第6話 名前
ぼんやりゆっくり、まるで水底から浮上してくる泡のようにゆったりと、意識が浮上していく。
目覚める直前特有のその感覚は、どこか心地よく、それでいてどこかもの寂しい。
早く目覚めたいけれど、このまま柔らかな布団に包まれていたい。
そんな相反する欲求を抱えたまま、湊はゆっくりと閉じていた瞼を開けた。
途端、視界に飛び込んできたのは、清潔感が溢れていながら、落ち着きも併せ持つ天井だった。
「……知らない天井だ……」
とりあえずお約束を呟いてから、湊がゆっくりと体を起こした直後、動かないようにがちがちに固定されて首から吊られた右腕から体全体へ鋭い痛みが駆け廻って思わず悶絶する。
「~~~~っ!!」
言葉にならない程の痛みを、目の端に涙を浮かべながらどうにかやり過ごした湊は、そのまま力尽きたように再び布団にからだを横たえる。
そうして落ち着いてくると、なぜ自分がこんな風に知らない天井を見上げているのか、自分がどんな状況なのかを次第に思いだし始めた。
◆◇◆
少女の合図で一斉に放たれた煙幕は、彼らの目論見通りにクレーターとその周辺の地面、そして巨大な城塞亀の視界を覆った。
「すぐに煙を払おうと攻撃が来るはずです! 総員、すぐに予定ポイントまで後退してください!」
叫ぶように、否、実際に叫びながら部下たちに指示を出し、自らもまた操縦桿を強く握りしめて機体を操作する少女。
「ぐぅっ!?」
もはや何度味わったかも忘れるほど身に浴びた重圧が体を強く押さえつけるのを感じ、ついで僅かな浮遊感と直後の落下感を湊は低くうめき声を洩らしながら歯を食いしばりながら、必死に耐えた。
できるだけ丁寧に、かつ迅速に機体を着地させた少女は、その様子を肩越しに振り返ると淡くほほ笑んだ。
「よく叫びませんでしたね」
「そろそろこの感覚にも慣れてきてたし……。状況が状況だけに、そうそう叫んでばかりもいられないさ」
己のちっぽけなプライドと意地を隠して胸を張る湊へ、少女は特徴的な深い柘榴石色の瞳にどこか悪戯っぽい光を浮かべて笑った。
「それは残念です。せっかく、今度叫んだらこのまま操縦席から放り出そうと考えていたのですが……」
「何か物騒なこと考えられてた!? こんなところで放り出されたらあの亀に食われちゃうよ!?」
「安心してください。食べられたところですぐに死ぬわけじゃありませんから。じっくりゆっくり胃酸で溶かされて、苦しみながら死ぬだけですから」
「むしろ安心できる要素が何一つねぇ!?」
「むぅ……なかなか我ままですね……。仕方ありません。骨くらいは拾ってあげます。……溶けてなければ……」
「ぼそっと言っても聞こえてるからね!?」
「あらあらすいません、私ったら……。つい本音が……」
「本音かよ!!」
ツッコミ疲れて息を切らす湊へ、少女は悪戯が成功したように笑いながら親指を立ててみせる。
「ナイスツッコミでした!」
「もういいよ……」
「ふふふ……」
「…………?」
突然小さく笑いだした少女に湊が首をかしげていると、
「どうやら緊張はほぐれたみたいですね」
そこまで言われて初めて、湊は少女が唐突にボケた理由を悟った。
「じゃあ……あんたは僕の緊張を和らげるためにわざと……?」
「さあ、どうでしょうか……。まぁ、私の真意はともかくとして、あまり緊張していると上手くいくものもダメになってしまいます。大事なのは適度な緊張とリラックス、そのバランスですよ」
「……うん、ありがと……」
「といってもぶっちゃけ、あなたが緊張しているとそれが私にも伝わってくるから嫌だったんですけどね!」
「僕の感動とお礼を返してくれませんかねぇ!?」
いろいろとぶっちゃけた少女の言葉に湊がついツッコんだ瞬間、通信モニタが開かれた。
『隊長、おふざけはそこまでっす』
『目標が紫獣石に食いつきました』
『予定通りの行動……』
「分かりました。では予定通り、城砦亀が穴に落ちたところを強襲。一気に仕留めます。各員、すぐに飛び出せるように準備を!」
『うっす』
『了解です』
