第3話 巨大な亀とロボットと銀髪美少女
耳に届いた低い音を頼りに、湊はえっちらおっちら丘を上っていく。
数年前に運動部に所属していたころであれば、この程度の丘は鼻歌交じりに上りきっただろうが、その運動もやめてしまい、かといって普段から体を鍛えているわけでもない今の湊は、額に汗を滲ませ、肩で大きく呼吸を繰り返しながら自身の運動不足を痛感していた。
一歩足を踏み出すごとに、折れた右腕から体全体に鈍痛が駆け抜けるのを顔をしかめながら我慢しつつ、ゆっくりと丘を上っていく。
そうして徐々に丘の頂上へ近付くにつれ、腹の底に響くような低い音以外にも甲高い音や、まるで何かの鳴き声のような音まで聞こえてくるのに気づく。
「(いったい何だろう……?)」
疑問が頭をよぎるが、とりあえず今向かっている方向に人が確かにいるらしいのもまた事実なので、浮かび上がった疑問を頭の片隅にしまいこんで、再び小さな山といってもいいほどの丘を登り始めた。
それからしばらくして、まるで「休め」と抗議しているかのように痛みを発し続ける腕に悩まされつつ、どうにか小高い丘の上まで踏破することができた湊が荒い息をつきながら目にした光景は、およそ現実とは思えないほどのものだった。
方や、巨大な大砲のようなものや、某シューティングゲームのように光の弾幕をばら撒く無数のとげのようなものが生えて、まるで山のように盛り上がった甲羅を背負った馬鹿デカイ亀。
そして方や、そのばら撒かれる光の弾を掻い潜りながら、巨大亀に近づこうとする人型のロボット。
立ち向かう巨大亀に比べたらあまりにも小さいが、それでもそのロボットたちの横に生えた木などと比較すれば、それなりの大きさなのだろうと推測できる。
「なんだこりゃ……?」
よくできたCG映画と言われればそのまま信じてしまえそうなほど、あまりにも現実味に欠けた光景に思わずぼやく湊の目の前で、亀に近づこうとする2機のロボットの後ろから、二筋の光が唸りをあげながら飛んでいく。
そして、その光が狙い違わず巨大な亀の甲羅に吸い込まれようとした瞬間だった。
――オオォォォォォオオオオォォォォッ!!
「うわっ!?」
耳を劈くほどの咆哮を亀が上げ、湊は思わず耳を塞いだ。
そしてそうする間にも変化は起こっていた。
亀の甲羅の天辺辺りから突如透明な膜のようなものが現れて一瞬で巨大亀の全身を覆う。
直後、後ろに控えていたロボット2機から発射された光は、その目的を果たすことなく弾かれて、憎たらしいくらいに晴れ渡った空へと吸い込まれていった。
「すげぇ……。 映画の撮影かなんかかな……? 最近は動物をリアルに動かすロボットもあるって言うし……。 まぁ、何はともあれ、映画の撮影なら邪魔して申し訳ないけど道を訊ねよう!」
そう呟いて、丘を下ろうとした瞬間だった。
『そこの少年!! 今すぐにそこから逃げてください!!』
少年を振り返ったロボットから、少女の綺麗な、けれど切迫した声が響いた。
◆◇◆
仲間からの通信を受けてモニタに目を向けた少女はひどく混乱した。
「(なぜこんなところに人が? なぜ今? なぜ一人? なぜあんなに濡れている?)」
いくつもの「何故」が頭を埋めつくして、深い柘榴石色の瞳を持つ少女の思考が停止する。
しかしその時間は一瞬ほどのごく僅かなもの。次の瞬間には再び脳を全力で稼働させ、リリア・ガーネットはすぐさま目の前のボタンを操作して外部スピーカーに切り替えると、丘の上で茫然としている濡れ鼠の少年に呼びかけた。
『そこの少年! ここは危険です! 早く逃げてください!!』
あくまでも口調は丁寧に、けれど逼迫した空気をはらんだその言葉を聞いて、それでも見知らぬ少年は動かなかった。
一瞬、戦闘現場を覗きにきた性質の悪い戦争オタクなのかとも思ったが、それにしては撮影機器を所持している様子もない。
