なんて、どこかへ吹き飛んでいたのだから。
「ま、大丈夫でしょ、これなら」
そしてそんな僕らのやり取りを見ていたラミアさんが、そう呟いて、再び先頭を歩き出した。
「もぉ、キッシュ君の緊張を解く為だからって、人をダシにしないでよぉ」
そして今まで隣を歩いていたエルシェさんが、ラミアさんに詰め寄るように僕より一歩前に出た。
「良いじゃない、別に。良いダシが出たわけなんだし」
あぁ、やっぱりそうだったんだ。どうやら僕は二人から見て、緊張しているように見えたらしい。それを解くためにラミアさんがエルシェさんを利用した。そしてエルシェさんもその意味を知っていながら協力した。だから、二人の言い合いには、喧嘩にあるような感情がないんだ。やっと理解した。ジョンケールからラミアさんとエルシェさんは昔から知り合いだと聞いていたから、親友の成せる心使い、みたいなものかもしれない。わざわざ僕のためにちょっとしたプライドと言うのかポリシーと言うのかをわざわざ犠牲にしてまでそこまでする必要はないだろうとは思ったが、僕の前を歩きながら言い合いをしている姿を見ると、素敵な女性に見えてしまった。それこそ、あの台詞のように。
そんなやり取りがあった後、僕らの前に森が姿を見せる。いや、長い木の散歩道がウォルトライブラリーへと続いている。
「清々しいよね」
石畳になっている通りを、低いヒールの靴音を響かせて先を行くラミアさんはいつしかバッグから取り出した本を読みながら歩いている。そんな後姿を眺めながら、僕はエルシェさんと共に燦燦と木漏れ日が降り注ぐ中をあるく。
「そうですね。ラクリアにはここのように自然の中にあるライブラリーはありませんでしたから、気持ちが良いですね」
少し視線を上に上げれば、木の葉のトンネルが続き、そこから朝陽がゆらゆらと僕らにまだら模様を浮かべさせる。気温も高くないこの時期には、深呼吸する心地良さを存分に味わえた。
「王立のライブラリーはもっと綺麗なんだよ」
エルシェさんがニッコリという。
「そうなんですか? あ、そういえばお二人は王立ライブラリーからここへ来たんですよね?」
ジョンケールが言っていたことを思い出す。
「そうだよぉ。私たち、四年前にここへ転属になったの。あ、でも、飛ばされたんじゃないよ? 要請があっただけなんだよ」
そこは特に気にはしないです、僕は。一応派遣の司書ですから、似たような境遇なので。普通はそういうことはあまりない。司書は資格を取得すれば、大概募集をかけているライブラリーやスクールなどで働くことが出来る。その中で派遣としているのは少ない方だ。
「王立ライブラリーも司書官の派遣などをしているんですか?」
公立や私立のライブラリーとはまるで異なる存在の王立ライブラリー。正直なところ、僕は行ったことがない。何しろ、ミンティス州から州を八も跨がなければならないほどに遠い首都にある。ここ、アバラン州からは十二も州が離れている。途方もない距離だ。映像では見たことがあっても、なかなか行く機会のないライブラリーには、一度で良いから行って見てみたい気持ちはあった。
「う〜ん、どうかな? 私たちは、神霊享受指定図書だから、他の部署とは独立してるの」
「そうなんですか?」
精霊指定図書を総括するのが神霊享受指定図書という部署。ルルエルド司書官に深く関係しているらしいけれど、その存在は、ここへ来て聞いただけ。だからエルシェさんの言葉を信じるしか、確かめる方法はない。
「うん。元々ライブラリアンは人数が少ないの。だから人員不足の精霊指定図書から派遣の要請があるの」
「じゃあ、ウォルトライブラリーも人手不足だったんですか?」
ラミアさんとエルシェさんしか見てはいない。そして二人は王立ライブラリーから派遣されてきた。となると、元々ウォルトライブラリーには他にライブラリアンと言う人はいなかったのだろうか?