『分かった……』
それぞれに了解を伝えて、しっかりと前を見つめる三人に釣られるように、湊も操縦席のシートに体を納める少女越しに、内壁に投影された映像を注視する。
そこには、地面に点々と置かれた紫色に光る石を首を伸ばして拾い食いしながら、今まさに彼らの思惑通りに、クレーターへ一直線に突き進んでいる巨大な亀の姿が映し出されている。
「なんだ……。知能があるって言っても意外とチョロいんだな、あの亀……」
ぼそり、と呟いた湊の言葉を、しかし彼がしがみつく少女がすぐさま否定した。
「いいえ、それは違います。本来、魔獣と言うのはとても賢く、その知能レベルは人間と同等……とまでは流石にいきませんが、少なくとも犬や猫レベルの知能があることは確認されています」
「つまり、「お手」や「お代わり」とかもできるってこと?」
「魔獣に芸を仕込めるというのなら、どうぞやってみてください。きっと人類史上初めての偉業として新聞をにぎわせるでしょうね」
どこか楽しげに言う少女に対して、湊はモニタに映し出されている、背中に光の弾をばら撒く針と一撃で巨大なクレーターを作り上げる大砲が付いた甲羅を背負う亀と、目の前の美少女を見比べて小さく肩をすくめた。
「いや、遠慮しておく」
「それが懸命な判断でしょうね……っと、おしゃべりはここまでです。城砦亀が穴の中の紫獣石に気付いたようです」
少女の言葉通り、巨大な亀が今まさに、煙で覆われた穴へと一歩踏み出そうとしているところだった。
自然と高まっていく少女たちの緊張感に当てられたように、口を噤んで状況を見守る湊たちの目の前で、穴の淵からあるはずのない地面へと一歩踏み出した巨大亀がバランスを崩し、そのままクレーターの淵に沿うように転がり落ちていく。
まるで雪崩が起きたときのような、大きな音を立てながら転がり落ちた亀が、やがて穴の底――クレーターの中心部分でひっくり返った状態で止まる。
思惑通りに事が運んだことで、少女は一瞬だけその桜色の唇を舌で舐めた後、すぐさま叫ぶように指示を出した。
「今です! 総員、全力でシェルタートルを攻撃!!」
言葉の途中で身を隠す茂みから飛び出した銀髪の少女は、そのまま躊躇無く煙で覆われたクレーターの中心、ひっくり返った亀へと愛機を飛び込ませる。
「はあああぁぁあぁぁああああああっ!!」
落下しつつも、腰に取り付けられた巨大な剣を大上段に構えながら気合一閃。
超振動する刃が、動けずにじたばたともがいていた亀の首の半ばまで一気に切り裂いた。
しかし少女は、一撃で首を落とせなかったことに小さくしたうちすると、躊躇うことなく剣から手を離してその場から離脱する。
その直後、同じように煙を突き破って亀の上に飛び込んできた残りの三人が一斉攻撃を開始した。
『くたばれ、クソ野郎!!』
吼えながら、ダインが少女と同じような巨大な剣を、亀の無防備な腹へと突き立てる。
『全火器、一斉射撃!!』
なにやら中二病っぽいことを叫びながら、カールが機体に搭載された小型ミサイルや銃器を一斉射撃する。
『これで終わり……』
短く呟きながら、クレアが狙撃銃の銃口を亀の顔面に突き付け、何度も引き金を引く。
当然、堅牢な背中の甲羅とは違い、無防備な腹と首にそんな攻撃を叩き込まれた亀は堪ったものではなく、
「ギィィイイィィイイィイイィッ!!」
最後に甲高い悲鳴を上げると、そのまま全身の力が抜けるように絶命した。
「終わった……の……?」
ぽつり、と呟いた湊の言葉を、少女が肯定する。
「ええ、終わりました……。作戦終了! 全機帰投します! ……お疲れ様でした」
少女の言葉に『了解』と綺麗に応えた全員が、スラスターを噴射してクレーターから飛び出していく様子を眺めながら、湊は我知れず詰めていた息を大きく吐き出す。
まるで映画のワンシーンのような現実味に欠けた、それでいて原初の恐怖を呼び起こすような確かな命のやり取りが終わったことに安堵し、全身の力が抜ける。
