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空に架かる橋  作者: 楓花
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第2章 星の見えない夜(2)

「こんにちは。FM TOKYO ミュージック・リクエストの時間です」


 オフィスの古いラジカセをつけ、FM放送にチャンネルを合わせる。


「それでは、今日の一曲目をご紹介します。本日、七月七日デビューのロックバンド、ラ・ヴォワ・ラクテのデビューシングルを聴いていただきましょう。ラ・ヴォワ・ラクテというバンド名はフランス語で天の川という意味だそうですが、今日の七夕は…、残念ながら生憎の雨となってしまいましたね。

 本日、彼らのデビューライブが行われるそうなのですが、なんとチケットは20分で完売してしまったとか! 今、大注目のバンドです。今日は雨の夜空になってしまっても、織姫と彦星が雲の上で出会えることを祈りましょう!

 それでは、ラ・ヴォワ・ラクテで「stars」――」


 マドカはラジオのボリュームを上げた。緩やかなギターのメロディーが流れ出し、ベースとドラムが力強いリズムを奏でる。そして、ロランの甘い歌声が聞こえた。


 ロラン…、今日は雨だよ…


 マドカは窓の外に厚く垂れ込めた雨雲を恨めしそうに見つめた。




「ごめんね、マドカちゃん!」

 すまなそうに手のひらを合わせる松田に、マドカは満面の笑みで首を振る。

「いえいえ、気にしないでください!私なら、残業くらい慣れっこなので!」

「でも、マドカちゃん今日はライブの約束があるって…」


 午後四時。急な打ち合わせが入ったという松田から、急ぎの仕事を頼まれてしまった。あと二時間で終われる保障はどこにもない。


「大丈夫ですよ、大事な仕事ですからね!それに私が行っても行かなくてもライブは始まるし、誰も困らないんですから」

「本当にゴメン!この借りは絶対返すからさ」


 静かに降る雨の音が、マドカの心の奥までじっとりと染み渡っていく。


 ライブ…、行けないや…

 晴れるように祈っても、無駄だったかな…


 マドカは大きな溜め息をつくと、パソコンのキーボードをパタパタと打ち始めた。




   *




 朝から降り続いた雨がぱたりと止んだのは、22時過ぎのことだった。松田を残してオフィスを後にすると、マドカは傘を畳んだ帰り道をスローペースで歩いていく。

 ふと目に止まった、コンビニの窓ガラスに張られた一枚のポスター。ラクテのデビューシングル発売の広告だった。吸い寄せられるようにしてガラスに近づき、ポスターをのぞきこむ。


 やっぱり…、笑ってない…


 ポスターの中に佇む、澄まし顔のロラン。愁いを帯びたその瞳に、マドカの胸は締めつけられる。


 笑った顔のほうが好きなのにな…


「あっ、そうだ!」


 閃いたように表情を明るくして、マドカはそそくさとコンビニに足を踏み入れた。




「さてと、私は一人でバンドのお祝いでもしますか!」


 マドカはオフィス近くのあの公園に来ていた。昼間は会社員の姿が多いこの公園も、夜になるとオレンジ色の街灯だけが小惑星のようにぼんやりと浮かんでいるだけだ。

 例のベンチに座り、マドカはコンビニの袋から缶ビールを取り出した。勢いよくタブを開け、缶を持つ手にひんやりと伝わる冷気が気持ち良い。


「いただきまーす!ひゃ~、うんまい!」

 ビールを半分空け、再びコンビニの袋を弄って、マドカは買ってきたCDを取り出した。

 フィルムを取り、ケースを開ける。




La Voie Lactee 「Stars」




 

 今日一日で何度耳にしたことだろう。朝からつけっぱなしのラジオから幾度となく流れるこの曲を、マドカは特別なもののように感じていた。


 鞄の中にあるウォークマンを手探りで探す。無駄に指先に絡みつくイヤホンの線がじれったい。

 やっとの思いで両耳にイヤホンを入れ、プレイボタンを押す。


 

