第7話 異世界
よろしくお願いします、と丁寧な挨拶とともに差し出された少女の左手を、なぜか湊は右手で握り返そうとして、けれどすぐに骨折して腕をがっちり固定されていることに気づき、慌てて左手で握り返した。
そんな湊に、くすりと頬笑みを向けてから握手を交わした少女――リリア・ガーネットは、軽く居住まいを正した。
「さて、自己紹介も終わったところであなたのお話を少し……」
――ぐぅ~……
「お伺いしようとしたのですが、それよりも先に食事にした方がよさそうですね」
「す……すみません……」
何とも絶妙なタイミングで腹の虫が騒いでしまったことに、湊は思わず赤面してしまう。
「大丈夫ですよ。ちょうど私もお腹がすいてきた頃ですから」
頬笑みながらポケットから携帯端末を取り出して慣れた手つきで操作したリリアは、やがて端末に浮かび上がった初老の男性の映像に向かって話しかけた。
「イアン、食事を二人分、すぐに用意してください」
『かしこまりました』
恭しく頭を下げた初老の――イアンと呼ばれた男性の映像が、ぷつりと消える。
それを特に気にすることなく、携帯端末をポケットに戻したリリアは、湊が間抜けな顔で自分の方を見ていることに気づき、首をかしげる。
「どうかしましたか?」
「あ……いや……その……。今のは……?」
「……? ああ、これですか?」
湊の質問の意味を理解しかねたのか、一瞬だけ首をかしげたリリアは、ポケットから再び携帯端末を取り出す。
「ただの家庭用携帯端末ですよ? 一応、呼び鈴みたいなものはありますけど、今はこれの方が早いですし確実ですから」
照れたように笑う少女へ、元よりあまり女子と話し慣れていない湊は「聞きたいのはそこじゃない」とツッコむことはできなかった。
では、いったい湊は何をリリアへ聞きたかったのかといえば、先ほど彼女が見せた携帯端末に浮かび上がっていた初老の男性の映像について――もっと詳しく言えば、携帯端末から映像が浮かび上がっていたことについて。
空間投影、あるいは空間投射と呼ばれる、SF映画やアニメではお馴染のその技術も、けれど現代社会ではいまだに実用化されていなかったと湊は記憶している。
そしてそれは、実際に湊も体験してしまったロボットにも、そして命のやり取りをしたあの巨大な亀にも言える。
いくらニュースや新聞を見ることがほぼない高校生といっても、完全二足歩行有人ロボットと巨大生物がリアルバトルしているというのなら、否が応にも耳に入ってくるはずだが、実際にはそんな話を聞いたことがない。
あるいは、湊が知らないような国で実際に行われていることかもしれないが、少なくとも日本ではありえない。
それに、明らかに外国人と分かる風貌に名前なのに、普通に日本語が通じる目の前の銀髪美少女や彼女の仲間たちの存在も不可解だ。
「(ここはどこなんだ?)」
そんな疑問が頭から離れず、難しい顔をしながら歩いていた湊へ、前を行く少女が振り返ってその深い柘榴石色の瞳を向ける。
「こちらが食堂です……ってどうかしましたか、変な顔をして?」
「ああ……いや……なんでもない……です……」
急に畏まった湊を見たリリアはきょとんと首を傾げたが、やがて気にしないことにしたのか、目の前の扉をゆっくりと押し広げた。
そこに広がっていたのは、ある意味において湊の予想した通りの光景。
高い天井には豪華絢爛なシャンデリアが吊下げられ、南側には大きな窓が何枚も張り巡らされている。そのまま視線を上座の方に向ければ、そこには重厚な額に入れられた巨大な絵が飾られており、その絵を中心線としてまっすぐに無駄に長いテーブルが鎮座し、その両脇には椅子が整然と並べられている。さらに、床には毛足の長い絨毯が隙間なく敷き詰められていて、全体的にいかにも「THE・金持ちの食堂」という空気を醸し出していた。
そして、その無駄に長いテーブルの真ん中あたりには、ぽつんと二人分の食器が対面で置いてあった。
そんな、いかにも中世の貴族然としている食堂の様子に唖然とする湊をよそに、リリアは何の気負いも無く中に足を踏み入れ、用意された食器の片側に歩み寄る。