「ううん。ウォルトライブラリーは、王立ライブラリーからの要請で精霊指定図書を新設したの。それで、私たちがその第一陣としてここへ来たんだよ。この町は今でも人の手と自然の共存で成り立っているから、精霊指定図書には最適な環境だから選ばれたみたい」
へぇ、そうなんだ。と納得した。他に二人のようなライブラリアンの姿は見ていなかったから、そう言うことかとやっと理解した。あ、だから室内への入り口に詰まれたままの梱包箱が山積みになっていたのかもしれない。
「四年も経つのに、なかなか書庫の整理が終わらないってのはどうよ? って感じでしょ?」
ラミアさんが入り口前に来て本を閉じて振り返った。
「仕方が無いよ〜。アバラン州全土から初版第一冊が届くんだもん〜。私たち二人じゃ、全然手が足りないよぉ」
「あー。確かに。出入り口まで溢れてましたよね。通るのに苦労しましたよ」
四年経ってもまだまだ作業は途中。でも、四年の間にあの室内の遥か天井までアレほどの本が納められていた。それはそれで凄いことだと思う。
むいっ。
「むぅ〜、それは私たちの作業効率が悪いって言ってるのかなぁ〜?」
と、エルシェさんが頬を膨らませて僕を見る。あわせて人差し指で頬を押してきて。今まではふにふにと軽く突く程度だったのに、これは押し付けるように頬を押してきて、少しだけ痛かった。どうやら機嫌を損ねさせてしまったらしい。そう言うつもりではなかったんだけれど。
「いえ、そうではなくて、新設から四年で、アレほど本が集まるのが凄いなって思っただけですよ」
むいっ、むいっ。
「ほんとかなぁ〜?」
疑われてしまった。内頬が指に押され歯に当たって、ちょっと痛い。
「ほんとですよ」
ん〜? と疑って僕を見るエルシェさんに代わって、ラミアさんがはいはい、とそれを止めさせた。急に頬を突く指がなくなると、ちょっと物足りなさのようなものを感じてしまった辺り、僕は突かれるのがやはり嫌じゃないのかもしれない、なんて解放された頬に思ったりした。
「電子書籍が一般的になったって言っても、文庫は出るし、ハードカバーも雑誌も何でもまだまだ出版されてるのよ。それこそこの国だけでも一日で数万冊は軽い。そしてその書物の全ての一冊目には妖精が宿る。それが毎日ライブラリーに配送されてみなさい。幾らあたしらだって猫の手も借りたくなるわよ」
「妖精さんの手は借りてるけどね〜」
冗談のような口調でも、それが事実だと僕はその世界を見てしまった。まだ信じ切れていないものがあるけれど、精霊指定図書庫の様子は、未だに幻夢に思えてしまうけれど、今日からそこで働くと言うのであれば、また僕の中にあるその疑問もきっと解消されると思う。先の分からない仕事。これまでやってきたような、書庫の整理、傷本の修復などとは違う新しい仕事に不安と高揚が入り混じって、僕は少しだけ落ち着きが無いかもしれない。
「まぁ、慣れよ慣れ。それよりも気になるのはあれよね」
ラミアさんが並木道を抜けてライブラリー前に来て呟く。
「ん〜、大丈夫だよ、きっと。だって何も連絡来てないよぉ?」
エルシェさんはラミアさんの言うことにすぐに反応してそう言うけれど、僕には思い当たりものが無かった。
「あの、何が気になるんですか?」
「どうせ後で知ることよ」
「んふふ〜、そうだね〜」
なんだかはぐらかされた。首を傾げる僕に、ラミアさんはライブラリーへ通用門を潜り、エルシェさんは相変わらず僕の頬を突いて笑うだけだった。
「じゃあ、あんたは一応着任式があるから、人事部の方に行きなさいよ」
「また後で会おうねぇ〜」
「はい」
ライブラリー内に入ると、二人はそのまま精霊指定図書庫の方へ向かい、僕はそれを見送り、集合場所に指定された人事部のあるライブラリーの事務所へ出向いた。
「おはようございます。今日から働くことになるアサルト・キッシュです」
まだ出勤するには少しばかり早かったのか、人では少なく、様々な部署が総括してある大広の事務所内には数人がいるだけだった。
「おはようございます。私は人事部のマーシュ・ラインコットです」
誰が担当者かと見ていると、一人の女性職員がやってきて、名刺を頂戴する。
「パルリアートの方からはこちらで職務内容の伝達があるといわれたと思いますので、どうぞこちらへ」
「はい」
すでに派遣契約書などは記入して契約はした。あとは主な仕事内容についての説明などを受けるだけ。
そして通された部屋は会議室。それでも小さな会議室で印象的なのは、開放的な作りで、窓が多く、そこからウォルトライブラリーの周囲に茂る賑やかな緑の光が差し込んでいるくらいだった。
「この後九時より着任式としてウォルトライブラリー所長のエルフィン・クラナドより挨拶があります。その後は派遣先である精霊指定図書庫の総括担当司書官のフェスティアリア・ラミア氏より職務に関する規定等を研修として勉強して頂きます」
「分かりました」
