第3章 解けない魔法(1)
「ねぇ、智樹」
夏も本番を迎えた昼下がり。街に響く今年一番の蝉の声。
昼休み、マドカは久しぶりに智樹を食事に誘った。
「ねぇ、智樹」
「何だよ?」
混み合い始めた店内は、昼時の会社員やOLでごった返している。窓際の禁煙席に案内された二人は、ぼんやりと通りを眺めながらパスタとハンバーグのAランチが運ばれるのを待っていた。
智樹が煙草を吸わないことに、マドカは少しほっとした。ロランに出会ってからというもの、男性が煙草に火をつける仕草を見ると、どうしても彼の姿を思い浮かべてしまうのだ。
「お前、食欲ないの?もう夏バテ?」
ハンバーグのデミグラスソースを口の脇につけながら智樹が言う。
「うん…最近、食欲ない…」
「お前、今から夏バテってキツイぜー。パスタ、食わないならもらってもいい?」
智樹がパスタの皿を移動する。マドカの前には、芸術的に跡形もなく綺麗に食べ尽くされた皿が置かれた。
「これ、めちゃくちゃウマイのに」
智樹はマドカの分のパスタまで美味しそうにたいらげる。
幸せそうな奴…
悩みとは無縁のような智樹を見ていると、マドカは心底そう思った。
ウェイトレスがやってきて、食後のコーヒーを置いていく。
「あれ?お前、コーヒー飲めたっけ?」
智樹はマドカの前に置かれたコーヒーカップを珍しそうに眺めた。
「飲めない。けど別にいいよ、何も飲みたい気分じゃないし」
智樹はミルクと砂糖を入れ、デミ・スプーンでコーヒーの海にくるくると小さな渦を描いた。
「でさ、さっきから何?なんか話したいことがあるなら言えって」
切れ長の智樹の目が、マドカの表情を鋭く伺う。
「悩み事?あ、もしかして…男の話か?」
図星だ……
鼻を刺すコーヒーの香り。マドカのカップに注がれたコーヒーの海は、ただひっそりと口を噤んでいる。
「あ、なぁこの曲さ、こないだのバンドのやつだろ?」
店内に流れる有線はラクテの『Stars』を流していた。
「結構このバンド、話題になってるよな?」
「うん…」
「そういや、このバンドの取材、うまくいった?」
黙り込むマドカの表情を伺いながらコーヒーを飲み干し、智樹は近くのウエイトレスにおかわりを頼んだ。
「なーんか今日のマドカ、元気ないな」
窓の外を、ノースリーブシャツに身を包み、美しい肌を見せる女の子たちが通り過ぎる。 夏はまだ、始まったばかりだ。
「智樹…」
「ん?」
「男の人ってさ…、どこまで信じていいのか…分かんない」
「どうした?」
退屈そうに頬杖をついていた智樹が身を乗り出す。
「うん…ちょっとね」
ウェイトレスがコーヒーのおかわりをカップに注いで離れていく。
「ねぇ、智樹…、智樹に聞くのも間違ってるかもしれないけど、智樹だったら…どんな時に女の人に"信じて"って言う?」
「は?なんだよ、その質問。どんな時って言われてもなぁ」
智樹はテーブルの上に置かれた紙ナプキンを暢気に折り畳んで遊んでいた。店内は客の笑い声と食器の触れ合う音でいっぱいだった。さっきまで天井のスピーカーから流れていた有線も、途切れ途切れにしか聞こえない。
「まぁ…、相手によりけりじゃん?」
「相手によりけり?」
「そ、相手によりけりだよ。相手によりけりってのはな、俺だったら…そうだな、本気で相手のことを想ってるんなら、軽々しく"信じて"なんて言えねーけど」
「どうして?」
「だってさ、信じないほうが相手のためだってこともあるだろ?まぁ、結局のところさ、信じてって言ったって、女ってのは疑ってかかるんだよな」
得意気に胸のあたりで腕を組みながら、智樹は感慨深げに頷いている。頭上から吹き付ける空調の風が、マドカの肌をひんやりとさせていた。
「だったら…、信じる信じないは君次第、って言われたら…どうすればいい?」
眉間に皺を寄せ、真剣な表情で質問するマドカに向かって智樹はぷっと吹き出した。
「お前さ、バカじゃねーの?」
大げさにお腹を抱え、むせ返る智樹にマドカはむっとした。
「お前さー、お前次第って言われたら、お前次第なわけ。てゆーか、俺こんなに笑ったの久しぶり」
