第2章 星の見えない夜(1)
「マドカちゃん!原稿!!」
オフィスに響く松田の声。締め切りを前日に控えた社内は、猛烈に忙しい。朝から晩まで威勢のいい松田の声がマドカの頭上には漂っていた。
七月一日、ラクテのメジャーデビューまで一週間。
結局、取材のほうはマドカの心配をよそにスムーズに進んだ。メンバーとマドカのあいだに横たわっていた溝も取材を終える頃にはすっかりと消え、メジャーデビューを果たす彼らのことを、マドカは心の底から応援していた。
いくら初の大仕事とはいえ、これほどまでに担当したミュージシャンに感情移入してしまうのはマドカにとって初めてのことだった。インタビューで彼らが語った言葉のひとつひとつは、数日経った今でも鮮烈な印象を残している。
「はぁ…」
梅雨明けの真っ青な空に浮かぶ雲の動きを頬杖をついて眺め、マドカは溜息をつく。
「マドカちゃん、最近溜息多くない?」
「そ、そうですか?」
「だいぶ疲れてるみたいだね」
確かに、ここ数日の徹夜に加え、どうしてもロランのあの笑顔が頭から離れないのだ。
「そんなマドカちゃんに、電話だよ」
松田の声に顔を上げると、マドカは急いで受話器を受け取った。
「はい、お電話変わりました吉井です」
「…マドカちゃん?」
電話の向こうは騒がしかった。様々な声と楽器の音が響きあっている。
「マドカちゃん、聞こえる?」
「あ、はい…」
マドカは顔をしかめながら、受話器を握り締めた。
「ラ・ヴォワ・ラクテのタツです」
「タツさん!?どっ、どうしたんですか!?」
「いやー、マドカちゃんどしてるかな、と思ってね…、てのは半分冗談で…あのさ、今ね、ライブのリハーサル中だったんだ」
どおりで騒がしいわけだった。
「でね、シンと話してたんだけど、マドカちゃん、七月七日の夜って空いてる?」
「七月七日ですか?」
「そう、七夕の日」
デスクの上に放り投げてあったシステム手帳をぱらぱらとめくり、マドカは七月のカレンダーを開いた。
「夜…ですよね?仕事の後なら…」
「空いてる?ならさ、オレたちのライブ見に来ない?」
「えっ、いいんですか!?」
ガシャン……!!!
勢いよく立ち上がった衝動で、椅子が騒々しい音を響かせて床に倒れた。松田が渋い顔をしてマドカを見上げ、あきれたように笑っている。
「マドカちゃん?大丈夫?」
「だ、大丈夫です!絶対行きます!七月七日、18時ですね!」
*
太陽はすっかり真夏の顔をしている。初めてロランに交差点で出会った雨の日から、一ヶ月が過ぎようとしていた。
この一ヶ月で、マドカは人生で一度も味わったことのない充実感を覚えた。任された仕事をやり遂げた充実感、才能あるロックバンドとの交流。
そして何より、偶然にしては出来過ぎているくらい運命的な、ロランとの出会い――。
それはまるで海底を泳ぐ魚のようにひっそりと、それでも確実に、子供でも大人でもないマドカの心に変化をもたらしていた。
「暑い…」
仕事の打ち合わせを終えて、マドカは遅めの昼休みにオフィスの近くにある公園へ気晴らしに出かけた。緑が多いこの公園は日陰も多く、静かで居心地が良い。午後の日差しを遮る木々の葉は、本格的な夏を迎えようとする都会の生ぬるい風を心地良く透き通るものに変えてくれる。
コンビニで買ったパンとアイスティーを抱え、マドカはいつものベンチに向かった。太陽の光を浴びてきらきらと輝く噴水が見渡せるお気に入りの場所だ。
あれ?先約かなぁ…
いつものベンチにはすでに誰かが腰を下ろしていた。楽しみがひとつ減ってしまったような気持ちで、仕方なく近くのベンチに座る。午後二時の強い日差しが葉の隙間から洩れ、マドカの白い肌に光を落とした。
「ここだと日焼けしそう…」
マドカは園内をぐるりと見渡し、他に空いたベンチを探した。昼時はとっくに過ぎているのに、大好きな場所が使えないのは虚しい。
「やっぱり、いつもの特等席が一番なのにな…」
肩を落としてつぶやくと、マドカはうらめしそうに数メートル先にあるお気に入りのベンチに視線を向けた。
ロラン…?