直後、どこからとも無く現れた執事服を着た男性に椅子を引かれ、優雅にそれに座った少女は、今だ入り口でぽかんとしていた湊に目を向け、手招きをする。
「そんなところにいつまでも立ってないで、こちらへどうぞ」
その声と手つきに、湊は戸惑いながらもゆっくりと進み、深い柘榴石色の瞳を細める少女の対面に恐る恐る腰掛ける。
誰かに椅子を引いてもらって座るなどと言う経験をしたことが無くておどおどと座る少年を、どこか微笑ましそうに眺めたりリアは、小さく「ぽん」と手を打つ。
「それじゃ、お食事にしましょう」
その途端、まるで決して大きくもなかったその声が聞こえたかのように、両開きの扉を開けて黒いロングスカートのワンピースの上に白いエプロンドレス、そして頭にはホワイトブリムを乗せたメイドが、カートを押しながら二人の側へとやってきた。
初めて目にする「メイド」と言う存在に呆気に取られる湊をよそに、てきぱきと準備を済ませていくメイド。
洗練されたその動きで一切の無駄なくあっという間に配膳を済ませると、恭しく一礼してからそのまま静かに両開きの扉から去っていった。
僅か五分にも満たない早業で支度を済ませてしまったメイドに、けれど目の前の美少女はなんら気にすることなく、両手をその薄い胸の前で組み合わせ、静かに眼を閉じた。
「神よ、今日もまた一日の始まりの食事を得られることを感謝いたします……」
目の前の少女がそのまま優雅に食事を始めたことで、ようやく我に返った湊は両手を合わせて「いただきます」と呟いてから、ナイフとフォークを手に取った。
父の意向で和食中心の石動家で生まれ育ったために、あまりナイフとフォークを使い慣れていない湊は、悪戦苦闘しながら皿の上の料理――分厚いベーコンと目玉焼きを切り分け、口に運ぶ。
食卓でもそれなりに会話が弾む家族たちと違って、静かな空間にナイフとフォークが触れ合う音だけが響く食事に違和感を感じながらも、しばらく目の前の皿を平らげることに集中していた湊だったが、やがて沈黙に耐え切れなくなったかのように、目の前の少女へ話しかけた。
「あの……リリア……さん? ちょっと訊きたいことが……ってなんでそんな顔するのさ?」
なぜか、なんともいえない変な顔を披露したリリアは、慌てたように首を振ってから口元を拭い、ナイフとフォークを置いた。
「いえ……父以外の男性からいきなり名前で呼ばれるなど今まで一度も無かったものですから……」
誤魔化すように微笑むリリアを見て、湊はようやく自分の失態を悟る。
「(そうだった! 日本語を話してるからすっかり忘れていたけど、名前からして道考えてもこの子は外国人じゃないか! ということは名前が先で苗字が後……!)」
今まで短い人生を生きてきて、妹以外の女の子を名前呼びした経験がなかった湊は、急に沸き起こってきた恥ずかしさに思わず赤面する。
「ご……ごめんなさい……」
「いえ、大丈夫です。私のことはぜひ、そのまま「リリア」とお呼びください」
「え……でも……」
名前呼びの許可を出されて戸惑う湊へ、少女は微笑を向ける。
「大丈夫です。私も家名よりは私の名前で呼ばれたほうが嬉しいですし、親しみももてます」
それに、と続けながら悪戯っぽくリリアは笑う。
「ABERの中であれほど楽しいやり取りをした仲じゃないですか。すでにお友達みたいなものですし、今更かしこまる必要はありませんよ……」
「そんなもの……なの?」
「はい、そんなものです。それで? 私はそんなお友達のことをどう呼べばいいですか? あだ名ですか? あだ名が……いいえ、あだ名でいいですか?」
「うん、何でそんな前のめりで嬉しそうにあだ名で呼ぼうとするのかは分からないけど、とりあえず普通に名前でいいと思うよ」
「そんな……」
「がーん」という文字が見えそうなほど落ち込むリリア。
「私、同年代のお友達っていたこと無かったですから、いつか同年代のお友達ができたらあだ名で呼び合うのが夢だったのに……」