周囲の視線もお構いなしに智樹は笑い続け、マドカは顔を赤くして俯いた。
「なぁ、いいか?マドカ。これから俺の言うことを、よーく覚えておきなさい」
一転した智樹の真面目な姿勢に、マドカも慎重に頷いた。
「あのさ、人生ってさ、面白いもんで一生にどれだけの人間に出会えるか分かんないわけ。編集者として働いてるお前になら、人と人の繋がりが、どれだけ大切なものか身に染みて分かるよな?」
マドカは頷いた。
「恋愛だっておんなじなんだよ。いいか?相手の人生っていう一本道で、お前がただの通行人になるか寄り道先の知り合いになるか、それとも、じゃあ一緒に歩きましょうか?って言われる人間になるか、どれをお前が望んでるのか、それを考えてみれば、答えは自ずと出るはずだ。お前のことをよーく知ってる、親友の俺がお前に言ってあげられるのは、それだけだよ」
*
夕立のあとの空。いろがみのように真っ青な昼間の面影はどこにもない。オレンジ色の夕日と、やがて訪れる夜の闇を思わせる藤色の空。ビルの影が灰色に染まり、帰宅を足早に急ぐ人たちの姿が見える。
オフィスの窓から、マドカはアスファルトの地面を見下ろした。 ちっぽけな人の群れと、通りを飾る道路標識の文字。エアコンの風が、湿度の高い室内の空気中から水分を吸い取るかすかな音。
夕暮れは街を彩るすべてのものが愛しく思える時間だ。寂しさを抱えた都心の日々を、闇の奥底に沈める夕日。 さよならのうしろに、ほんの少しだけ赤い希望の光を照らしてくれる。
通行人になるか、寄り道先の知り合いになるか――。
智樹の言葉に、マドカのしおれた心の混線が少しずつほどけていく。
私は、ロランの人生のほんの通過点にすらその姿を留めることができないのかもしれない。すれ違っても、きっとロランは目もくれないだろう。
それでも、ロランは私にほんの一瞬だったら… 気づいたふり、してくれるのかな…
私に、笑いかけてくれるのかな…
仕事を終えてオフィスを後にすると、外はまるで天然サウナだった。都心を不慮の事故みたいに襲った夕立は、涼しさをもたらすどころか、さらに蒸し暑さを増強させたのだ。
19時半なのに、まだ昼間みたいに空が明るい。うだるような暑さでまっすぐ自宅に帰る気にもなれないマドカは、あの公園に来ていた。 噴水の水飛沫を眺め、わずかに吹いてくる生温かい夜風に涼む。
ベンチにもたれると、映写機がスクリーンに映し出すように、ふと目の前を横切るロランの面影。
からっぽに空いたベンチの右側のスペース。
ミステリアスなベールをまとった、セブンスターに火をつける優雅な姿。
目を閉じれば、彼の流れるように美しいすべての仕草が、鮮やかな色彩とともによみがえる。
信じる・信じないは、君次第――。
ロラン…、本当はあの日、もし、あなたに抱かれていたとしても、それでもいいかなって思ってる。でも、記憶の断片の中にロランに抱かれた思い出が存在しない私はこれからどうすればいい?何も覚えていない私は、空っぽになって転がっていた缶ビールと同じだよ。
だけど…、ロランは初めて会ったあの日も、私のこと助けてくれたよね? ただ純粋に、その優しさが嬉しかったから…
ただ純粋に、その優しさが嬉しかったんだよ、ロラン…
気がつくと、マドカはロランのアパートの前に立っていた。何が自分をここまで駆り立てるのか、そんなことはどうでもよかった。ただ、ロランに会って謝りたい。少しでも、ロランのことを疑ってしまったことを謝りたかった。
でも本当は…、会話なんて何もなくてもいいから、ただロランの顔が見たかっただけなのかもしれない。もう一度、隣で煙草に火をつける、ロランの姿が見たかっただけなんだ。
寂れたアパートの二階。マドカは部屋の扉を叩いた。
コンコン――。
拳の音が虚しく響くだけ。部屋の中から返事はない。
マドカは玄関の横にある、キッチンの曇りガラスを凝視してみた。
デビューして一ヶ月。仕事が立て込んでるのかもしれない。
もう一度、小さな握り拳でドアを叩く。
コンコン――。