そして蘇ってくるのは、高高度から湖に落下したときにぽっきりと折れてしまった右腕の存在。それが、まるで忘れるなと抗議するように、鋭い痛みとなって湊の全身を貫いた。
「いぃぃって~~~~~~~~~!」
その痛みに、少女の細い胴に全力でしがみついていた両腕を離してしまう。
「あ、まだ離したら……!」
少女の慌てたような警告も遅く、するりと少女から離れてしまった湊は、体を固定することができず、移動の間ずっと体を狭い操縦席のあちこちにぶつける羽目になってしまった。
ちなみにそしてそれからしばらくして、無事に基地へと戻ってきたことでようやく揺れから開放された湊は、胸から競り上がる熱いものを堪えることができず、すべてを吐き出してしまった。
「おろろろろろろろ……」
その瞬間、愛機のコクピットを汚物塗れにされた少女の悲鳴が上がったという。
◆◇◆
「…………思い出した……。あの後、僕はあの子に思いっきり引っ叩かれて気を失ったんだっけ……」
大事な愛機の操縦席に吐瀉物を撒き散らされたのだから、少女の怒りももっともだ。
なお、湊が気を失ったのは、少女が引っ叩いただけでなく、折れた右腕の痛みや、命の危機が去ったという安堵感も原因だったりする。
それは兎も角として、今に至るまでの状況をようやく思い出した湊は改めて自分が今いる場所を眺める。
シンプルで落ち着いた、けれど素人目にも高級と分かる色合いの内装に、体をまるで包み込むような柔らかなベッド。壁に掛けられた絵画は豪華な額縁にいれて飾られ、チェストの上に置かれた皿や壷などが、部屋に高級感を与えている。
テーブルやソファなどの調度品も、部屋の内装に合わせてシンプルながらも高級な存在感を匂わせている。
「病院には見えないけどここは一体……」
首を傾げる湊の耳に、突然ノックの音が響いた。
「はい……」
湊が条件反射的に応えると、ゆっくりと扉が開かれる。
そしてその向こうから姿を現したのは、あのロボットを操っていた、特徴的なカーバンクルの瞳を持つ銀髪の美少女だった。
ロボットを操っていたときの、ボディラインを浮き彫りにするようなぴったりとしたものとは違って、ゆったりとした白いシャツに首もとの赤いリボンと紫のスカート、そして膝上まで覆うニーソックスというラフな服装をしている。
ロボットに乗っていたときの凜とした空気と違い、可憐なものを纏っているようで、思わず見惚れる湊を訝しく思ったのか、少女は自分の姿を眺めてから首を傾げる。
「…………? どこかおかしな恰好でもしてますか?」
「い……いや! そうじゃなくてその……なんというか……」
何となく「似合っている」という一言を出せなくてくちをもごもごする湊を、少女はくすりと笑う。
一方、笑われた当の本人はといえば、恥ずかしい思いを誤魔化すことにした。
「それであの……ここは? 見たところ病院ってわけでもないみたいだけど……」
湊の問いに、少女はベッドの近くにあった椅子に腰掛けながら答える。
「ここは私のお屋敷です……。本当はあなたを病院に連れて行くべきだったかもしれませんが、そうなるとあなたはろくな治療を受けることもできずに、そのまま軍法会議に掛けられてしまうかもしれなかったので、勝手とは思いましたが、その腕が治るまでという条件で私のお屋敷で引き取らせてもらいました……。まぁ、その腕の治療が終わったらきっちりと上の人たちに叱ってもらいますけどね」
「そう……なんだ……」
軍法会議がどういうものかは実際には分からないが、溜め込んだ知識から碌なことにならないと直感した湊は「ありがとう」と、おどけるように笑う少女へ頭を下げる。
「それで……あの……キミは……」
「リリアです」
湊の言葉を遮って、少女――リリアは胸に手を当てて、微笑みながら名乗る。
「私はリリア・ガーネットと言います。一応、これでもガーネット家の次期当主なんですよ?」
「あなたの名前は?」とその特徴的な深い柘榴石の瞳を向けるリリアに、湊はゆっくりと答えを返す。
「あ……えと……。石動湊……です……」
これが少年と少女――湊とリリアの出会いであった。