第6話 ガーネットの帰還 ガーネット家編
天井に設置されたエアコンが、常に快適な温度で空気を吐き出し続け、大きく取り付けられた窓からは外の日差しが柔らかく差し込んでくる。
時々紙をめくったり、何かを置いたりするような小さな物音こそすれど、気になるほどの雑音と言うわけでもないし、大勢の人がいるとは思えないほどに静かな空間。
ここはオークスウッド国立図書館。
国内において最大の蔵書量を誇り、視聴施設や検索システム、託児所、カフェコーナーなど、各種施設も充実している国内最大の図書館である。
ちなみにオークスウッドには東西南北それぞれのエリアにも図書館は存在するが、中央区に威風堂々と建つこの国立図書館ほどの施設の充実や蔵書量はないため、オークスウッドの国民の大半が各エリアよりも、この国立図書館を利用したがる。
それはさておいて、平日の昼下がりということもあっていつもより大分混雑していないこの図書館の窓際の一角に、異世界から来た少年、石動湊の姿はあった。
四人がけの机に一人で座り、棚に並んでいた小説の中から適当に表紙の絵で気になったものを引っ張り出して机に広げている。
それだけをみれば、どこぞの文学少年のようでそれなりに絵になるのだが、実際は違う。
もし、彼の席の近くを通る人間がいて、彼に目を向ければすぐに分かるだろう。
湊少年の指が先ほどからまったく動いていないことに。
そして目は閉じられ、肩が穏やかに上下を繰り返し、規則正しく寝息を吐き出していることに。
そう、湊少年は今、国立図書館の一角で本を広げて優雅に読書に勤しんでいるわけではなく、その身に襲い来る睡魔にすべてを委ね、穏やかに転寝をしていた。
とはいえ、別にこれは責められる行為ではない。
昼食直後で程よく刺激された満腹中枢、常に快適な室温に保たれた室内、柔らかな日差し、程よい雑音。
これだけの条件が揃えば、例え湊でなくても、つい睡魔に身を任せてみたくなるものだ。
現に、湊と同じような人たちが数人、同じように転寝を楽しんでいた。
魔獣の襲撃もなく、実に平和なとある昼下がり。
そんなとき、突如湊がポケットに入れておいた携帯端末が力強く震えた。
「ぬぉっ!?」
思わず間の抜けた声を上げながら飛び起きた湊は、直後に周囲から突き刺さった視線を感じて辺りを見回し、ようやく(現在図書館にいるという)今の状況を思い出して、誤魔化すように笑った。
「…………あ……あははは……。……すいません……」
亀のように首を縮めながら小さく謝った湊は、先ほどから震え続けている携帯端末を取り出すと、そこに表示された名前を確認して通話ボタンを押し込んだ。
途端、携帯端末の画面から相手の姿が空間投射で浮かび上がる。
『ミナト? 今どこですか?』
湊の恩人であり家族でもある少女、リリア・ガーネットの姿が映し出された途端、意外にも大きな声が響いて、湊は再び首を縮めてから辺りを見回す。
幸いにも近くにいた人は、先ほどまでの湊と同様にすやすやと軽い寝息を立てていて、リリアの声が聞こえていた様子はないことに胸を撫で下ろし、素早く携帯端末を掴むと図書館の出口に向かう。
応答がないことと映像が乱れていることに対して訝しげな空気が空間投射の向こうから伝わってくるが、とりあえずそれを無視して急いで図書館の外へと飛び出した湊は、乱れた息を整えてから改めて通話をする。
「……はぁ……。ごめんごめん。今図書館の中にいたから……」
『そうでしたか……それは申し訳ありません……』
「ううん、今は外に出たから大丈夫。……それで? いったいどうしたの?」
用件を問いかけると、何故かリリアは一瞬だけきょとんとした後で、小さくため息をついた。
『ミナト……、まさかとは思いますが……。今日は私の父と母が帰ってくる日ということを忘れていませんか?』
「いや? 覚えてるけど? だって僕は朝から屋敷が騒がしくて居場所がなかったから、図書館に行ったんだし……」
道中でいろいろトラブルがありすぎてそれどころじゃなかったけど、と口には出さず、心の中だけで付け加える湊。
そんな湊の心の声を知ってか知らずか、空間投射の向こうからぽんと手を打つリリア。
『そういえばそんなことを言っていましたね……』
「……って、忘れてたんかい」
がっくりと力なくツッコむ湊に、リリアは誤魔化すような笑みを浮かべてから、小さく咳払いをする。
『こほん! そんなことよりもですね、ミナト。先ほど父と母から連絡があり、そろそろ屋敷に向かうとのことなので、ミナトも早く戻ってきてください。二人にきちんと新しい家族を紹介したいですから』
「ああ……うん、分かった」
短くやり取りを済ませた後、通話を切って一度館内に戻った湊は、出しっぱなしにしていた本を書架に仕舞うと、足早に駅へと向かう。
そうして駅で電車を待つ間に、先ほどのリリアとのやり取りを思い出した湊は、ふと気付く。