マドカは思い切ってドアノブに手をかける。背後から差す夕日が、銀色のノブに当たってきらりと反射する。
マドカは恐る恐るドアを手前に引いた。
「こんばんは」
あの日と同じ狭い玄関に、シンクの光るキッチン。足元にはロランのワークブーツが揃えられていた。
「こんばんはー」
さっきよりも声を張り上げて部屋の中に呼びかける。キッチンと部屋を仕切るガラス戸で、中の様子はぼんやりとしか見えない。
「お邪魔しても、いいですか?」
部屋の空気は淀み、灼熱のような暑さが充満していた。おそらく外のほうが涼しいだろう。マドカはミュールを脱いで揃えると、静かに部屋に上がった。むせ返るような暑さとは反比例して、板張りの床はひんやりとしている。シンクには水切りの上に並べられた二枚の皿と、グラスがひとつだけぽつんと置かれていた。
「こんばんは」
もう一度呼びかける。
夕闇にひっそりと包まれる部屋に、開いた窓の隙間から小さく差し込む光。闇と夕日のあいだを擦り抜け、板張りの床に柔らかく落ちる影。
むっとした空気が、マドカの体に絡みつく。
キッチンを横切り、わずかに開いたガラス戸の隙間から、マドカは部屋の中を覗いた。
まるで夢の中に置き忘れた、大切なものを確かめるみたいに――。
「ロラン!!ねぇ、ロラン!!どうしたの!?」
マドカの眼に飛び込んできたロランの姿。ベッドの上で小さな体を折りたたむようにうずくまり、額には大粒の汗が浮かんでいる。
「ねぇ!ロラン!!大丈夫!?」
持っていた鞄を投げ出して、マドカはベッドに駆け寄った。
「ロラン!!ロラン!!しっかりして!!」
頬を叩くが反応がない。
「ねぇ、ロラン!!しっかりして!!」
マドカは手のひらをロランの額にあてた。
「すごい汗…なにこれ…ひどい熱じゃない!」
ロランの体は、まるで煌々と燃える太陽の一部みたいに熱く、汗でTシャツがぐっしょりと濡れてしまっている。
「ロラン!!しっかりして!」
冷蔵庫からミネラルウォーターを探し出し、ロランの口元に持っていく。
「ロラン、お水!飲まなきゃダメ!」
部屋の暑さと高熱で意識が朦朧とするロランの唇の上に、マドカはミネラルウォーターをほんの数滴垂らした。
「ねぇ、ロラン…、クーラーは!?」
マドカは薄暗い部屋を見渡した。
「もしかしてこの部屋、クーラーないの?」
風を求めて窓を全開にしたが無駄だった。部屋の中は軽く40℃は越えているだろう。ロランはうつろな瞳で天井を眺めている。
「どうしよう…これじゃ、ロランが…」
テーブルの上に置いてあった広告紙で、ロランの顔を煽ぐ。さわさわと頼りない音を立て、薄っぺらな紙は上下に歪んでしまう。
「ねぇ、ロラン、ちょっと待ってて!すぐ戻ってくる!それまで我慢しててね!」
マドカは急いでミュールに足を引っ掛け、アパートの階段をヒールの音を響かせて降りて行った。
急がなきゃ…!!
「松田さん!!」
「マドカちゃん?」
唐突に扉が開き、大きく息を弾ませたマドカの姿に、松田は驚きで息を呑んだ。
「松田さん…うちの会社に、扇風機…ありませんでし…た?」
息が上がってうまく喋ることができない。これほど全速力で走ったことなど今までなかったかもしれない。
手をかけたドアノブに体重を預け、マドカは脇腹をおさえた。
「あるけど…マドカちゃん、大丈夫?」
「平気です…お借りしても…?」
「ああ、いいけど…」
「お借りします…!」
編集部の隣にある四畳半の物置き。マドカは真っ暗な部屋の明かりをつけた。古くて使い物にならなくなったワープロの脇に、見覚えのある三枚の羽を見つける。取っ手を掴み、オフィスの廊下をずるずると引きずっていく。
「あ、あれもだ!」
おそらくロランの部屋には体温計もないだろう。風邪薬も常備してないに決まってる。
バファリンって…風邪にも効くんだよね?
プラスチック製の救急箱から、デジタルの体温計とバファリンの箱を持ち出すと、松田に挨拶するのも忘れ、マドカは重い扇風機とともにエレベーターに乗って通りに出た。
ロラン…!待ってて!
