第8話 アオイ・シトリンの受難 中編
アオイ・シトリンは、床にべたりと座り込んで大きく肩を上下させ、必死に息を整えながら思う。
おかしい、と。
彼女は同世代の女子に比べて体力には自信があるほうだった。
なぜなら彼女はオークスウッドでも人気のアイドルなのだから。
意外と思われるかもしれないが、アイドルという職業は、ああ見えてかなりの体力が必要である。
ただステージに立って歌を披露するだけではない。
何時間もの間、歌いながら踊り、常にステージ上を動き回るのだから、当然それなりの体力が求められるのだ。
ゆえに彼女は、その道を志したときから体力づくりを欠かさなかった。
夜明けと同時に起きてランニングに出かけ、体力をつけることを考えた食事をした後は、毎日へとへとになるまで激しいダンスの訓練。
そして家に帰って食事を済ませた後も、腹筋や背筋、腕立て伏せなどの筋力トレーニングを重ね、休日にはジムに出かけて筋力をつける。
最近はサボりつつあるとはいえ、そういった日々を送っていたのだから、彼女には体力の自信があった。
下手をすれば、同年代の男子よりもあるという自負すらあったのだ。
そんな彼女が、今は冷たい床に座り込んで、必死に呼吸を整えなければいけないほどに体力を消耗している。
アオイは、自分がそんな状況に追い込まれたものを振り返った。
そこにあるのは、彼女が通うジムにも劣らないほど立派な訓練器具たち。
ただし、体に掛かる負荷は、普段彼女がジムで使っているそれとは比べ物にならない。
そんな器具たちを、アオイよりも年上の男の人たちが軽々と扱い、体を鍛えている。
それだけだったら、彼女もまだこうならなかったかもしれない。
ジムでも同じように彼女よりも高負荷の器具を扱う男性はたくさんいるのだから。
あるいは、彼女が密着取材を命じられた部隊に所属する、彼女と同年代と思われる、ミナト・イスルギ少年が同じことをしていても、彼女がこうなるほどの意地を張らずに済んだかもしれない。
そう。アオイ・シトリンは意地を張っていたのだ。
アイドルとして活動するために並々ならぬ努力を重ねた自分が、同世代の、それも同じ女性に体力勝負で負けるはずがない。
そんな意地を張っていた。
だというのに。
「大丈夫ですか?」
運動のために長い銀髪を頭の後ろで括り、特徴的な深い柘榴石色の瞳で覗き込みながら声を掛けてくる一人の少女。
その少女は、アオイに比べて小柄であり、線も細い。
何も知らない人がみれば、十中八九体力があるのはアオイだと判断するくらいに細い。
だというのに、アオイが息を切らし、全身に汗をかきながらどうにかこなしたメニューを、この目の前の少女は汗一つ流すことなくやり遂げてしまった。
「(いったい、こんな小さな体のどこにそんな体力が……)」
差し出されたスポーツドリンクで喉を潤しながらも訝しげにリリアを見ていたアオイは、先日行われたガーネット邸での夕餐会の様子を思い出した。
「(そういえばこの子、夕餐会すごくご飯を食べてたっけ……)」
なるほど、と思う。
リリアの、この体力の秘密はよく食べ、よく動くを長年繰り返してきた結果なのだろう。
どこか感じる悔しさを、スポーツドリンクと一緒に飲み干したアオイは、はてと首を傾げるリリアに微笑みかけてからゆっくりと立ち上がる。
「軍人さんの訓練はかなりハードなんですね。私も一応鍛えてはいるんですが、ついていくだけで精一杯でした……」
「いえいえ。軍人でもないあなたがこの訓練を最後までやりとおしたことは凄いことですよ? 普通の人ならば途中で音を上げて脱落しています。さすがはアイドル、ですね」
ともすれば嫌味にすら聞こえそうなセリフをさらっと吐きながら、リリアはランニングマシンで何故か先輩と張り合っている少年に眼を向けた。
「今、あそこでランニングしてるミナトなんて、最初の頃はあなたの半分もついていけませんでしたから」
「そうなんですか?」
アオイが件の少年に目を向けると、ちょうどランニングマシンから降りたところらしく、きょとんと首をかしげていた。
「……? どうかした?」
「いいえ、どうもしませんよ?」
少年の問いを、笑顔と共にはぐらかしたリリアは、自分もスポーツドリンクを煽ると、アオイに手を差し伸べる。
「さてと、お昼ご飯まで時間もまだありますし、今度はシミュレーター訓練でもしますか?」
「へっ……? わ……わわっ!?」
意外に力強い腕で引っ張られたアオイは、どうにか態勢を立て直して訓練室を出ていくリリアについていきながら、ちらりと訓練室を振り返る。