と言うよりも、マーシュさんの口調と言うか、言い方に一瞬疑問が浮かんだ。マーシュさんは今、このライブラリーの所長を呼び捨てにしたのに、ラミアさんには氏をつけた。それ以上に驚いたこともあったり。
(ラミアさんの名前、初めて聞いたかも……)
エルシェさんとは昨日挨拶をしたときに互いに自己紹介をしたけれど、ラミアさんは僕の挨拶を軽く流すだけで仕事をいきなりさせてきた。だから、今初めてラミアさんの本名を知った。
「また、契約期間は本日より一年間。契約満了前月には、審査を通し、希望退職、雇用継続、契約解除など措置を得ていただきます。雇用に関してましてはパルリアート社との提携による保険形態を継続することによりアサルト・キッシュさんへの保障も当日を持って開始されます」
そんな事務的なことは、派遣として働く度にどこでだってまず最初に確認を取らされる。それはつまり、僕が派遣社員である以上、社員との扱いが違うと言うことを自覚することを認識させる。正直なことを言えば、社員ではないのだから首を切られる時に文句を言うなと、保障があるのだからそれで良いだろう? と言うことだ。
「分かりました。こちらこそよろしくお願いします」
「では、もうじき所長が来られますので、それまでこちらにてお待ち下さい」
マーシュさんはそれだけを言うと僕に一礼して外へ出て行く。残された僕はかばんをテーブルに置き、一息つく。とても静かだ。窓の外はどこまでも朝陽に輝く緑色が目に優しい。少しだけ開かれていた窓から吹き込む朝風も爽やかで、深呼吸をすると体内が透明になりそうなくらいに空気がきれいだった。人工的に放散される正常な空気ではなく、自然が作り出す清浄な空気は、気持ちを落ち着かせてくれる。
「やっぱりラミアさんたちは王立ライブラリーからだから、なんだろうな……」
ふと先ほどのマーシュさんの言葉が思い浮かぶ。所長を名乗る人物よりもラミアさんに対する方が礼儀を慎むと言うのか、同じ職場にいる人間に対して、距離を置いているという見方も出来る。まるで触れ物だ。目上に対する敬意かもしれないけれど、どうも距離を感じる方に僕の認識は移ってしまう。
―――コンコン。
時刻は午前八時五十五分を過ぎた頃。ドアをノックする音に、意味無く腰を下ろしていた椅子から立ち上がる。
「失礼しますね」
「は、はい」
カチャ、と開かれたドアの向こう。少しばかり意外な人が姿を見せた。
「初めまして、アサルト君」
そう第一声を掛ける人は、女性だった。しかも、僕はその人を知っていた。
「え、エルさんっ?」
そこにいたのは、マーシュさんのようなキャリアウーマン風ではなく、長い髪を一つ結いに下ろし、小さな眼鏡が似合う、エルシェさんとは少し違う大人の女性に優しい笑顔を浮かべているエルさん。
僕が前に司書試験の為に勉強していたラクリアのライブラリーで司書をしていた人だ。
「あぁ、やっぱりキッシュ君だったのね」
凛とした服装などではなく、どちらかと言うとラフと言うのか、ゆったりとして優雅と言うか優しさの溢れた服装で、僕の記憶の中にあるエルさんそのままの姿だった。
「あの、エルさんがどうしてここに?」
僕が司書の資格試験に向けて勉強していた近所のライブラリー。そこで司書として働いていたエルさんは、よく僕の勉強を助けてくれた。先輩として色々と助言や現場を通しての本の扱い方や歴史、図書館資料の管理、保管、提供方法、レファレンス、システム運用など様々な現場にいなければ文書だけでは学べないことにも協力してくれた、いわば恩人のような人だ。思いがけない再開に、落ち着いていた僕の心は、驚きに強く脈打った。
「どうして、といわれると、こういうことよ? って言いたくなるのよね」
エルさんが僕に一枚のカードを差し出してきて、それを受け取った。それは名刺。マーシュさんから頂いた名刺と同じ作り。
「え……?」
だが、僕はそれに更なる驚きを見てしまった。
「所長、なんですか……?」
「ええ。三日前に着任したばかりなんだけどね」
ふふ、とどこかおかしそうに驚く僕に笑むエルさん。
「え? えぇ? ど、どういうこと、ですか? というか、向こうのライブラリーはどうしたんですか?」
その名刺には、ウォルトライブラリー所長に名を連ねる証があった。
「ん〜、どういうことって言われると、私も一応公務員ではあるから、昇進ってことになるわね。無効のライブラリーからの昇進人事ってことで、ここへ移ることになったの。まさかそこにキッシュ君が派遣されてくるなんて、私、思ってなかったわ」
それは僕もです。あのときから司書の資格を取って三年ほど。その間もエルさんは代わらずに地元のライブラリーで働いていた。
「でも良かったわね。派遣としてでもこうして夢にたどりつけたんだもの」
「は、はい。その節は本当にお世話になりました」
感謝しても足りないくらいに面倒を見てもらったことは、僕には大きい。
