第2話 少年が落ちた先は……
眼下に広がるのは広々とした大地と、青く晴れ渡る空。よくよく眼を凝らしてみれば、遠くにはきらきらと光る海も見える。
耳朶を叩く風の音が少しうるさいが、それさえ我慢すれば絶景といって差し支えない光景だ。
だが、そんな景色も、一人の少年――石動湊には楽しむ余裕などあるはずもなかった。
何せ、現在進行形で、高度数千メートルの高さから落下している最中なのだ。しかも、パラシュートやダイビングスーツなどの装備を一切しないまま。
もちろん、この少年に紐なしバンジーや装備なしスカイダイビングを楽しむ命知らずな趣味があるわけでもない。
ただ玄関の扉を開けたらそこには地面が無く、足を踏み外して強制的に空へ放り出されるというとんでもない事態に巻き込まれただけだ。
何はともあれ、このまま落下を続ければ間違いなく地面と激突して一瞬で人肉ミンチと成り果てて、あっという間に野生動物たちの餌になってしまう。
そんな危機的状況を回避すべく、湊の脳が彼の意思とは関係なく、本能的に生還の方法の検索を始める。
走馬灯として湊が生きてきた短い人生を想起し、その中で今の状況を回避できる手段を導き出そうというわけだ。そして16年と歳月を一瞬で振り返った湊の脳が導き出した答え……それは「該当なし」というものだった。
とはいえ、これは仕方のないことだろう。
普通に生きてきて、高度数千メートルの高さから自由落下するなどという事態をそう何度も経験するような人間は、まず間違いなくいない。それがたった16歳の少年ならばなおさらだ。
兎も角、現状をどうすることもできないと判断した脳は、生還の方法を探ることを諦め、せめて激突の瞬間に苦痛を感じないようにと自身の機能を停止させた。
つまるところ、湊は空中で失神してしまったのだ。
全身の力が抜け、ひたすらに重力に引っ張られるまま真っ直ぐに落ちていく。
そして地上まで残り数百メートルを切り、スカイダイビングならばそろそろパラシュートを開かなければいけないほどの高度にまでなったところで、神の慈悲か、あるいは悪魔の気まぐれか。
兎も角奇跡が起きた。
突然、たとえ地面に立っていたとしても一瞬体がよろめくほどの強い突風が吹きつけて、意識を失い、完全に力が抜けた空中の湊を激突すれば確実に死が待っている地面から、悠々と水を湛えた湖へと落下速度をある程度相殺しながら運ぶ。
そのまま着水。
激しい水音とそれなりの高さの水柱こそ上がり、着水の衝撃で右腕がぽっきりと折れてしまったものの、地面に落ちて全身ばらばらになるという最悪な事態は回避された。
それと同時に、着水した衝撃と水の冷たさに脳が揺さぶられ、シャットダウンされた意識が回復していく。
そうして辛うじて意識を取り戻した少年は、ついさっきまで空中を落下していたはずの自分が突然水の中にいることに驚く暇もなく、酸素を求めるために慌てて水をかき分け、水上に顔を出す。
「ぶはっ、げほっ、ごほっ、うえっほっ!」
盛大にむせながら、本能が求めるままに新鮮な空気を肺の中に取り込んでいく。
やがて、呼吸が落ち着いたころを見計らって湖のほとりに泳ぎ着くと、泥で服が汚れるのも構わずにその場にあおむけに寝そべった。
「は……ははっ……はははははは……! なんでか知らないけど助かった……! はははははははははははは!」
あの絶望的だった状況から理由は分からないが生還できた嬉しさに、自然と笑いがこぼれる。
仮に、事情を知らない人がそばを通ったら、確実に通報されかねない程の不審者っぷりだ。
ともあれ一頻り生還の喜びを噛み締めた湊は、ふと我に返って体を起こす。
その直後、右腕を中心に走り抜けた痛みに思わず苦悶の声を洩らしながらその原因となった右腕に目を向けた湊は、中ほどからあらぬ方向に折れ曲がった己の腕に顔を青ざめさせ、ついで鋭く体中を蝕み始めた痛みに悲鳴を上げた。
「ぃぃいいいってぇぇぇえええええっ~~~~~~~~!!」
折れた右腕を胸に抱え込むようにしながらのたうち回る。