「……あれ? そういえばさっきの……なんだかリリアとの結婚報告をするみたいだな……」
一人呟いて、一人で顔を真っ赤にさせた湊は、慌てたように頭を振ってその考えを追い出すと、目の前に到着した電車に飛び乗ったのだった。
◆◇◆
湊がリリアから電話を受ける数時間前。
国議会議事堂の中を歩いていたチャールズとシェリーのガーネット公爵夫妻は、目の前からゆったりと歩いてくる人物に気がつき、足を止める。
と同時に、相手もこちらの存在に気付いたのだろう、夫妻の数メートル手前で足を止め、にたりと笑う。
「おや、これは珍しい……。あなた方がこんなところにいらっしゃるとは……」
くつくつと笑って見せたのは、長身痩躯に黒いローブをゆったりと纏った男、ドレアス・オニキス伯爵。
ねっとりと絡みつくような口調の彼に対し、ガーネット公爵が笑顔で応じる。
「お久しぶりですな、オニキス伯爵。ご健勝そうでなによりだ」
伯爵の嫌味を笑顔で受け流し、握手をするべく手を差し伸べながら近づく公爵。
その手を、伯爵はじろりと一瞥したと、小さく鼻を鳴らしてから握り返し、握手を交わす。
「ふむ……。どうやら国外旅行を大いに楽しまれたようですな? 年の割りに肌つやも恰幅もよろしいようで……。奥方殿も相変わらずお美しい限りだ。私など、ここ最近は特に魔獣の動きも活発で、寝る間もないほどでしたよ……」
幾分嫌味が混じってはいるものの、実際に伯爵の顔は二人の記憶にあるものよりも頬がこけ、目が落ち窪んでいるように見えることから、それなりに疲れているのだろうと見て取れる。
が、同時に、彼の瞳の奥にぎらぎらとした光が宿っているのも、公爵は見逃さなかった。
「(何を企んでいる、ドレアス・オニキス……)」
一瞬だけ鋭い視線を向けるも、次の瞬間にはいつもの人好きのする顔に戻った公爵は、いかにも住まなさそうな顔を作る。
「それは大変だ……。こんなところで引き止めていたら申し訳ない。今日はすぐに帰って休んだほうがいいのでは?」
「そうしたいのは山々だが、生憎と忙しい身でね……。では失礼する」
公爵の好意を無下に断り、最後まで嫌味たっぷりに去っていったオニキス伯爵を、小さなため息を共に見送るガーネット公爵。
「あなた……」
心配そうな顔で声をかけてきた妻へ、夫は振り返りながら笑う。
「なに、心配はいらないさ。確かに伯爵は何かを企んでいる眼をしていたが、それがどんなことであれ、我々や娘、そしてこの国の民たちの害になるというのなら、必ず阻止してみせる……」
強い決意を瞳に宿しながら言う公爵に、夫人はふと微笑む。
「いえ、そうではなく……。そろそろ他の国議員の方々との面会の時間が迫っていますよって言いたかっただけです」
「なん……だと!?」
せっかく格好良く決めていたと思ったら、どうにも最後までシリアスを保つことが出来なかった公爵は、腕に巻かれた時計を見て血相を変えると、慌てたように廊下を走り出した。
そんな夫の背中を、後ろからゆっくりと追いかけながら、妻は苦笑いを顔に浮かべる。
「まったくあの人は……。いつまで経ってもああいうところは変わりませんね。多分、あの娘の天然も、あの人からの遺伝なのでしょうね……。まぁ、二人ともそこが可愛いんですけど……」
最後にころころと笑い、妻は夫の後を追いかけ始めた。
◆◇◆
「ミナト様が戻られました! これより任務を開始します!」
早く戻って来いとリリアに言われた湊は、急ぎ足で屋敷に戻ると同時に、玄関前で控えていたメイドに不穏な言葉と共に中へと引っ張り込まれた。
「わわっ!?」
短く悲鳴をあげ、抵抗する間もなく手近な部屋へと押し込まれた湊は、その部屋に待機していた数人の執事とメイドを前に、思わず顔を引き攣らせる。
「あの……皆さん? これはいったい……?」
なんだか嫌な予感がひしひしと伝わってきて、じりじりと扉へと下がっていく湊。
しかし、その直後。
湊の行動の意味を即座に悟った執事の一人が、人間業とは思えない速度で湊の後ろに回りこむと、湊が手を伸ばす間もなく扉の鍵を閉めてしまった。
「なんで鍵を閉めるんですか!? なんで僕ににじり寄ってくるんですか!?」
不気味な笑みを浮かべながら徐々に近づいてくるメイドと執事に、湊は恐怖心を覚えながら叫ぶ。
「あっ!? ちょ……っ!? 誰ですか僕のズボンを脱がそうとしているのは!? やめて! シャツを無理矢理剥ぎ取ろうとしないで! だめ! せめてパンツだけは!!」
逃げ場がなくなり、追い詰められた湊の服を、いい大人たちが寄って集って脱がせていく。
もちろん彼らは雇い主の指示に従っているのだが、事情を知らない人たちがこの現場を見たら、最早完全に犯罪が行われているとして、直ちに警察機構へ連絡が入ったであろう光景が繰り広げられる。
そうしてそれから間もなく。
