第4章 マドカの朝(1)
日差しが痛い。アスファルトに照りつける太陽の光は、街に渦巻くあらゆるものに反射する。
ノースリーブシャツにミニスカート、色とりどりのペディキュアをつけた爪に、宝石を象ったようなサンダルを履いた女の子たち。
すれ違う人の群れ。汗で湿った互いの肌が、かすかに触れ合う。
逆毛を立て、長い髪をずっと上のほうで束ねる女の子。キラキラと透き通る、おもちゃのような髪飾りをつけて、精一杯の背伸びをして。女の子に生まれてきたことを心から祝福するかのように、めいいっぱいお洒落をする。
きっとここにいる女の子たちも、大切な、自分にとって大切な、何かを探してる――。
「ちょっとー、智樹ーっ。どこまで歩くのよー?」
八月最後の日曜日、マドカは智樹に連れられて原宿を訪れていた。最後に原宿に来たのは随分昔のことのように思える。休みが来ると、精一杯のお洒落をして原宿に向かう。ラフォーレ前の交差点を通る時は、いつも胸がドキドキした。ファッション誌のスナップ写真。ほんの一瞬の出来事だけど、声をかけてもらえるかどうかそれだけが楽しみだった。
あれから、私は何か変わっただろうか――?
変わったのは、こうして行き交う人々の影だけかもしれない。
キャット・ストリートを越えて原宿交番前を通り過ぎる。耳元に不快な雑音を残していく蝉の鳴き声を頭上に聞きながら、表参道を下っていく。
マドカの前を颯爽と歩く智樹がチラチラと後ろを振り返る。
「ここ、左ね」
ハナエ・モリビルの手前を智樹の指差すほうへ曲がる。閑静な住宅街の中に、お洒落なインポートショップがぽつぽつと立ち並んでいる。
排気ガスの匂いが裏通りに入ったところでふっと消えた。騒音の途絶えた住宅街では、心なしか暑さも引いたように思える。
「ここ」
智樹が立ち止まって指差す、白い壁にグリーンの窓枠をしたカントリー風の建物。開いた扉の手前には鉢に植えられた緑と、色とりどりのアネモネの花が飾られている。
「カフェ?」
「まーいいから」
智樹に肩中を押され、マドカは建物に足を踏み入れた。
家庭的な料理の匂い。ヨーロッパの家具を基調とした店内は、ベーシックなインテリアと子供っぽさを感じさせる小物でコーディネートされている。
出迎えてくれた背の高いウェイターに連れられて、二人は奥のテーブルに案内された。
「素敵な感じの店だね」
「だろ?ここ、前から来たかったんだ」
料理を適当に頼むと、マドカは頬杖をついて窓に揺れるレースのカーテンを眺めた。
これといって大切な日でもない休日の昼下がり。智樹の顔を見ながら食事をするのは、なんだか無性に退屈だった。
「ねぇ、智樹」
「何?」
パスタの上で何度もくるくるとフォークを回すマドカの向かい側で、智樹はチキンの香草焼きにナイフを入れる。
「私さ、お盆休みもろくにもらえなくて、働いて。せっかく今日休みもらえたのに…なんで智樹と食事なんかしなきゃいけないの?」
「はぁ?なんだよ、それ?」
顔を上げた智樹は怪訝そうな表情をマドカに向けた。
「別に、智樹と一緒にいるのが嫌なわけじゃないよ?ただ…、ちょっと虚しいの」
マドカが帆立を勢いよくフォークで突き刺すと、智樹の皿にクリームが跳ねた。
「お前さ、まだ元気ないわけ?」
「何が?」
「こないだ会った時、あの時元気なかったじゃん?最近、なんだかお前が元気なさそうだったから。だから誘ってやっただけなのに」
智樹はアイスティーのグラスに口をつけ、思い出したように付け足した。
「忙しいのもわかるけどさ、少しは実家にも帰れよ。俺、お盆に実家帰った時お前の母さんに会ったけど、寂しそうだったぜ?お前さぁ、母さん一人なんだから、それくらい分かってるだろ?」
皿の上でフォークを回しながらマドカは下を向いた。
「田舎に帰りたくないのはわかるけど。俺も来年からこっちの商社で働くし…でもお前にとっては、たった一人の親だろ?もっと大切にしろよな」
マドカはこくりと頷いた。
「まぁ偉そうなこと言ってるけど、俺はマドカにどんな時も笑っててもらいたいからさ。些細なことでも何でも言えよな。性教育も含めて、相談に乗るってやるから」
智樹が大きな口を開けて笑う。
その笑顔はマドカの瞳の中でぼんやりと滲んでいった。
*
マドカは実の母の顔を知らない。知らないというより、覚えていないといったほうが正確かもしれない。薄っすらと残る母の記憶は、柔らかな手の温もりと、絵本を読んでくれる優しい声。