そんなことをしても余計に痛みがひどくなるだけなのだが、全く心に余裕がない泥だらけの少年は少しでも痛みを何とかしようとただただ動き回っていた。
それからしばらくして、ようやく右腕の痛みにも慣れてきた湊は、それでもじくじくと痛む右腕を抱えながら体を起こし、改めて周囲を見渡す。
「…………? 俺、普通に家の玄関から外へ出たはずだよな……? ここどこだよ……?」
目に飛び込んでくるのは柔らかそうな草が生い茂る大草原と、さっきまで自分がのたうち回っていた雄大な湖。その湖の反対側はかなり大きな森が黒々と広がっている。
そして後ろに視線を向ければ、小さな山といってもいいくらいの大きさの丘が競りあがっている。
完全に身に覚えのない光景だった。
湊が住む街は、東京や大阪などの大都市に比べたら小さいものの、それでも十分に発展した街だし、その周りの街も同じようなもので、少なくとも彼の知る限り、こんな大自然が広がっている場所など記憶にない。
それにそもそも、一歩家の外に出た瞬間に強制的に高度数千メートルからスカイダイビングをするような場所に家を建てるなど、よほどの酔狂な人物でもあり得ないし、そんな場所に住んでいた覚えもない。
そうしてそのまま少しの間自分の記憶を探って目の前の光景と照らし合わせていた湊だったが、ふと思いついて慌ててポケットを探し始め、やがて取り出したのは、現代人の必需品といっても過言ではないスマホだった。
「そうだよ、携帯使えばいいじゃん! これなら場所だってわかるし、なんなら家に帰ることだって……」
名案を思い付いたと自画自賛しつつ、早速スマホの起動ボタンを押しこむ。本来ならばすぐに壁紙と時計が表示されるはずの画面は、しかし真っ暗なままだった。
「…………あれ?」
おかしいな、と疑問符を浮かべつつ、もう一度、今度は先ほどよりも強くボタンを押す。しかし、相も変わらずスマホは何の反応も示さない。
「あれ……? 電源切ってたっけ?」
そう考え、次は電源ボタンを押してみるが、やはりというかなんというか、スマホは沈黙を保ったままだった。
「いやいやいやいや……」
その後も、あれこれとボタンを押してみたり画面を触りまくったりした湊は、やがて一つの答えに行き当たる。
「水没してた……!」
そう、ついさっきまで、湊は湖の中にいたのだ。当然、普段から防水ケースに入れていたわけでもない彼のスマホは水没し、完全に機能を停止させていた。
がっくりと膝をついて項垂れる泥塗れの少年の耳に、遠くから何か爆発するような音が聞こえてきた。
腹の底に響くような重低音。それはまるで、湊のよく知る花火の音に似ていた。
「(誰かが花火でも打ち上げているのか?)」
そんな湊の疑問はやがて一つの、その音がする場所へ行けば少なくとも人がいるという事実へと行き着く。
「とりあえず人がいる場所に行くか……」
何故、こんな昼間に花火を揚げているのかという疑問をその辺に放り出し、湊は音が聞こえる背後の丘を登り始めた。
その行動を彼はすぐに後悔することになるのだが、今はそんなことを知る由もなかった。
◆◇◆
リリア・ガーネットは、本来ならば苦戦するはずの無い相手を目の前に、狭いコクピットの中で歯噛みしていた。
カタパルトで射出され、空中でスラスターを噴射させて僅かな時間飛行した彼女たちのチームは、予想会敵ポイントに到達するや否や、すぐさま陣形を展開して迎撃準備に入った。
その動きはまるで熟達された兵士のそれであり、まだ歳若い少女に率いられたチームだとは誰も思わないだろう。
それは兎も角として、迅速に迎撃体勢を整えたリリア達は、レーダーに映し出された魔獣の影が徐々に近づいてくるのを固唾を呑んで見守り、2体の魔獣が攻撃県内に入った瞬間、隊長の合図で一斉に攻撃を始めた。
「まずは機動力に優れ、厄介な鋼鉄すらも溶かすほどの溶解系毒を持った巨大サソリを集中砲火で倒す」という事前の作戦通り、その場に立ち止まって砲撃の準備を始める城砦亀を無視して、火力を巨大サソリに集中させる。
そうして足止めされたスコーピオンに近接攻撃役のリリアとダインが接近。振り回される巨大な鋏と毒の尾を掻い潜ると、
