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空に架かる橋  作者: 楓花
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第12章 空に架かる橋(最終話)

「ロラン!!」


 流れるギターの音がぷつんと途切れ、遠く離れた二人のあいだを強い風が吹いた。


 白い肌と完璧な横顔、風に揺れるブラウンの髪、べっこう色のサングラス、綿のシャツの下にある華奢な体、アコースティックギターを抱える大きな手…、そこにあるものが幻想的に美しくて、今にもひび割れてしまいそうなくらい胸が痛い。


「ロラン…」


 そこにはロランがいた。空と木々の、優しい緑のあいだに。

 白いベンチの上で足を組んで、子猫を膝に乗せるみたいに大切そうにギターを抱えて――。


 まるで永遠に時間が止まってしまったみたいだ。あなたの面影を抱いて、あなたの姿を探して、誰よりも会いたかったはずのあなたがすぐ目の前にいるのに、言葉が出ない。

 出るのは涙だけ。いつのまにか鮮やかな景色が霞んで、そこにいるあなたの姿もちゃんと見ることができない。


 サングラスの奥にあるロランの瞳がこちらを向いて――。


 ロラン、あなたの瞳は今も…私の姿を映すことができる?

 その瞳は…いったい何を見ているの?





 ロランは静かに顔を上げ、立ち尽くすマドカを見つめた。目を覚ました幼い子供がするようなぼんやりとした視線。

 不安と緊張が波のように押し寄せ、マドカの体がこわばっていく。


 ずっと…この瞬間を待っていた。

 あなたに会える、この瞬間を――。


 想いとは裏腹に、何も言えずに俯いて黙り込んだままのマドカをロランはただじっと見つめていた。そして、ふっと張り詰めた細い糸が切れたように力を抜くと、口元に小さな微笑を浮かべた。

 ロランの柔らかな声が静かに舞う。


「マドカ…」


 あの時と同じだ――。それは三年前の暑い夏の午後、九段下の公園でスケッチブックから顔を上げて見せた、あの微笑みと同じだった。

 あの頃と何ひとつ変わらないロランの微笑みは、胸の奥に仕舞い込んだ願いをこの両手で取り出す時のように懐かしい。


 マドカは頬を伝う涙を何も言わずに拭って顔を上げた。





「隣、座る?」


 ロランはそう言って、ベンチの左側に半分ほどのスペースを空けると、膝の上に乗せていたギターを足元に立てかけた。


 きっと、私は今ぎこちない笑顔を浮かべているだろう。あなたと肩を並べることくらい、あんなに慣れっこだったのに。

 今はもう、あなたへの想いを募らせていた出会った頃の私に逆戻りしたみたいだ。

 息が詰まりそうなくらい苦しくて、胸が締め付けられるほど痛くて、あなたの言葉が愛しくて――。


 あれからもう三年の月日が流れて、あなたと私の距離は縮まることなくここへ辿り着いた。

 今、隣にいるあなたも、私も、あの頃の二人じゃない。

 失われた風景は、取り戻すことができないのだから――。





   *



 マドカは風に揺れるスカートの裾を押さえてベンチに掛けた。

 目の前に広がる美しい松山の街並み。すべてはこの街から始まっていたのだ。ロランの父親、桜田直義の未来も、母の未来も…、

そして、ロランのすべてがここから始まっていたのだろう。


「俺がいたライブハウスは、ずっと向こう。あの山の下あたりやな」


 ロランは見慣れた風景の一部を、まるで自分のもののように指差して言った。


「田舎にある小さなとこやったから、もう潰れたかもしれんな。十九の時まであそこにおったから…あれからもう十年になるんやなあ」

 マドカは口を噤んだままだった。穏やかな日差しが地上に降り注ぎ、マドカのスカートの上に小さな影を落としていた。

 さっきまで軽やかに吹いていた風の音が止み、辺りは無音のまま時を刻んでいた。ロランは右手を膝の上に乗せ、その手のひらをじっと見つめたり裏返したりしている。


「今、なにしてるん?編集の仕事?」


「青山の児童図書館で…、働いてる…」


「図書館か、マドカらしいな」


 ロランはふっと笑い、顔を上げた。べっこう色のレンズが、太陽の光に反射して輝いている。


 この青い空は、ロランの瞳にはどんなふうに映るのだろう。セピア色なのかモノクロなのか、それともに七色に彩られた世界なのか、マドカには検討がつかなかった。


 静かに繰り返される彼のまばたきは重く、光の動きに何度も目を細めながらじっと一点を見つめている。そんな一連の動作に胸が締め付けられ、マドカはぎゅっと瞳を閉じた。


 私は…ロランを救えなかった。

 いつも隣にいたのに、気づいてあげられなかった。

 あなたの瞳を、救えなかった――。





「ロラン、私…」


「なぁ、マドカ…」


 ロランがマドカの言葉を遮った。


「マドカ、俺が今、何を怖れて生きているか分かる?」

 マドカは瞼を伏せたまま、左右に首を振った。俯いたままのマドカにロランの表情は分からない。だけどきっと、ロランは今、寂しそうな瞳をしてる。出会った頃と同じように、すべてを悟り切った、諦めを含んだ寂しそうな瞳――。