すると、そこには慌てて自分たちを追いかけようとする少年、ミナト・イスルギと、そんな自分たちに何故かアピールするようにいい笑顔を向ける二人の青年たちが眼に入った。
「あの……ガーネットさん……」
「アオイさん、私のことはリリアで結構ですよ? 私もアオイさんとお呼びしているわけですし」
「はぁ……じゃあリリアさん……と……」
「呼び捨てで構わないんですが……、まぁいいとしましょう」
くすり、と笑うリリアに気さくさを感じ、思わず笑顔になるアオイだったが、ふと話がずれていることに気付く。
「……ってそうじゃなくてですね、リリアさん!」
「どうしたんですか?」
「いや、どしたんですかじゃなくて……、あの二人は放っておいていいんですか?」
「あの二人……?」
はて、と一瞬首を傾げてから振り返ったりリアは、いまだにトレーニングマシンでがんばるダインとカールをちらりと振り返る。
「ああ……あの二人は、まだがんばってるみたいですし……、そっとしておきましょう」
そのまますたすたと歩き始めるリリアに、何事もなかったかのようについていくミナト。
そんな二人についていきながらも、アオイはどうしても残してきた二人が気になるようで、先ほどからちらちらと後ろを振り返っていた。
「ね……ねぇ……キミ……」
「はい、なんですか?」
アオいが戸惑いながらも、意を決するように声を掛けたのは前を行く少年、ミナト・イスルギ。
アオイにとっては、事前の夕餐会で顔を合わせたこともあり、同性のリリアについで話しやすい人物だ。
ともあれ、そんな湊に、アオイはこっそりと耳打ちをするように顔を寄せる。
「リリアさんっていつもあんな感じなんですか? 私の印象だともっとこう……面倒見がいいというか……。人を置いてきぼりにしないイメージだったんですが……」
「う~ん……、まぁ普段はそのイメージでいいんですけど、時々リリアは天然になりますからね。多分、今もあの二人がどうしてあんなにがんばっているか、気付いていないんじゃないかと……」
「えっと……つまり?」
「多分、ですけど、リリア的には理由は分からないけど張り切ってる部下を止める必要もないかなって思ってるんだと思います」
「あんなに分かりやすくアピールしてたのに?」
「はい……、それがリリアですから……」
もはや諦めたように苦笑を浮かべる湊に、アオイは何となく湊の苦労を察し、それ以上の追求をやめることにした。
そうこうしているうちに、複雑な道を辿って「シミュレーター室」と書かれた扉の前にたどり着いたアオイは、開かれた扉の中を覗き込み、思わず感嘆の声を漏らした。
「ふわぁ~……すごいですね……」
その部屋には、恐らくシミュレーターなのだろうと予想がつく筐体がいくつも並び、壁にはシミュレーションの内容が見れるようにだろう、大型のモニタがいくつも取り付けられていた。
ゲームセンターなどで見かけるようなものと違い、装飾は施されていなく、実用一点張りといった空気に圧倒されていると、送れて部屋に入ってきた湊が、部屋の奥に設置された扉へ向かいながら声を掛けてきた。
「それじゃ、僕は着替えてくるから」
「はい、私たちもすぐに着替えて準備しますね」
「え……? え……?」
困惑するアオイの腕を引っ張って、リリアもまた、奥の扉へと向かっていく。
「ちょ……ちょっと待ってください! 着替えってどういうこと……ってなんで脱いでるんですか!?」
どうやら扉の奥は更衣室になっているらしく、ロッカーがずらりと並んだその部屋に連れ込まれたアオイは、淡々と着ていた軍服を脱ぎ始めたリリアを見て顔を真っ赤にさせながら慌てて後ろを向く。
「なんでって……パイロットスーツに着替えるためじゃないですか。ほら、アオイも早く着替えてください」
さも当たり前のように返され、あまつさえ後ろからパイロットスーツを手渡されるアオイ。
「え……えぇ~……」
戸惑いつつも受け取り、丁寧に畳まれたそれを広げてみるも、当然パイロットスーツなど着たこともないアオイは、だらしなく手からぶら下がるそれをどうしたらいいのか困惑する。
「えっと……リリアさん? これはどうやって着れば……?」
意を決して後ろを振り返りながらそう訊ねると、既にきっちりとスーツに身を包んだリリアの姿が眼に飛び込み、途端、再び顔を真っ赤にさせる。
「なな……なんって格好ばしよっとですか!?」
あまりの同様にわけの分からない口調になるアオイに対して、リリアは淡々とアオイの服を脱がせにかかる。
「なんて格好って、パイロットスーツですよ?」
「なしてウチの服をぬがそうとしてるんですか!?」
「だって、パイロットスーツは裸にならないと着れないじゃないですか」
「だからってそんな格好……っ!? せめて下着だけは!」