若干トラウマが植えつけられそうな状況からようやく開放された湊の姿は、先ほどまでのラフな格好とは打って変わっていた。
この世界では珍しい黒髪をきちんと梳かされ、カジュアルな普段着から、パリッとノリが利いた白いシャツに灰色のジャケット、そして同色のスラックスに茶色の皮ベルト。
靴も愛用のスニーカーではなく、革靴であり、このままフォーマルな社交場や、服装規制のあるレストランへ繰り出したとしても違和感のない格好だ。
最後に、どこからか取り出された姿見で自分の姿をようやく確認できた湊は、鏡の自分を見ながらも至極当然な疑問を口にした。
「…………それで? これはいったいどういうことですか?」
「それは私がご説明いたします」
疲れたように肩を落としながらの質問に答えたのは、老執事のイアンだった。
「突然のことでミナト様も驚かれたことでしょうが、これはすべてお嬢様の指示なのです」
「リリアの……?」
「はい。「ミナト様がお戻りになられたら、直ちにきちんとした格好に着替えさせること」という指示が、私どもへ出されたのです」
「……でも一体なんで……?」
「それは……」
「それは、間もなくお父様とお母様が戻ってくるからです」
イアンの言葉を遮るように、扉から新たな声が放たれ、その場にいた全員が振り返ると、そこには普段のカジュアルな装いとは違い、濃い目の紺色をした五分袖で、ウエストの辺りに帯があしらわれたワンピースだった。
更に普段は背中に流したままの銀色の髪は頭の後ろで一つに纏められ、顔には普段はあまりしない化粧までうっすらとではあるが施されていて、深い柘榴石色の瞳がいつもより強調されている。
「り……リリア!?」
「……? どうかしたのですか、ミナト?」
思わず驚きの声を上げた湊に、ことりと首を傾げるリリア。
「い……いや……、なんだか普段より随分と大人っぽく見えたから……」
「そうですか? そういわれるとなんだか照れてしまいますね……、ってそれは普段の私は子供っぽいということですか?」
ぷくり、と可愛らしく頬を膨らませる彼女の仕草がいつも通りで、内心ほっとしながら「そんなことより」と話題の転換を図る。
「お父様とお母様ってリリアの両親が帰ってくるんだよね?」
「ええ、そうですよ?」
何を当たり前なことを? と言いたげに首を傾げるリリアに、湊は自分の格好を改めてみながら問いかける。
「じゃあ何でこんなきっちりとした格好を?」
「ああ……それはですね。普段ならばいざ知らず、今日はお父様とお母様の帰還パーティーをやるからです。それで、パーティーをするならばそれなりの格好をしたほうがいいじゃないですか」
「え……? それだけ?」
「もちろん、それだけではありませんよ。やはり、湊を私の両親に新しい家族として紹介するのであれば、きちんとした格好のほうが印象がよいでしょうから。こういうのは第一印象が肝心ですからね」
ふんす、と胸を張って意気込むリリアの言葉に対して、「なんだか両親に結婚の報告をするみたいですね」というメイドのツッコミを、湊はあえて聞かなかったことにした。
何はともあれ、そうこうしているうちにガーネット邸に玄関の呼び出し音が鳴り響き、その場の全員に緊張した空気が走る。
それから程なくして。
「お嬢様! 旦那様と奥方様がお戻りになりました!」
堰を切ったように部屋へと飛び込んできたメイドの言葉に顔を引き締めたリリアは、そっと湊の手を取る。
「さあ、行きますよ、ミナト」
「え……!? ちょ……! 待っ……!」
少女の細腕とは思えないほどの力で引っ張られた湊は、そのままなすすべもなくリリアに引き連れられて玄関へと向かう。
そして。
「お父様! お母様! お帰りなさいませ!」
両親の姿を見た途端、やはり嬉しくなったのだろう。湊の手を離して、一目散に両親の元へとかけていくリリア。
そんな娘を快活な笑みと共に抱きとめたのは、彼女の父親だった。
「おお、リリア! ただいま! すっかり大きくなったな!」
「ただいま戻りましたよ、リリア」
屋敷中に響くような声と、優しくしみこむような声が耳に届いた瞬間、湊はどこかで聞いた声だなと顔を挙げ、そこにいた二人の人物を目の当たりにし、大きく眼を見開く。
そこにいたのは、昼間に出会い、何故かそのまま強引に観光案内をさせられたチャールズとシェリー夫妻だった。
「…………は? ……え?」
思わず混乱する湊に、シェリー夫人が悪戯っぽい笑みと共にこう言った。
「初めまして、ミナト・イスルギさん。ガーネット家へようこそ」
「…………はぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁああっ!?」
次の瞬間、ガーネット邸全体に響き渡るほどの驚愕の声を上げる湊だった。
~~あとがき~~
大変お待たせいたしました!
いろいろとプライベートや仕事で執筆が進まなくて……。
ようやく上げることができました!