第2章 星の見えない夜(3)
フライパンで目玉焼きが焼ける音でマドカは目を覚ました。懐かしい朝の匂い。母が朝食を準備してくれていた学生時代を思い出す。制服に着替えて、バタバタと家を出たあの頃。でも今は違う。マドカは上京して一人暮らしの身だ。
あれ…?
ねぼけた目をこすり、見慣れたはずの部屋を見渡してみる。
板張りの六畳の部屋。14インチのテレビに、空になった缶ビールが三本と、セブンスターとジッポが置かれた小さなテーブル。テレビ台の脇に、古いスケッチブックが二冊重ねられている。
窓際にはギターが立てかけられ、そのうち一本はアコースティックギター。どれも丁寧に手入れされていて、上品な艶を放っている。カーテンは前に住んでいた人が置き忘れたのか、だいぶ色褪せていた。
「なっ…、なにこれっ!!」
マドカはベッドから起き上がると、自分が何も身に付けていない姿だということに気づいた。
記憶の糸をたどる。
何も思い出せない。
重い頭をあげ、マドカはこめかみの辺りを強く押さえた。
「起きたみたいやな」
ガラス戸で仕切られた簡素なキッチンから、ロランの声がした。
「よく寝てたから起こさなかったんやけど」
トーストと目玉焼きを乗せた皿を持って、ロランが部屋に入ってくる。マドカは足元に丸められたタオルケットを首まで引っ張り上げ、眼鏡をかけたロランの顔を見つめた。
「どうしたん?狐につままれたみたいな顔して。牛乳買い忘れてたから、オレンジでいい?」
ロランはそう言って再びキッチンに戻ると、グラスにオレンジジュースを注いで持ってきた。抜けるような果汁の色が眩しい。
「…説明、…して?」
「説明?」
「そう、説明…」
タオルケットをひっぱりながら、マドカは薄い壁にもたれる。
ロランは立ち上がると、カーテンを開けて外の風を入れた。むっとした空気と夏の匂いが交じり合った微力な風が、はらはらとカーテンの裾を揺らす。
「説明って、どこから説明すればいいん?」
「どこって…」
「覚えてないんか?」
マドカは首を縦に一回振った。
「困ったな」
ロランはテーブルの上に散らばった空き缶を集めてキッチンのゴミ箱に捨てに行くと、冷蔵庫からマーマレードの瓶を取り出し、人差し指で蓋をコツコツと叩いて溜め息をついた。
「なら、どこまで覚えてるん?」
「コンビニ…コンビニでビールとCDを買って…公園に行った。そこまでしか…覚えてない…」
「じゃあ、その後のことは全く覚えてないわけやね」
ロランはずっとマーマレードの瓶の蓋をコツコツと叩いている。 それは恐ろしいほど確実に、一定のリズムだった。
「だったら、何でこの部屋にいるのかも分からんやろ?」
マドカは再び首を縦に大きく振った。
「簡単に言うと、お前が公園で寝てたから連れてきた」
「寝てた?」
マドカには身に覚えのない話だった。
「お前が公園のベンチですやすや眠ってたから、連れて帰ってきただけや」
タオルケットを握るマドカの手に力がこもる。
「じゃあ…なんで…?なんで裸なの?」
「それも覚えてないんか?」
マドカは静かにうなずいた。
「それは、お前が自分で脱いだ。お前が自分で脱いだんや」
「嘘…、信じられない…」
ロランは床に座ると、マーマレードの蓋を開けて焼きたてのトーストにオレンジの粒を塗り始めた。
「だったら…、私が眠っているあいだ、あなたは何してたの…?」
微かに床を覆う光の影がカーテンの揺れに合わせて大きくなり、そしてまた小さくなった。 眠気と訳のわからぬ疲労でぐったりとしたマドカの顔に、ロランの視線が静かに注がれる。
マドカはタオルケットに包まれた足の指を、ゆっくりと動かしてみた。 これは夢の延長かもしれない、そう思う気持ちもないわけではなかった。
「俺はここで飲んでた。君がベッドで寝息を立てているあいだ、オレはこっちで起きてビールを飲んでたんや。君がこのまま目を覚まさないかもしれないって心配やったし、目が覚めた時、この状況を説明せなあかんと思ったから」
穏やかな風に乗って無表情に漂う細かな塵が、光の粒子となって部屋の中を支配していた。殺伐とした空気を感じ取るように、アパートの外で犬の鳴き声がした。
「…どうして?どうして…、放っておいてくれなかったの?」
マドカはロランの顔を見下ろした。蓋が開けられたままの瓶から、金色のマーマレードがこちらを向いている。
「放っておけるわけないやろ。昔、友達に酒を飲んで別れて、次の日の朝ぱたりと死んでしまった奴がおった。俺が公園で君を見つけた時、君の足元には空になった缶ビールが転がっていて、ずいぶん気持ち良さそうやったしな」
マーマレードの瓶に蓋を乗せ、ロランは果肉のたっぷりとついたトーストに噛りついた。口元から軽快な音が聞こえてくる。
マドカの瞳にうっすらと涙が浮かぶ。混沌とした記憶をいくら掘り下げても、どこまでが事実の境界なのか…見当もつかなかった。
「とりあえず、そこの服着れば?」
ロランが示す指の先に、脱ぎっぱなしになったマドカの洋服が散らばっていた。 薄手の水玉模様のブラウスに、タイトスカート、そして白いレースの下着。
「見ないで…」
マドカの声が震える。
「服…着るから。こっち…、見ないで」
ロランはマドカに背を向けた。肌と服の擦れ合う音を後ろに聞きながら、トーストを齧り、床に落ちたパン屑を指で一ヶ所に集める。 肌と布が触れ合うかすかな音は、やがてマドカのすすり泣く声に変わった。
「…帰る」
すべての服を身につけると、マドカは足早に玄関へ向かった。狭い玄関にはマドカのパンプスと、磨り減ったロランのワークブーツが並んでいた。
急いでパンプスに両足を入れ、ドアノブに手をかける。
マドカは立ち止まる。背後にロランの視線を感じる。あの大きな美しい陰影を含んだ瞳で、ロランは私を見ている――。
「何も…何もしてない?」
ロランに背を向けたまま、マドカはほとんど誰にも聞こえないような声でつぶやいた。
ロランが立ち上がり、音も立てずにゆっくりと近づいてくるのが分かる。マドカの後姿を、ロランは静かに見つめた。
「一人で帰れるんか?」
それは優しい言葉でも、弁解の言葉でもなかった。
「ここを出たら右に歩いて最初の曲がり角を左。しばらくすると大通りに出るから。そしたらすぐあの公園やで」
どうしていつも、ロランが傍にいるとこんなに苦しくて、何も言えなくなってしまうんだろう。 ただ、その意地悪な優しさが痛い。 そうやって突き放すみたいな優しいふりをして、私をからかってるんだ。
「ずるいよ、ロラン…」
マドカは頬に残る涙のあとを手のひらで拭い、唇をかみしめた。
「なぁ…、信じてくれとは言わへん…けど、素敵な夢、見てたんやな」
素敵な夢…?
「信じる、信じないは君次第やから」
ロランの声が遠くの空から聞こえる。微かに伸びる光の筋をたどって、高く上った夏の太陽が腫れたまぶたをちくりと刺す。
マドカは静かにドアを開いて外に出た。
私は自分の姿を見失いつつある――。
マドカは睫毛を伏せ、深い溜め息をついた。