「良いのよ。私も自分が改めてこの仕事に就いて学ぶべきことを再認識できたんだもの。お互いに良い思い出になったってことで、今は喜びましょう?」
「はいっ。あの、それで、何でなんですけれど……」
僕はてっきり社長は男かと思っていた。昨日のラミアさんとエルシェさんの話からそうだと思っていたから、その突発的な事態に驚きが消えない。
「え? あ、あぁ、ごめんなさいね。着任式の任命をしないといけないんだったわね。つい思い出に浸りたくなっちゃったの」
そう思っていただけるのは非常に光栄であり、僕も嬉しいけれど、まさかエルさんが所長だったなんてびっくりだ。
「いえ、僕の方こそ、またエルさん……エルフィン所長に再会できるなんて思ってもみませんでしたから」
つい、昔のままで親しく呼んでしまったけれど、今日から僕の上司。けじめはつけないといけない。しっかりと切り替えないと、なんて思っていたらエルフィン所長がおかしそうに笑った。
「相変わらずね、キッシュ君」
「え?」
その笑顔は、僕の知るエルさんだった。
「確かに仕事上は上司と部下になるわ。でも、まだ仕事をしているわけじゃないし、ここには私たちしかいない。だったら、もう少しくらいあの頃の仲の良い私たちでも良いと私は思うわよ? と言うよりも、分かってはいるけど、私にはキッシュ君は可愛い弟、みたいに思えちゃって、何だかあまりお仕事って感じが無いのよね」
あぁ、良かった。エルさんはエルさんなんだ。本を扱う以上、厳しい所長がどこも多い。それはそれだけ本に対する情熱が熱いことなんだとは分かっている。でも、この人は違うんだ。情熱はきっと誰よりも強い。だって僕にあれほど親身に教えてくれた人だ。でも、ほんわかとしたその態度には、これから毎日が楽しくなると、確証は無くても自信は出てくる。
「はい、ありがとうございます」
「ふふ。じゃあ、時間も時間だし、はじめましょう」
時計の針は時間を過ぎていた。
「失礼します」
そして、まるでタイミングを見計らっていたように、ドアが開いて、ラミアさんが姿を見せた。昨日の解妖の時に纏っていたあの綺麗な礼服姿だった。今朝の態度とは全然違って、ラミアさんはやはり凛としていた。
「ごめんなさいね。少し遅くなってしまって」
「いいえ、所長。お気にならないで下さい」
ラミアさんとふと、目があった。どことなく睨まれているような気がしたのは何故だろうか?
「では、これよりアサルト・キッシュ君へウォルトライブラリーでの就労任命を行います」
そんなことを気にすることなく、エルフィン所長が一枚の色紙を広げ読み上げた。それはウォルトライブラリーで勤務する以上、利用するお客様の為に尽力を尽くし、本への慈しみを元に、本の楽しさ、面白さを広められるように働いて下さいということだった。
「では、アサルト・キッシュ君は精霊指定図書庫にてこれから一年間頑張ってもらいます」
「はい、これからよろしくお願いします」
深く一礼して、顔を上げるとエルフィン所長が僕に微笑んでいて、ラミアさんは凛としているけれど、どこかつまらなそうに僕を見ているような気がしてしまうくらいに表情がなかった。
「ではラミアさん、キッシュ君のことをよろしくお願いします」
「分かりました。しっかりと指導し、立派な職務につかせてみせます」
期待していますね、とエルフィン所長は微笑み、ラミアさんは僕を静かに見ているだけだった。
「キッシュ君」
「あ、はい?」
任命が終わり、話もこれで終わりだろうと思った時、エルフィン所長が僕を呼んだ。
「勤務が終わったら私のところへ来てもらえるかしら?」
「はぁ、それは良いですけど、何かありましたか?」
「いいえ、大したことじゃないのよ。詳しくはその時にお話しするから、よろしくね」
ん? と疑問が残ったけれど、そう言われるとそれに従うしかなく、ラミアさんが僕をまっていた。
「ではキッシュ君、これから仕事内容について説明するので私についてきてください」
「あ、はい。それでは失礼します」
「はい。頑張ってね」
ラミアさんに君付けされて思わず、むず痒さが沸いたけれど、そんな反応を見るわけでもなく、ラミアさんはエルフィン所長に一礼すると先に会議室を後にした。僕も一礼をして笑顔で見送られて先に会議室を後にすることになった。
部屋を出ると、やはりラミアさんは僕よりも数歩先を歩き、僕はその凛とした背中を追うだけ。特に会話は無かった。何か話した方が良いのかな? なんて思っていたのに、先にラミアさんが振り返った。
「あんた、所長と知り合いだったわけ?」
何だろう? 朝の態度も少し冷たいと言うかそっけない感じだったけれど、今は今でさっきよりも何だか厳しいと言うか視線が少し痛いと思う。
「え、ええ。司書資格の勉強で利用していた地元のライブラリーで……」
「何年前?」
「えっと、三年ほど前ですけど。それが何か?」
「どういう風に出逢って、どんなことをしたの? 詳しく聞かせなさい」
「え?」
いきなり何だろう?
