第3章 解けない魔法(2)
アパートの階段を上る。すっかり薄暗くなってしまった辺りには、家々の黄色い明かりが灯り始めている。近所のスーパーで買った夕食の材料を抱え、マドカはロランの部屋を訪れた。
昨日よりだいぶ涼しい。右から左に移動する夜風が、スカートの裾をはためかせる。
だいぶ遅くなっちゃった…
部屋の前に立ち、相変わらず寂しそうに古びた茶色のドアを見つめる。
どこかの部屋からもれる夕飯の匂い。食欲をそそるその香りに、マドカの顔はほころんでいく。
コンコン――。
小さな握り拳でドアを叩く。
「こんばんは」
ドアの向こうにいるはずのロランに呼びかけ、再びノックする。
コンコン――。
「鍵、開いとるで」
部屋の中からロランの声が聞こえた。マドカが大好きな、少しトーンの高い、柔らく落ち着いた優しい声。
深く息を吸い込むと、マドカはゆっくりとドアを引いた。
「遅かったな」
キッチンに立つロランが、マドカの右手に下げたスーパーの袋に気づく。
「飯ならとっくにできとるで」
「すごーい!これ、全部ロランが作ったの?」
小さなテーブルに並ぶ、色とりどりのおかず。真っ白なご飯と油揚げの味噌汁、小松菜のおひたしに冷奴、大根と鶏肉の煮物。
「美味しそう…」
漆塗りの箸を両手にはさみ、マドカは手の込んだ料理に目を奪われる。
「さ、食いなさい」
目をきらきらと輝かせて喜ぶマドカに、ロランがビールを差し出した。
「ううん、私はいいよ。ロラン、飲まないんでしょ?」
「病み上がりやからなぁ」
ロランは冷蔵庫からペリエを出すと、ふたつのグラスに注いだ。
丁寧に器に盛られたおかずをひとつひとつじっくりと味わう。その優しく上品な味に、マドカは舌鼓を打つ。
「ロラン、料理上手いんだね」
味の染みた大根を口に運び、思わず溜め息がこぼれる。
「美味いか?」
「うん!かなり!」
嬉しそうに微笑むマドカの顔を見て、ロランは目を細めた。
「俺、コンビニの弁当がダメやねん。弁当買って食べるくらいなら、食わないほうがマシやな」
「え…じゃあ、ロランはいつもこうして自分で料理して食べてるの?」
「時間のある時はな」
「ふうん、そうなんだぁ…」
箸先を唇に当てたまま、マドカは感心したように頷いた。
「だったら、ロランの奥さんになる人は大変だね?」
「なんで?」
ロランが最後に残った鶏肉を口にして、マドカは空になった皿を名残惜しそうに眺めた。
「だって…、ロランがこれだけ料理が上手いんだから、奥さんはもっと料理上手じゃなきゃ…」
「そんなこと関係あらへん。女にはもっと別のことを望むな」
「もっと別のことって…?」
マドカの質問の答えを考えながら、ロランは空になった茶碗を重ねた。
開いた窓から綿のように優しい風が部屋の中に入り込み、マドカの頬をさらさらと撫でた。
「まあ、当たり前のことがちゃんと出来る女やな。俺が弱ってる時に傍にいてくれて。俺も相手が弱ってる時には、傍にいる。 人間って、案外普通のことができなかったりすんねん。こんな感じやな」
美味しい料理をご馳走になったお礼に、マドカが洗い物を済ませる。シンクの上に乗せた洗い終えた二つの茶碗。
新婚みたい…
頬を緩めて振り返るマドカの目に、アコースティックギターをチューニングするロランの姿が映る。切ない音を弾きながら、弦を引いたり緩めたりするロラン。
悔しいけど…、なんであんなに絵になるの?まるで、ラブソングを歌うために生まれてきた天使みたい。
「そういえばこれ、お世話になりました」
ロランはテーブルの上に体温計とバファリンの箱を置いた。
「ううん、それより、もう体調は平気?」
「まだ本調子やないけど。おかげさまで」
お礼を言って小さく頭を下げるロランに、マドカはくすぐったい気持ちになった。どんな仕草をしても、ロランがするとそれは美しい魔法みたいに見える。
ロランに見つめられると、自分が自分でなくなってしまいそうになる。
それもロランの魔法のひとつなのかもしれない――。
「そういえばさ、バファリンって…女の子がアレになった時に飲む薬やなかった?」
「えっ?」
「違った?」
「いやっ、その…」
ロランが歯を見せて笑いながら、顔を赤くしてうつむいたマドカを上目遣いで覗き込む。
「もーう、何のおかげで熱下がったと思ってるの!?他でもないバファリンのおかげなんだからねっ!」
ロラン…、ロランがこんなに笑ってくれて…私はとても気持ちの良い夢を見てるみたい。
でも…、こんな時間がいつまで続くのかな…
ロランは、私をどんな色の瞳で見てくれているの?
その大きな瞳で…何を考えているの?