「そこまで落ち込むこと!? いや……だってほら……、僕たち出会ってからまだそんなに時間経ってないし……。そういうのはお互いの交流をもっと深めてからでも……」
「そうですか……所詮、私とは遊びだったということですね……」
「誤解を招くような発言はやめてもらえませんかねぇ!?」
よよよ、とわざとらしくハンカチを目元に当てて泣くフリをするリリアに湊が全力でツッコみ、疲れたように肩を落とす。
「僕のほうは、とりあえずそのままミナトでいいから……」
「はい。分かりました、ミナト……」
女の子――それも美少女からいきなり名前を呼び捨て去れたことを気恥ずかしく感じながら、湊は改めて話を振りなおす。
「それでリリアさん……」
「あ、私のことはどうぞ、呼び捨てにしてください。私もそうしていますし……」
女の子に名前を呼び捨てにされた経験もなければ、妹以外の女の子の名前を呼び捨てにしたことも無い湊だったが、いつまでも名前のことで話が進まないのは不本意というか不毛なので、照れくささを隠して言われた通りにする。
「じゃあ……改めて……り……リリア……」
「はい、なんでしょうミナト……」
やっぱりどうしても恥ずかしくなってしまうのを必死に誤魔化して、湊は訊ねる。
「ここって……いったいどこ?」
「…………? ここは先ほども説明した通り、我が「ガーネット家」のお屋敷ですが……? ……っ!? まさかミナト……あなた、その歳ですでにボケが……?」
「うん、話が進まなくなるからツッコまないぞ? ……ってそうじゃなくて! ここはなんていう国……?」
「…………そういう意味ならばここは「オークスウッド」と答えるべきでしょうね……」
「オークスウッド……?」
少女から出たその初めて聞く単語を、湊は口の中で繰り返す。
もちろん世界に一九三カ国以上存在する国すべてを把握しているわけではないが、それでも聞いたことの無い国名だった。
何となく嫌な予感が沸き起こってくるのを胸に押し止めながら、湊は次の質問を口にする。
「えと……じゃあ「日本」や「東京」という地名に聞き覚えは?」
「…………いいえ、ありません」
少女の答えに、予感が確信へ変わりつつあることを自覚する。
そして少年は、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「申し訳ないんだけど……世界地図を見せてくれないかな?」
少年の言葉を訝しく思ったのか、首をかしげながらも頷いた少女は、メイドを呼び出して世界地図を持ってこさせる。
「こちらになります」
そういいながら、食器が片付けられたテーブルの上に広げられた世界地図。
それを眼にした少年は、己の中の嫌な予感が当たったことを理解し、愕然とした。
◆◇◆
石動湊は、客室として割り当てられた部屋からバルコニーに出て夜空に浮かぶ緑色の月を見上げていた。
「やっぱり……異世界……か……」
湊の知る蒼銀の月とは違うそれを見上げながらぽつりと呟き、昼間に見た世界地図を思い出す。
そこには、ユーラシア、南北アメリカ、アフリカ、オーストラリア、そして南極。その六大陸のどれもが描かれてはなく、変わりに一つの巨大な大陸が描かれているだけだった。
そして極め付けが、今湊が見上げている、緑の月だった。
「なんとなく……もしかしたらそうなんじゃないかっていう予感はあったんだ……」
それは、少女たちがABERと呼ぶ巨大人型ロボットだったり、背中の甲羅からビームや光の弾をばら撒く巨大な亀だったりといった、湊の世界では存在しないはずのものを眼にしたときから。
「いや……そりゃ、中二病のときは本気で異世界にいけるって思ってたし、行きたかったけど……」
そう、湊が思い出すだけでも悶絶物の黒歴史のころにあれほど憧れた異世界に、今いる。
そういう意味ではもろ手を挙げて喜ぶべきかもしれないが、今はそれよりも……。
「父さんも母さんも妹も……心配してるかな……?」
家族からの、そして家族への心配が先にたつ。
「帰れるのかな……?」
そんな湊の心配をよそに、異世界での初めての夜は更けていくのだった。