まさか…、ロランに九段下の公園は似合わない。
そう勝手に納得し、マドカはアイスティーの紙パックにストローを突き刺した。
見覚えのある横顔。足を組み、膝の上にスケッチブックのような大きなノートを広げてなにやら書き物をしている男性。耳まで伸びたブラウンの髪が頬にかかり、正確な顔は分からない。けれど、彼の存在はなぜかマドカの心を乱した。
絵でも描いてる人なのかもしれない。さらさらと器用に鉛筆を動かす彼が、スケッチブックから顔を上げる様子はなかった。
ちょっとこっち向いてくれないかな…
心の中で念じながら、マドカは昼食のメロンパンを頬張った。
時折吹く南風が彼の前髪をふわりとあげる。マドカは横目で彼の様子を伺い続けた。しかしこちらの視線に気づく気配は全く感じられない。
しばらくするとマドカの想いが通じたのか、男性は鉛筆を動かす手を休めた。ジーンズのポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出す。形のよい唇にフィルタをはさみ、ジッポで火をつける。
「ロラン!!」
思わず口にした彼の名前。男性は静かに顔を上げ、こちらを向いた。
「こんにちは」
ロランは柔らかな声でそう言うと、目を覚ました幼い子供のように軟弱な瞳で、ぼんやりとマドカを見つめていた。
「こんにち…は…」
アイスティーの細いストローを唇に押し当てたままの格好で、マドカは蚊の鳴くような声で答える。それが精一杯だ。
「そこ、日焼けしない?」
ロランは目を細めて、マドカの腕に落ちる光の筋をたどった。
「あ…、はい…ちょっと暑いです」
小さな声で答えると、マドカはひらひらと揺れる葉の切れ間からのぞく水色の空を見上げた。
「こっち、来れば?」
「えっ、でも…」
ロランはベンチの右側に寄り、左側に半分ほどのスペースを空けた。
「ほら」
そう言って、ベンチをぽんぽんと叩く。
「あの…、す、すいません…お邪魔します…」
メロンパンの袋とアイスティーのパックを持って、マドカはロランの隣に腰を下ろす。緊張という言葉では推し測れないほどの心拍数がマドカを襲う。夏の太陽がマドカの周りだけ、ぐんぐんと気温を上げていった。
「なんか…よく会いますね、しかもこんなところで…」
「そう?」
ロランは煙草を持ち替え、ベンチに軽く叩きつけた。灰がぱらぱらと地面にこぼれ落ち、いくつかの粉末は風に流された。
「…明日ですね、デビューライブ。本当におめでとうございます」
「ああ」
共通の話題も見つからず、二人の会話はすぐに途切れてしまう。何か話さなければいけないと思えば思うほど、緊張でマドカの体温は上がった。
「今日はお休みなんですか?」
「んー…、21時からラジオの生出演。それまで放浪中」
ロランの言葉を頭のなかで反芻しながら、マドカはメロンパンを頬張り、アイスティーで流し込んだ。緊張で味なんてしない。
「君は?」
「えっ?」
「仕事中?」
「は、はい…、今、遅い昼休みです」
マドカの返答をうなずきもせずに聞き流して、ロランは噴水の水飛沫を目で追っている。二人の頭上を大きな音を立ててヘリコプターが飛んでいった。
「そういえば…さっき、何を描いていらしたんですか?」
マドカはロランの傍に置かれたスケッチブックに目をやった。
「ああ、これ?」
何気なくスケッチブックを広げてマドカの前に差し出すと、ロランは煙草の火を消してベンチの背にもたれかかった。
「これ…、ロランが描いたの?」
「そうやけど?」
マドカは大きく輝く瞳をさらに見開いてロランの顔を見つめた。そこには目の前に広がる風景がそのまま収縮された世界が忠実に描かれていた。噴水とイチョウの木、広場を取り囲むベンチ、遠くに戯れるハトの姿。
「すごい…素敵!私、こんなに一枚の絵に感動したの初めて」
マドカは興奮で涙目になりながら、絵と噴水の水飛沫を交互に見つめた。
「それ、ただのスケッチやで?」
「ううん、そんなことない!だって、この噴水から湧き出る水の光を浴びた感じとか、ハトの斑模様とか…誰でも描けるものじゃないわ」
「ここのベンチから見た噴水が一番綺麗に見えるんだ。ほら、そこの木とのバランスだって最高に良いしね」
私も…、このベンチから見る景色が一番好き…
「ロランさんって、すばらしい才能に恵まれた方なんですね」
マドカがにっこりと笑うと、ロランは肩をすくめて足を組み替えた。
「クロード・ロランっていう画家がいるんだ」
「クロード・ロラン?」
「そう、古いフランスの風景画家。ボーカリストとしての俺の名前、彼から取ったんや。知ってる?」
マドカは首を振った。
「ごめんなさい、あまり絵画に詳しくなくて…でも、素敵な響きの名前。ロランって素敵な名前ですね」
マドカの言葉に、ロランはにっこりといたずらな少年のような笑顔を見せた。マドカが大好きな、無邪気なロランの笑顔――。
「あのさ、どっちでもええんやけど、君さっきから、ロランって言ったりロランさんって言ったり、結局どっちなん?」
ロランはそう言ってスケッチブックを閉じ、二本目の煙草に火をつけた。
「ごっ、ごめんなさい!ロランさん…です…」
「まあ、好きなように呼べばいい。俺は何て呼ばれても逃げないから」
口元に絶えず微笑を浮かべるロランの傍にいられることが嬉しくて、マドカはしばらく彼の隣でぼんやりとしていた。
煙草の煙が風にたなびいて、夏の午後に飲み込まれていくのが見える。マドカはふと我に返り、腕時計に目をやった。
「あれっ…、やばい!そろそろ戻らなきゃ!」
マドカは立ち上がり、膝の上にこぼれたメロンパンの屑をパタパタと払い落とした。
「あの…、今日はありがとうございました。お話できて楽しかったです。とっても…」
ロランは僅かにうなずくと、静かに煙草の灰を落とした。
「じゃあ、これで失礼します!」
メロンパンの袋と空になった紙パックを両手で丸め、マドカは小さく頭を下げる。
「じゃあ、明日な」
「えっ…?」
「明日、君も来るんだろ?ライブ」
ロランの髪が風にさらさら揺れている。マドカを見上げたその静謐な瞳は、深海のように穏やかだった。
「晴れるように祈っとけば?天の川…見れるかもしれない」
天の川…見れるかもしれない――。
どうか、明日の夜は晴れますように…
天の川が見れますように…