 シンの優しく繊細なギターの音、タツのベース、正確なカオルのドラム。ロランの声が耳元に響き渡る――。


 歌詞カードに小さく載ったロランの横顔に、マドカはにっこりと微笑んだ。


「綺麗…」


 ロランの写真を眺めながら、あらためてその歌詞をじっくりと追う。




分厚い雲を突き抜けて/あの小さな星まで君をさらえたなら

まるで永遠のように感じられるだろう

幻想の彼方に浮かぶ/星々の影に隠れ

この銀河の世界の中/そっと瞳を閉じるまで




「これ…、まるで七夕の夜の織姫と彦星の歌じゃん」

 ビールを一口飲み、マドカはリプレイボタンを押した。

「ロランって…意外とロマンチスト?」


 自然とにやけてしまう顔を夜空に向ける。


 分厚い雲を突き抜けて/あの小さな星まで君をさらえたなら…


 でも、言われてみたい気もするな…


 それが自分に向けて放たれた言葉であるような錯覚をおぼえながら、ぼんやりとした意識の中でマドカは二本目のビールを開けた。


 雨上がりの夜空。東京の空特有のグレーがかった紫色の夜空。さっきまで垂れ込めていた大きな雨雲が、ばらばらに散っていく。


 ロラン…、会いたい…


 マドカはベンチの背にもたれ、薄汚れた空気の舞う天を見上げた。


 マドカ織姫は、彦星に会えませんでした…


 耳元で鳴り響くロランの歌声は、ほろ酔い気分のマドカを眠りに誘う。通りを走る車のエンジン音も、遠くに聞こえる電車の音も、マドカの意識を遠退いてゆく。ただ、瞳を閉じればそこにはロランがいて、今日も静かに微笑みかけてくれるような、そんな気がした。




「夜の公園に女の子が一人で酒なんて飲むな」


 閉じていたまぶたを静かに開けるマドカの瞳に、べっこう色のサングラスをかけたロランの顔が映る。


 あ、あれぇ…?ロラン?

 私…寝ぼけてるんだろうか…?


「何聴いてるん?」

 左耳のイヤホンが抜かれ、ロランの顔が近づいた。


「ロ、ロラン!!」


 驚いて立ち上がるマドカの膝から、ウォークマンが落下してガシャンと音を響かせた。同時に歌詞カードとCDケースも地面に叩き付けられてしまう。

「あーあ、せっかくのデビューシングルやのに」

 ロランは意地悪そうに頬をふくらませると、ウォークマンとCDを拾って愛おしそうに砂を払った。

「なっ…、なんでぇ?」

 隣に腰掛けるロランに、戸惑うマドカは思わず後ずさりしてしまう。

「何が?」

「だっ、だって…、ライブは!?」

「終わった」

 ロランは何食わぬ顔でそう言うと、歌詞カードを丁寧にケースの中に仕舞い込んだ。

「終わった…じゃなくて…」

「何?」

「何…って…なんでここにいるの?」

「居ちゃ悪いん?」

 ロランはいつものようにポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出すと、セブンスターを形の良い唇に挟み、ジッポで火をつけようとしてふとその手を下ろした。


「やっぱ、東京の空じゃ、晴れても星なんて見えないんやな」

「えっ?」

「ほら、空見てみ」

 マドカはロランの指差す先にあるグレーの空を見上げた。半月が薄っすらとその姿を現しては、散り散りになった雲の間に隠れる。


「晴れるように祈れって言ったろ?まあ、これだけ晴れてれば、星が見えなくても織姫と彦星はちゃんと会えてるんとちゃう?」


 ロランはそう言って煙草に火をつけた。マドカは薄明かりの中に見える、ラインの美しいロランの横顔をそっと見つめた。口元から細く吐き出される煙は、螺旋を描いて灰色の空にのぼっていった。


「それ、聴いたの?」

 マドカの手のひらに乗せられたCDとウォークマンをロランは首を傾げて眺めた。

「う、うん…」

「これで一枚は確実に売れたことになるわな」

「え…、まぁ…」


 ロランは…私をからかいに来たんだろうか…?