*
ベッドから離して置いた扇風機が、ロランに生暖かい風を吹きつけている。マドカはキッチンの収納棚を開けていた。蛍光灯の明かりが、仰向けになるロランの体を半分だけ照らしている。
氷水で絞ったタオルを額に乗せたロランは、朦朧とする意識がどこか自分とは別の場所でゆっくりと溶けていくような感覚の中にいた。キッチンからかすかに聞こえてくる物音は、遠退いたり近くなったりを繰り返している。
「ロラン、お湯沸いたよ」
お湯をはった洗面器を抱えて、マドカは部屋に戻る。
「今、体拭いてあげるね」
ロランの上半身を起こし、汗で湿ったTシャツを脱がせる。熱いお湯でタオルを絞り、そっとロランの体に触れる。
適度に筋肉のついた細い腕と、胸。華奢だけれど、男を感じさせる背中に、マドカはほんの少し戸惑う。けれど、今は余計なことを考えている場合じゃない。マドカは視線をそらし、ロランの体を拭いていった。
「ロラン…、これで少しは楽になるよ」
マドカは押入れの中から適当な着替えを探して、寝癖でくしゃくしゃになったロランの頭にシャツの首をかぶせた。
「これで、すっきりしたでしょ?」
腫れぼったい、うつろなロランの瞳を覗く。
あとは、食事だけね…
マドカはタオルと洗面器持って立ち上がった。
「ロラン、起きれる?」
白い器に盛り付けられた卵粥。柔らかく立ち上る湯気が、扇風機の微風に揺れる。
「ロラン、ちゃんと食べなきゃダメだよ。少しでいいから」
ベッドの傍に駆け寄り、額のタオルを取り替える。部屋の真ん中で、卵粥の湯気だけが楽しそうに空気中を泳いでいる。
「煙草…」
ぐったりとしたロランが口を開いた。
「煙草…吸いたい…」
細くかすれた声で、仰向けになったまま、ロランはテーブルに手を伸ばす。マドカは力ないその手を、両手で包み込むようにしてぎゅっと握った。
「ロラン、お願い。少しでいいから、何か口にしないと…それ以上痩せてどうするの…」
結局、ロランは卵粥を二口食べただけで、薬を飲んで寝てしまった。
38度8分。23時を過ぎてもロランの熱は下がりそうにない。マドカは終電の時間を気にしながら、額のタオルを氷水で絞って交換し、何度か体温計で熱を計った。
部屋の明かりをオレンジ色の豆電球にして、寝息を立てるロランの顔を見つめる。
子供みたい…
意地悪で近寄りがたい美しさを放ついつもの面影は消え、そこにはただ可愛い少年の顔をして眠るロランの姿があった。
「ロラン…私、そろそろ帰るね。終電なくなったら、帰れなくなっちゃうから」
寝返りを打つロランの枕元でそう言うと、マドカは静かに立ち上がった。
もう一度、穏やかなロランの寝顔を振り返る。
心配だけど、別に私…、ロランの恋人でも何でもないんだもんね…
言い聞かせるように頷くと、マドカはベッドに背を向けて玄関に向かった。
「行かないで…」
ロランの手がマドカの手首を弱々しく掴んだ。まるで空気の一部に触れられているみたいに、ロランの熱い体温がマドカの指先を包む。
「行かないで…」
重いまぶたを開き、ロランは軟弱な瞳でマドカを見つめている。
「そばにいて…」
かすれた声でそう言うと、腫れた二重まぶたがそっと重なり、瞳が閉じられた。
「ロラン…、どこにもいかない」
その言葉がロランの耳に聞こえたのかは分からない。マドカはロランの手をぎゅっと握り締め、再び傍に寄り添った。
東の空が明るさを増した午前5時。
マドカは書き置きを残して静かに部屋を出た。
気分はどうですか?
ガスコンロの上にあるお鍋には、お粥が入っています。
冷蔵庫には、ヨーグルトや桃の缶詰など、食べやすいものを入れておきました。 心配なので、また夜にでも来てみます。
マドカ
歩道に並んだ、頭を垂れた向日葵たち。ひとけのない大通りを、一人で歩く夏の朝。どこからか蝉の声が聞こえる。
指先にわずかに残るロランの手の温もりを、確かめるように手のひらを見つめる。
眩しい朝日が、マドカの心を照らした。
ただ、その夢の先を祈るだけの、小さな心を――。