 マドカは溢れる涙をこらえて、すうっと息を吸い込んだ。

「俺は、闇が怖い。暗闇が怖いんや。光のない世界が怖い。夜になると、どうしようもない虚しさに襲われる。毎晩のように眠りがやってきて…ベッドに潜りこんで眠ろうと思っても、目を閉じるのが怖い。一度目を閉じてしまったら、二度とこの世界が見えなくなってしまいそうな気がして…怖いんや。なぁ、まるで小さな子供みたいやろ?」


 あの頃と同じロランの声。二度と聞くことができないと思った、あなたの声。記憶の中で何度も繰り返した名前――。


 ロラン…


 マドカの頬を涙が伝い、肩が震える。

 泣いてはいけないって分かってるのに…、ここで私が泣いても、どうにもならない。辛いのはロランなのに…、ロランはちゃんと前を向いて生きてる。 確かなものをその瞳に映そうって…しっかり前を向いて生きてる――。


「俺は今、微かに見える右目を失うのが怖い。日に日に視界が塞がっていくのが分かる。覚悟はできてる…だけど、見えなくなるのが怖い。ほんの数パーセントの視野でもかまわない。このままで…いさせて欲しい…」


 消え入るような声で放たれた言葉が、バランスを失ってその場に砕け散った。

 ロランの瞳は眼下に広がる街を見下ろしていた。空を見上げれば、さっきまでは見えなかった綿雲がどこからかやってきて、退屈そうにぽつんと浮かんでいた。

 太陽の光は、さっきよりもずっと弱くなっている。頬を伝った涙はどこかへ消えた。マドカはしっかりと前を向き、呑み込んだ言葉をまっすぐに伸ばした。





「ロラン…ごめんね、私…ごめんなさい…」


 隣にいるロランの横顔を見ることさえできない。マドカは再び俯いた。込み上げる想いだけが強さを増し、身体を流れるすべての感情が今にも溢れ出してしまいそうになる。

 この気持ちをロランに伝えるまでは、涙の海に沈んでしまわぬように…マドカは膝の上に置いた両手をぎゅっと握り締めた。

「私…、気づいてあげられなくて…ロランがどんなに辛い思いでいたのか…分かってあげられなくて…、ロランの、大好きなロランの隣にいることができればそれだけでいいって…そう思ってたけど、それは全部私の勝手な想いでしかなくて…あの頃の私は自分のことしか見えていなかった...私、ロランが抱え込んでいた苦しみに、何も気付かなくて…ごめんね、ごめんね…ロラン…」


 どんなに悔やんでも、あの頃には戻れない。

 マドカの瞳から涙が落ちる。もう、振り返ることはないだろう。ロランと過ごした日々を、思い出すこともないだろう。こうして再び出会えたことが、あなたとの最後だと思っていたから――。何度も繰り返したこの気持ちを伝えることで、少しは楽になれるかもしれない。


「私…、忘れることなんてできなかった。ロランと一緒にいた時間も、ロランがくれたたくさんの優しさも、ロランに出会わなければ感じることのできなかった痛みも…ずっとずっとこの胸に残ってた。ロランの隣にいることが、どんなに特別なことなんだろうって…ロランの傍にいることが、どれだけ私を支えてきたんだろう…私がロランにしてあげられることは何だろう…って今ならそう思えるのに。今なら…何度もそう思えるのに。だけど、今更もうどうにもならないことなんだよね…すべて、失われてしまった過去のことなんだもんね」


 溢れる涙を塞き止めようと、マドカは顔を上げた。風に乗ってゆっくりと流れる雲が、どこへ向かうのか思い思いのまま散り散りになっていく。

 霞んだ視界が虚しさを運ぶ。胸に伝う過去の痛みを嘲笑うように、頭上の空は底抜けに明るかった。





「フランスに行こうと思う。この目が見えるだけの時間を、描くことで養いたい。この瞳で見たものを、ひとつひとつ額に入れて飾っておけたらええな…って」


「フランス…」

 マドカの表情が曇る。

 私はもう、ロランに何もしてあげられない。一度離れた心はきっとどこまでも離れていくように作られているのだろう。引き寄せる力を失った心は、二度と戻らないのかもしれない。