 予想外の出来事に、マドカは少し戸惑った。


「あの…、これって七夕の歌?」

 マドカはCDジャケットの『Stars』の文字を指差した。

「どうやろな…どう思う?」

「えっ…、うん…七夕っぽい…」

 その答えを聞いて、ロランはふっと声を出して笑った。

「なっ…何で笑うの?」

 大きな口を開け、綺麗な歯並びをのぞかせて笑うロランをマドカはじっと見つめる。笑いすぎて薄っすらと涙目になっているところが悔しい。


「お前、編集者やろ?もっと気の利いた表現できないん?」

「でっ、でも、そこまで笑わなくたっていいじゃないですか!」

「ごめん…、君のことからかうと、面白くて」

 ロランはそう言って煙草の灰をぱらぱらと落とした。

「でも、まあそんな感じだろうな…七夕って、一年に一度、願い事が叶う日やろ?」

 目の前に揺れる噴水だけがベンチの二人をひっそりと見つめている。さらさらと流れる水の音は一段と美しく響いた。


「ロランは今日、何かお願い事したの?」

「ん?」

「願い事、した?」


 サングラスの奥に静かに息づくロランの瞳――。

 この瞳は今まで何を見て、何を求めて、そしてこれから何を探していくんだろう、とマドカは思った。


「願い事か…、君は?」

「…私?」

「さっき、夜空を見上げて何か祈ってたみたいやったから…」

 ロランの言葉にマドカは思わず顔を赤くする。

「私は…ただ、晴れるように祈ってただけ…そうすれば、大切な人に会えそうな気がしたから…」

 マドカが恥ずかしそうに俯くと、ロランは目を細めて優しく笑った。


「今の、もらい!」

「えっ!?」

 マドカは驚いて眉をひそめると、苦笑いを浮かべて首をかしげた。

「今の、もらってもいい?」

 ロランの顔が近づいてくる。高鳴る心臓の音が聞かれないようにと、マドカはただそれだけを祈っていた。

「もらうって…?」

 少し上からマドカの顔を覗き込むロランは、にっこりと微笑んでいる。

「今の、使えそう」

「だから…、何に?」

「曲のイメージ」

「曲?」

「そう、いつか使わせて。ただ晴れるように祈る、小さな女の子のお話し」


 ロランがにっこりと微笑む。

 生ぬるい風か吹き抜け、散り散りになった雲を東のほうへ揺らす。灰色がかった紺の夜空に、半月だけがぽつんと表情も変えずに消えたり現れたりする23時の空。


「あっ!」

 マドカは何かに気づいたように突然空を指差した。

「星、見えた。すっごく小さな星…今、見えたんだよ!?」


 二人はそのままじっと空を見つめ、星が現れるのを待っていた。けれどなかなかその小さな星は現れない。

「もう、厚くなった雲で見えないな」

「うん…、でも…本当に見えたんだよ」

 マドカがしょげたように下を向くと、短くなった煙草を靴底で揉み消して、ロランはベンチの背にもたれた。

「二人はちゃんと会うことができたんやな」

「二人…?」

「君は、二人の願い事が叶う瞬間を見たんだね」


 織姫と彦星のこと…?


 ロランが言うと、どんなおとぎ話でも生き生きと現実味を帯びる。彼の幻惑した美しさは青白い光を放つ月の下で、音も立てずに震えているみたいだった。


「なぁ…」

 ロランは頭上の月をただ見つめながら言う。

「キス、したくない?」


 マドカは驚いて思わずロランの横顔をじっと見つめ続けた。何ひとつ変わらないその表情は月明かりに照らされて、いつもより一段と美しく見える。


「キスしよっか」

 ロランはマドカに向き合った。

「あ、ちょっと待って。これじゃ雰囲気出ないやろ?」

 ロランはそう言ってサングラスを外すと、力強い二重の瞳でマドカを見つめた。


 マドカの頬に手が触れる。その華奢な体には似合わないほど、ロランの手は大きく、指先はごつごつと骨張っていた。指先が唇に触れ、硬直したマドカの体が一瞬ゆらぐ。ロランの指先は穏やかな波のように、ただ静かにマドカの唇を這っていった。

 マドカはきつく瞳を閉じた。


「可愛い唇やな」

 瞳を閉じたまま、マドカはロランの指に翻弄される唇を噛み締める。

「キスしたい…?」

 ロランが意地悪そうに質問する。

「して欲しい?ちゃんとして欲しいって言わなきゃ、分かんないやろ?して欲しいん?」

 マドカは躊躇いながらも小さくこくりと頷いた。

「フレンチとディープ、どっちがええ?」


 ロランの意地悪な質問は続く。

 唇の上をなぞるロランの指先が愛しい。マドカは静かに息を呑んだ。




 短くさりげない、シンプルだけど優しいキスだった。

 ロランの腕が背中に回され、マドカはふわりと抱きしめられる。

「羽みたいやな…」

「羽…?」

 マドカは腕の中でロランの美しい顔を見上げた。

「柔らかくて、温かい。だけど興味本位で触れてしまったら、すぐに壊れてしまいそうなくらい脆い羽」


 湿り気を帯びた夜風がロランの長い髪を揺らし、マドカの頬をいたずらにくすぐる。

 ロランの煙草の香り――。

 煙草の匂いは大嫌いだったけど、ずっとこの香りに包まれていたい。ロランを彩るすべてのものを、望遠レンズでのぞきたい。その色や形、香りをもっと近くに感じることができればいいのに。


「願い事…」

 ロランはその美しさが凝縮されたように優しい曲線で象られた耳をマドカの頬にぴたりと寄せて言った。

「俺は、羽が欲しい」

 指先に絡めたマドカの髪を丁寧に撫でると、ロランは寂しそうにうつむいた。

「ロラン…、どうして、羽なの?」

「羽があればどこにだって会いに行ける。星のない夜でも、君をさらうことができる」


 この銀河の世界の中、そっと瞳を閉じるまで――。

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