「良いから全部。上司命令」
えぇ? そんなことを聞いてどうするんだろうか、ラミアさん。と言うか、何か変だ。やけにエルさんにムキになっているような……。あ、もしかして、ラミアさん、エルフィン所長のことを知りたいのかな? さっきの様子を見ていても、やっぱりエルさんがラミアさんに所長としての態度よりも、目上の人を見るような感じに見えた。それがラミアさんは嫌だったんじゃないだろうか? 上司から遠慮されるように接せられるのは、ラミアさんをまだ昨日しか見てないけど、それでも何となくラミアさんは自己顕示が強いというか、仕事熱心だ。だからこそ上司であるエルさんには、部下としてみてもらいたいのかもしれない。だからこそ、何かしらの糸口になるかもしれないことを聞いておきたい、のかもしれない。
そう思うと、それで関係が改善できるのであれば悪くないかもしれない。エルさんは基本的に温和で女性らしい人だから、きっと仲良くなれるだろうし。
「そうですね。少し長くなりますよ?」
「構わないわ。書庫の整理はエルシェが指揮してるから」
それは大丈夫なのだろうか? エルシェさんののんびりさからすると、あの室内にいる妖精たちに目が届かないような気がするし、本を整理しながら手に取った本をつい、と読みふけりそうな感じがするんですが。
「こっちに来なさい。いいとこがあるわ」
もうとっくに始業の時刻は越えているのに、ラミアさんは精霊指定図書庫の方ではなく、ガラス扉に手をかけ、やっぱり何も言わないまま僕に背中を見せ、ウォルトライブラリーの一般立ち入り禁止の中庭の方へ歩いていき、僕はついていくだけだった。
「エルシェ様、エルシェ様、これ、このご本、どこ? どこ仕舞うの?」
シオリがトコトコと髪の合間から角を覗かせてエルシェの元に寄る。
「えーとぉ、その本はねぇ……」
「エルシェ様、こいつぁそろそろ解妖の時期でさぁ。いつごろ変えやすかい?」
ばさばさと羽音と風を振りまきながらジョンケールが上空から降りてきた。本を嘴で挟みながらエルシェに本を差し出す。
「ふぇ? えっとぉ、それはぁ〜」
「エルシェ様さまぁ〜。3124から3145までの本が図書管理システム部から貸し出し教本の申請入ってますですよ〜?」
「あれぇ? そうだったっけ〜? カヅラ、じゃあね、それはぁ〜……」
「エ〜ル〜シェ〜さ〜ま〜、こ〜の〜本〜は〜、どぉし〜まぁすぅ〜かぁ〜?」
その頃、仕事が始まると同時に、精霊指定図書庫は妖精たちが室内と飛び交い、エルシェは次々と寄ってくる妖精に指示を出そうとするが、のんびりとしているせいで、指示を出す前に次の要請が指示を仰ぎに来て追いついていない。
「えっとぉ〜、え〜とぉ〜……うぅ〜、何が何だか分からなくなってきたよぉ〜」
《エルシェ様、この本はどうしますかぁ?》
次々とエルシェの周りには妖精が寄ってきて、仕事が早速行き詰ってくる。
「エルシェ様っ」
「あう〜、着任式終わったのに、ラミアちゃんも、キッシュ君もなんで戻ってこないのぉ〜?」
妖精たちに詰め寄られ、エルシェはもぉ〜と少々憤慨したように声を上げていた。
閲覧ありがとうございました。
次回更新予定作は「波の間に間にうたごえを」です。
更新予定日は、今月下旬から来月上旬になります。