「送るよ」
ロランがギターを持って立ち上がる。
「公園まで散歩や」
藍色の空の下、しっとりと肌に触れる外の空気。 等間隔に並んだ街灯のあかりに、小さな虫たちが群がっている。アコースティックギターを抱え、いつものようにセブンスターを唇に挟んで、闇に立ち昇る煙草の香りを纏いながらまっすぐ前を向いて歩くロラン。
大通りのビルのウィンドウにぼんやりと映る二人の影。ロランの白いシャツの背中に、綺麗な形の肩甲骨がしなやかに浮かび上がる。マドカは小さな歩幅で、綿のシャツの裾が揺れるロランの背中を見つめて歩いた。
立ち並ぶ木々のあいだをするりと抜けるみたいに、夜風が二人の肌を静かに撫でた。頭上には白い月が透明な輪郭に覆われて、無言のまま浮かんでいる。
ロランがギターの弦を弾く。左手を器用に動かしてコードを押さえ、黒いピックで六本の弦を軽やかに弾いた。
噴水の水飛沫の音以外は何も聞こえない。静まり返った公園に、幻想的なギターの音だけが響いていた。
まるでロラン自身を描いているような、柔らかく透き通る音色に、儚くてどこか切ない旋律。それはどこか哀しげで、それでも芯の強さを感じさせる音。
「それ、何ていう曲?」
ひとつのメロディーを弾いてしまうと、ロランは煙草に火をつけた。細い煙草を軽く指に挟み、そっと口づける。
「その曲って、ロランが作ったの?」
「ああ。まだ歌詞はないけどな。俺が初めて作った曲。音楽でメシ食って生きてこうって決めた頃だな。確か、18の時やったかなぁ」
時折聞こえる大通りのノイズ。都会の喧騒は、夢の欠片を凝縮した切ない泣き声みたいだ。
「ねぇ、ロラン、ロランは…どうしてこの仕事を選んだの?単純に、音楽が好きだった…から?」
ロランは短くなったセブンスターを砂の上で揉み消した。ロランに出会い、マドカは何度この姿を見ただろう。胸の奥に知らず知らずのうちに焼きついた、ロランの仕草がひとつずつ増えていく。
「なんでやろな。そういうふうに向いてたんとちゃう?すべてのものを剥ぎ取ったら、これしか残ってなかったんやな」
ロランはそう言って、夜空に向かい、手のひらを翳した。その存在を確認するように指先を見つめ、やがて力なくその指を閉じた。
「絵は…?」
「絵か…絵も…、描きたかったけどな。親父が画家でな」
「お父さん、画家なの?」
ロランはそっと足を組み直してベンチの背に深くもたれかかった。
「売れない画家やった。だからいつもこう言っとったな。メシが食えないから、画家だけにはなるなって」
ロランはふっと微笑んだ。
街灯の優しい光がロランの腕の中にうずくまったギターをひっそりと照らしていた。ロランに抱かれたギターはまるで臆病な迷子の仔猫みたいに震えて、控えめに輝いていた。
「だから絵は趣味やね。暇つぶしに描くもんやな」
「お父さんは?今も、絵を描いてるの?」
「父親は、俺が小さい頃、事故で死んだ。金なんてこれっぽっちも残さんで。ただ、部屋にあふれる無意味な画材と、売れない絵だけ残してな」
さらさらと流れる水の音。この水の音だけが、二人が共有する風景を結びつける唯一の音だ。切り取られた断片を繋ぎ合わせてできるひとつの風景が、ここにはある。
「マドカは?なんで編集者になったん?」
マドカ…
「ロラン、今…マドカって」
「ん?なんや?kk出版編集部、吉井マドカやろ?」
「ロラン、名前…、覚えててくれたんだね」
ベンチから見える噴水の水飛沫が象る波紋がかすかに揺れる。嬉しさで涙目になってしまったマドカは、気づかれないようにそっと深呼吸をした。
ロランの優しい視線が横顔に注がれているのがわかる。恥ずかしさと緊張で、マドカは乾いた唇をきゅっと噛みしめた。
「私は…やっぱり本が好きだから…かな。もともとはね、絵本とか童話が好きで子供向けの本の編集をやりたくて。海外の絵本が好きなの。大人が見ても、どこかふわりと入りこんでくるものがあるから」
ロランはマドカの話に静かに耳を傾けていた。
公園の端にある古びた時計の針は、午後10時30分をまわったところだ。
「今は音楽雑誌の編集をしてるけど、もっと絵本について勉強したい。お金貯めて、留学して…、あと…、これは夢のまた夢なんだけど…自分で物語を書けたらいいな、って」
赤い光を点滅させながら、灰色の雲の隣を横切る飛行機の影が頭上に見える。都市の夜は、その息が絶えることを知らない。
「これ、やる」
ロランが左手を差し出した。
「夢が現実になるお守り。持っていると、そのうちどっかでいいことあるかもしれんな」
ロランはマドカの手のひらに小さなピックを乗せた。手の中に落ちた黒い三角形は、街灯の淡い光を受けてきらきらと輝いていた。
「俺たちな、もうすぐセカンドシングルが発売される。あと、アルバムのリリースも」
「本当?」
柔らかな笑みを口元に浮かべ、ロランは頷いた。
「ロラン、私…ずっと大切にするね。このピックも、こうしてロランに出会えたことも」
マドカは右の手のひらのピックをぎゅっと握りしめた。
ベンチの上で自然とさりげなく触れ合う二人の肩に、マドカは心地良い笑みを浮かべた。
「ロラン、もう一度弾いて。さっきの曲…ロランの夢を閉じ込めた、たったひとつの曲」
ロラン…、
いつかこの美しいメロディーが、たとえこの世界の端っこにいても
ずっとずっと耳に届く日が来ますように――。