そこで考え付いたのが、魔獣を目の前にしての恐怖による体の硬直。
早い話が、恐怖で体が動かないということだ。
どうしたものか、と少女は逡巡する。
「(少年を見捨てる? 論外。一般人を見捨てて戦うなど、軍人としても人としても、リリア・ガーネットとしても許せるはずもない。少年を避難させる? 無理。モニタ越しでも少年が震えている様子が見て取れるくらいだし、いましがた呼びかけても動けなかったのだ。自ら避難できるのなら、先ほどの警告ですぐさま逃げ出していただろう。少年を救出する? これしか選択肢は無い。だけど、それは部下の命を危険に晒すことでもある。現状、四人でようやく城砦亀を足止めしている状況なのに、自分があの少年を助けるために動けば、そのバランスが崩れてしまう)」
どうすれば。
そう頭を悩ませたのは一瞬のことだった。
部下の命も、一般市民の命も、自分が預かっているのだという意識が、彼女に即断即決を常とさせていたのだ。
リリアは僅かに瞑目してから鋭く息を吸い込むと、通信ウィンドウ越しに部下たちへ呼びかけた。
「皆さん、すいません。三人で少しの間でかまいません。あの城砦亀を足止めしてくれませんか? あそこの少年を救出してきます」
躊躇いを含んだその言葉に、けれど部下たちはすぐさま返事をする。
『隊長ならそう言うとおもってた……。私たちに任せて欲しい……』
『まぁ、僕たちだけでも余裕ですから……。隊長はゆっくりあいつを助けてやってください』
『足止めだけじゃつまんねぇっすよ、隊長。別にあいつを俺たちだけで倒してしまっても構わねぇっすよね?』
部下たちの頼もしい返事に、リリアはくすりと小さく笑う。
「三人とも、ありがとうございます。あの少年を助けて全員で無事に戻ったら、私の奢りで美味しい麦酒を飲みに行きましょう!」
喜色を浮かべる三人へ微笑みを向けたリリアは、鋭く目の前の亀を見据える。
「カウント三十で、私は救出へ向かいます。同時にダインは下がって中距離から牽制。カールとクレアはダインを援護。あの少年から城砦亀の意識を逸らしてください」
了解、と素早く返事が来ると同時に、リリアは亀の猛攻を掻い潜りながらカウントを開始する。
「三十……二九……………二十………………十……九……八……七……六……五……四……三……二……一……ゼロ!!」
リリアのカウントがゼロになるのと同時に、ダインが城砦亀に向かって煙幕手榴弾を投げつける。
直後に吹き出した大量の煙に視界を覆われた亀が、苛立つように大きく吼えながら背中の機銃から光弾をより激しくばら撒く。
立ち上る煙を突き抜けて殺到するそれを、しかしダインは獰猛な笑みを浮かべながら避けて、亀から距離を取る。
『こっちを向いて……』
『餌はこっちにいるよ』
『おい、カールてめぇ! 今俺を餌扱いしただろ!?』
『釣り餌は黙って獲物が食いつくのを待っててよ』
『てめぇ……後で覚えてろよ!?』
軽口を叩きながらもきっちりと役割を果たしてくれる頼もしい仲間たちを背に、リリアはスラスターを噴射させて、一気に少年の下へ近づく。
そして着地した際の衝撃で少年がバランスを崩して転倒したのを気にせずに、外部スピーカーで呼びかけながら愛機の手を差し出した。
「早く乗ってください!」
◆◇◆
突如聞こえてきた少女のものらしい声はかなり逼迫した様子で、聞いたもの全てがすぐさまその場から逃げ出すようなものだった。
それは湊も例外ではなく、頭ではすぐに回れ右をして逃げることを考えていた。
だがしかし。
その直前に轟いた巨大な亀の咆哮が、原始の時代より魂に刻み込まれた「恐怖心」を強く刺激して、知らず知らずのうちに体が竦んで動けなかった。
それと同時に、本能が訴える。
目の前の光景は、決して作り物や台本に沿って行われる「演技」では無く、生命と生命が激しくぶつかり合う、「本物の戦い」なのだと。
――逃げろ!