「はああぁぁぁあああっ!!」
「うりゃあっ!」
気合一閃、強力な毒を供えた尻尾を切り飛ばした。
きしゃあああ、と甲高い悲鳴を上げて怒り狂う巨大サソリからすぐさま距離を取ったリリアとダインと入れ替わるように、後方から遠距離支援役のカールとチームのもう一人の女性隊員クレアが放った二条の光が、吸い込まれるように断ち切られた尾の傷口とスコーピオンの口内に飛び込む。
いくら頑強な甲殻を供えた巨大サソリといえど、その内部の肉に膨大な熱量を叩き込まれたら堪ったものではなく、断末魔の叫びを上げながら内側から爆ぜて絶命した。
ここまでは予定通り。特に苦戦することも無ければ機体に損傷を受けることも無く、順調そのものだった。
後は残ったシェルタートルのみ。
そう思ったリリアへ、クレアから鋭い警告が飛んだ。
『シェルタートルから高エネルギー反応! 来ます!!』
「っ!? 総員回避!!」
クレアからの警告に反応したリリアが咄嗟に下した命令に従って、全員がスラスターを全力で噴射してその場から高速で離脱する。
直後、それまでリリアとダインがいた場所にシェルタートルから放たれた砲撃が着弾し、膨大な熱エネルギーと爆風を周囲に撒き散らした。
「くぅっ!?」
歯を食いしばり、爆風に飛ばされないように必死に機体を制御しながら着地したリリアは、さっきまで自分たちがいた場所を中心に巨大なクレーターが形成され、高熱に晒された地面が沸騰しながらガラス状に溶けている光景に思わず眼を見張り、しかし次の瞬間には思考を切り替えて、部下たちへ通信を飛ばした。
「全員、被害はありませんか!?」
『こっちは無事っす』
『わたしも平気……』
『問題ありません』
それぞれから無事の知らせが届き、リリアは内心で胸を撫で下ろしながら、この状況を作り出した亀へと視線を向ける。
「思ったよりも強力な砲撃でしたが、そう何度も連続で撃てる代物ではないでしょう……。恐らくエネルギーの再充填だけでも数分は必要なはずです……。今のうちに攻撃をします!」
了解、という隊員たちの声と共に、リリアは愛機を城砦亀へと走らせた。
当然、身の危険を感じたシェルタートルは、背中に背負った巨大な甲羅に、まるでハリネズミのように生えている小さな機銃を一斉射して、鬱陶しい人間が操る鉄人形を足止めしようとする。
過去のデータからも、「接近された場合は機銃を撃ってくる」という情報を得ていたリリアは、慌てず騒がず、後方の二人に通信をつなげる。
「予定されていた行動です。二人とも、機銃をできるだけ潰してください」
雨霰と降り注ぐ弾丸さえなくなれば、後は接近して甲羅に守られていない首を落として倒せる。
頭の中で素早く作戦を立てたリリアは、右へ左へ機体を振りながら、後方から飛んできた光が機銃を潰していく光景を想像し、しかし直後に大きく眼を見開いた。
カールとクレアが放った光の弾が、狙い違わず機銃を襲おうとした瞬間、シェルタートルが大きく吼えたかと思うと、亀の全身を覆うように透明な膜が現れ、攻撃を防いだのだ。
「そんなっ!?」
訓練校時代に習ったときも、軍に所属してからも、城砦亀がこんな装備を持っていることなど訊いたこともなかったリリアは思わず絶句し、次いで一つの可能性に行き当たった。
「まさか……亜種!?」
亜種とは、本来確認されている魔獣の種類と姿かたちこそ似ているものの、普通の魔獣たちには無い特殊な能力を持ったものたちのことを言い、彼らは総じて通常の魔獣たちよりも厄介かつ強力なものとされている。
自分たちが戦っている城砦亀が、まさかその亜種だとは思っても見なかったリリアが内心で歯噛みしながら、作戦を立て直すために部下たちに撤退を命じようとした矢先だった。
『隊長……。10時の方向……距離300の位置に小さな生命反応を確認……。多分、人だと思う……』
どこか緊張感のかけた声でクレアが報告し、機体をそちらに向けたリリアのモニタに映し出されたのは、見たこともない恰好で丘の上に立ち、呆然とした様子でこちらを眺める、一人の少年の姿だった。