「大丈夫ですから、全部脱いでください」
こうして女子更衣室では、下着姿で逃げ回ろうとする少女と、それを追って淡々と脱がせようとする少女という、一部のものからしたら垂涎物の光景がしばし見られたという。
◆◇◆
「うぅ……もうお嫁にいけないです……」
数分間の鬼ごっこの後、結局全裸になるまでひん剥かれたアオイは、全身にぴったりとフィットしてボディラインが浮き出るような薄いパイロットスーツを着させられ、更衣室の隅でしくしくと涙を流していた。
「そんな大げさですよ。ここには私たちしかいませんし、なにより女性同士じゃないですか」
「そうは言いますけど……、……っ!」
呆れたような声のリリアに反論しようとして立ち上がるも、自分の格好に恥ずかしくなってすぐにその場に座り込むアオイ。
そのまま自分の体を抱え込むように隠しながら、平然と目の前で立つ少女に問う。
「大体なんでこんな恥ずかしい格好をしてリリアさんは平気なんですか!?」
「…………? どこかおかしいですか?」
きょとんとしながら、自分の格好を見回してみるも、特におかしなところが見つからなかったのか首を傾げるリリア。
そんな彼女を見て、アオイは先ほど湊が言った「リリアは天然になる」という言葉の意味を強く実感した。
「リリアさんは平気なんですか? 人前にこんなぴっちりしたパイロットスーツを着て出ることが……?」
「そうですね……。私は訓練生時代からずっと来ているものなので、もう慣れてしまいましたから……」
それに、とリリアは悪戯っぽい笑みを浮かべながら言う。
「私からしたら、普段あなたがアイドルとして着ているときの衣装のほうがよほど恥ずかしいと思うのですが?」
「あれは……! その……衣装だから割り切れるんです!」
「だったらパイロットスーツも衣装と思えばいいんじゃないでしょうか? そうしたら少しは恥ずかしさも薄れると思いますよ?」
「衣装……ですか?」
「はい。アオイさんがステージで着る衣装ほど華やかではありませんけど、ね?」
おどけるように言うリリアは、なるほど、パイロットスーツという衣装は、訓練のときはポニーテールにしていた髪を頭の後ろでまとめ、すらりとした細い体躯を覆う全体的に淡い桜色のスーツにところどころ彼女の特徴的な深い柘榴石色の瞳と同じ色のアクセントがあしらわれていて、彼女によく似合っている。
それに対して自分はどうだろうか?
アオイはゆっくりと立ち上がり、更衣室に設置された鏡を覗き込むと、そこにはリリアと同じように髪を後ろでまとめ、その髪色と同じ全体的に明るい緑色に瞳と同じ黄色の線がところどころにあしらわれているスーツを着こなした自分が映っていた。
確かにステージの上やドラマで着る衣装のような華やかさには欠けるものの、シンプルであるが故のよさもある。
しかし。
「(どうにも似合わないですね……。もっとも、それはいつものことですが……)」
内心でため息をつく。
そんな彼女の肩へ、リリアがそっと手を置く。
「とても素敵ですよ。よく似合っています」
「そう……でしょうか? 私としてはどうにも衣装に着られている印象しかなくて……はぁ……。やっぱり、パイロットスーツ無しでどうにかなりませんか?」
再びため息をついたアオイの頭を撫で、リリアは鏡越しに微笑む。
「大丈夫ですから自信を持ってください。それに、パイロットスーツはパイロットの命を守るために重要な機能を搭載していますから、対魔獣殲滅兵器に乗るときはきちんと着ないといけません」
「え……でも今からやるのはシミュレーターですよね?」
「ええ。ですが、シミュレーターでも、搭乗時の加圧状況や衝撃の再現、パイロットの身体データのモニタなどでスーツは必要なんです」
「そう……なんですか……」
「はい、そうなんです。もっとも、女性パイロットたちはデザインはもうちょっと可愛く出来ないか、資材開発部の方たちに提案はしているんですけどね。私も、今のスーツはちょっと味気ないなって思いますし」
舌を小さく出しておどけて見せたリリアは、それからそっとアオイに手を掴む。
「さぁ、そろそろ行きましょう。ミナトを待たせていますし」
「え? あっ! ちょっと待っ……」
まだ人前に出る覚悟は出来ていないと言おうとしたアオイだったが、リリアの細腕からは創造できないほどの力で引っ張られ、結局更衣室から出る羽目になってしまった。
~~おまけ~~
ミナト「二人とも着替えに随分掛かったみたいだけど何かあったの?」
アオイ「リリアさんにお嫁にいけない体にされました」
リリア「そ……そんなことしてませんよ!?」
男子「何それ!? 超気になるんですけど!?」