理性が警告を飛ばすが、一度刻まれた恐怖が体を捕らえて離さず、この場から動くことができない。
――ニゲロ!
本能が叫ぶが、一瞬だけ合わさってしまった巨大な亀の眼が、まるで太い鎖のように体を縛り付けて身動きが取れない。
――ニゲロ! 逃げろ! ニゲロ逃げろニゲロ逃げろニゲロ逃げろニゲロ逃げろ!
理性と本能が同時に何度も繰り返すが、湊の中に根付いた恐怖が体を自然と震わせるだけで、理性と本能の命令を受け取れない。
もう駄目だ……。
本日二度目の走馬灯が頭をよぎるが、今度もまた、この絶望的な状況を突破できるような結果を得ることができず、理性も本能も完全に生を諦めた。
しかしその直後、事態は一転する。
巨大な亀に接近していたロボットの一体が亀に向かって何かを投げつけた直後、その何かから爆発的に煙が広がり、亀の視界を奪う。
それが気に食わなかったのか、苛立つように吼えた亀の背中から、いっそう激しく光の弾がばら撒かれる。
それを素早く避けながら距離を取る2機のロボットのうちの片方が、背中から炎を噴射して大きく跳び、こっちに近づいてきた。
「うわぁぁぁぁぁあああぁぁあぁぁぁぁっ!?」
ロボットに踏み潰されると勘違いして叫ぶ湊の目の前に、いささか乱暴にロボットが着地する。
その衝撃で地面が揺れ、思わずバランスを崩した湊へ片手を差し伸べるロボットから、さっきも聞こえてきた少女の声が響いた。
『早く乗ってください!!』
先ほどよりも切羽詰る声に気圧されたのか、あるいは生存の可能性に本能が飛びついたのか。
兎も角、湊は少女の声に従うように、差し伸べられた巨大な掌に這うように乗り込んだ。
そうして丁寧に、けれど迅速に運ばれた湊がロボットの胸の前に到着すると同時に、装甲の一部が扉のように開かれる。
中にいたのは、漫画やアニメでよく見かける、体全体にぴったりとくっつくように覆うスーツに実を包む、銀髪の小柄な美しい少女だった。
少女は、燃えるような深い柘榴石の瞳で湊を見つめた後、体を締め付けるシートベルトを外して立ち上がり、小さな手を差し出す。
「こっちへ乗ってください」
本人の意思とは無関係に動いた左手が少女の手を取った瞬間、華奢な体躯からは想像できないほどの力強さで腕ごと引かれる。
「うわっ!?」
短く声を上げながらバランスを崩し、自分の控えめな胸に飛び込むように倒れこんできた湊を、少女はふわりと抱きとめる。
全身を包み込むような柔らかな感触と鼻腔をくすぐる香りに、湊の頬が上気する。
そんな湊を微塵も気にすることなく、再びベルトで体を固定した少女は、手早く手元のスイッチを操作して扉を締めた。
一瞬だけ闇に包まれるも、すぐさま明かりが点った計器類や外の様子が投影された壁を見て、ようやく湊は、自分が目の前に現れたロボットの中にいるのだと把握する。
「シートの後ろから私の体を抱きしめるように、しっかりと捕まってください」
言われるまま、狭い空間をもぞもぞと移動して座席の後ろに回りこんだ湊は、おずおずと腕を伸ばして、自分よりも小柄な少女にしがみつく。
「動きます! 振り落とされないように気をつけてくださいね!」
「…………へっ?」
直後、ジェットコースターに乗ったときよりもなお強く襲い掛かるGに、湊は思わず絶叫した。