母はマドカが三歳の時、多量の睡眠薬を飲んで自殺した。薄暗いキッチンのダイニングにテーブルの上に伏せられた長い黒髪、細く青白い腕の中には半透明の小瓶が転がり、傍らには数粒の薬が散らばっていた。どこか作られた場面のように感じられるのは、曖昧な記憶にいくつかの映像が後付けされたものだからだろう。ぐったりした母の抜け殻を抱き上げた父はまるで役を演じる俳優のように思い起こされる。睡眠薬で死ねるという考えさえ、今では滑稽だった。
それでも記憶の中にはっきりと映るのは、母が死んだ時、テーブルの上に置かれていた一枚の絵葉書だった。新緑の山に囲まれた、湖の上に浮かぶ一艘のボート。その水彩画だけを今でもマドカは鮮明に覚えている。
母の記憶をたどる時、マドカが真っ先に思い浮かべるのはその絵だ。死んだ母親の隣で彼女の息を今にも吹き返してくれそうな、力強い筆感に心を奪われたのだった。
新しい母親がやってきたのは小学六年生の時で、反抗期を向えたマドカは反発する毎日だった。そんな時中学にあがり、智樹に出会った。母親に対する嫌悪を胸に閉じ込めたまま、次第に自分の殻に閉じこもってしまうマドカを近くで励ましてくれたのが一番信頼できる友達の智樹だった。
母親との確執も埋まった高校二年生の時、大好きだった父が死んだ。雪深い山の中で、なだれの下敷きになったのだ。
あの絵葉書の行方は分からない。父が再婚する際、引越しにまぎれてどこかへ紛失してしまったのかもしれないし、今の母親が捨ててしまったのかもしれない。マドカはそれを探す術を持たなかった。いずれにしても過去は離れていくのだから、思い出す必要もなかった。
けれど、あの静謐な湖水を漂うボートがあてもなく流されていく場面を想像すると、マドカはそれだけで胸が詰まりそうになる。母は小船に乗り、二度と会うことのない遠い場所へ行ってしまうのだと理解するからだった。
*
「すっかり暗くなっちまったなー」
原宿で食事をした後、マドカは智樹を映画に誘った。ベタなラブストーリーを鑑賞するため、カップルで埋まった座席に腰を下ろす。傍から見たら恋人同士にしか見えない二人だけれど、隣にいる智樹の存在など忘れたように、マドカはハンカチを片手に号泣していた。
「泣くほどそんなに面白かったか?」
「めちゃくちゃ良かったじゃん!超感動だったし!」
セリフのひとつひとつからストーリーまで、すべてを完全否定する智樹は退屈そうにあくびを繰り返した。
肩を並べて夜の渋谷を歩きながら、二人はふらりとレコードショップに立ち寄った。フロアのど真ん中に大きく貼られたポスター。
ラ・ヴォワ・ラクテ セカンドシングル発売――の文字が大きく躍っている。
公園でロランの弾くギターの音色を聞いた夜から、一ヶ月。それ以来マドカがロランに会うことは一度もなかった。仕事帰りにふらりと公園に立ち寄ってみてもロランの姿は見当たらず、あのベンチは毎日空のままだった。挙句の果てには、ロランのアパートにまで足を運んだ。けれど、一度も会えなかった。
マドカは心底、神様というものを憎んだ。
神様は意地悪だ。
天に昇るほど喜びをくれたあとには、虚しい日々しか残らない――。
「あー、こいつらね」
ラクテのポスターを愛しそうに見上げるマドカの背後から、智樹が身を乗り出した。
「あのバンドか。CD発売のペース早くね?」
智樹はそう言って、予約カードの隣に積み上げられたチラシを一枚手に取った。人気歌手のアルバム情報に交じって、「ラ・ヴォワ・ラクテ」の印字が目に止まる。
「なぁ、こいつら今日渋谷でライブやってんじゃん?」
マドカは言われるまま、智樹の指に挟まれたチラシをのぞき込んだ。
「ほら、これ、こないだのライブハウスじゃん?」
智樹の手から奪うようにしてチラシをもぎ取ると、マドカは真剣な眼差しでラクテの記事を追いかけた。そこには確かに今日の日付と、あのライブハウスの名前が記されている。開演時間は三時間前だった。
「ホントだ…」
マドカの頭の中を、衝動的にひとつの想いが駆け巡る。
「智樹…私、智樹、ごめん!」
フロアを走り抜け、マドカは出口に向かう。
「おい、マドカ!どこ行くんだよ!?」
「ライブ!!」
ニ人のやりとりに、店内がざわめく。マドカの「ライブ!」の声だけが、ずっとその場に響き続けている。
ネオンの明かりと雑踏をすり抜けてライブハウスへ向かう。
ロランに会える保障はどこにもない。ラクテのステージはもう終わってしまっただろう。
けれど、今のマドカにはそんなことなどどうでもよかった。
ただ、ロランに会いたい。
会って、ロランに伝えなきゃいけないことが、私にはあるから…
闇に浮かび上がるライブハウスの赤い光。
路地に落ちる光の粒子をたどれば…、そこにはロランがいる――。