 想う気持ちだけが強すぎて、遠い空で祈ることも、あなたを想い続けることも、もう私は…あなたを救えない――。


「どうしてそんな顔するん?」


 ロランの言葉にマドカは首を振った。


「ううん…そうだね、ロランにはそれが正しい選択かもしれない。私…ロランの絵、大好きだから…ずっと描き続けて欲しいな。私...ロランと過ごした思い出は...どこにいても、どんなことがあっても、ずっと忘れないよ」

 マドカは精一杯の笑顔でロランの横顔を見つめた。少し痩せた頬にかかるブラウンの髪が、寂しさと苦しさで泣いているように見える。


 その瞳から光が消えてしまう前に、あなたに会えてよかった。もう思い残すことは何もないよ、ロラン…

 あとは笑顔で別れるだけ。最後に、その瞳に笑顔の私を映して欲しい。その笑顔を記憶の隅に留めておいてくれたらそれだけでいい――。


 すべては終わってしまった過去のことだった。隣にいるロランがこのまま何も言わずに立ち去ってくれればいい。

 そしたら、笑顔でさよならを言って…、今度こそ、これが最後の別れになる。


 ロランはフランスへ…、もう二度と…会えない――。





「一緒に…来る?」


「えっ...?」


「フランス…マドカも来てくれへんかなって。傍にいて欲しい。いつまでも俺の隣で笑っていて欲しい。こんな勝手なこと...無理やって分かってる。けど…これが最後になるのなら、素直に言っておきたかった。マドカの笑顔がなによりも大切なんだって」


 ロランは深く息を吸い込んで空を見上げ、べっこう色のサングラスを外した。太陽の淡い光に目を細めながら雲の流れを追うその大きな深い瞳は、マドカの瞼に焼きついた、美しいロランそのものだった。


「マドカ…、俺…どうしても眠ることのできない夜は、いつもマドカのことを考えてた。マドカの笑顔や、マドカの声を思いだせば、何も怖がらずに目を閉じることができる。闇を怖がらずに生きることができる。ああ、そういやあの本…」


「あの本…?」

「マドカのプレゼント…『空に架かる橋』…もう何百回も読み返した。全文暗記するくらい読んだ。あの本のページをめくると、マドカの声が聞こえてくる。マドカが、眠れずにだだをこねる俺の傍にいる。子供を寝かしつけるみたいに、そっと枕元に手をおいて…マドカはゆっくりと本を読んで聞かせてくれる。毎日そんな夢ばかり見てる」

 ロランは苦笑いを浮かべながら首を傾けた。


「俺、相当おかしいかもしれんな。母親の愛情に飢えてるからこんなこと考えてしまうんやろな。ごめんな、マドカ…」

「ロラン…」


 マドカはその美しい横顔を見つめた。

 私だって…ロランのことを考えない日はなかった。いつも私の傍にはロランがいた。ロランの面影が、ずっとずっと…隣にいた――。





「さてと、そろそろ帰らへん?」


「帰るって…、どこに?」


「あれ?マドカ、ギャラリーから来たんやろ?」


 ロランは立ち上がってマドカの顔を見下ろすと、にっこりと微笑んだ。

 マドカの大好きな笑顔。

 綺麗なロランの顔が、ほんの少し崩れる瞬間――。


「篠田さんにマドカのこと紹介せなあかん」


「…どうして?」


「あの絵のモデル、誰なんだってしつこいねん、あのおばちゃん。マドカ、何か言われなかった?」


 見上げたロランの姿があの頃と変わりなくて、マドカは思わずくすりと笑い出す。急いでベンチから立ち上がり、ギターを抱えて歩くロランの後姿を追いかける。


 あの頃のままだ――。

 そこにある景色をまとって、静かに美しさと共存しているロラン。

 少し前を歩く愛しいその人に、マドカは声をかけた。





「ロラン…、私…、フランス…行ってあげてもいいよ」


 ロランが振り返る。


「私も…ロランの隣にいたい。どんなことがあっても、ロランの傍にいる。ロランが闇を怖がらずに目を閉じて眠れるようになるまで…ずっと傍にいてあげるから」


 ロランはマドカの真剣な顔を見つめると、綺麗な歯並びを見せてにっこりと笑った。

 ロランのシャツの裾が風に揺れ、さらさらと気持ちの良い音を立てている。マドカは唇をきゅっと結び、得意気に笑顔を作って見せた。


 二人の距離が近づき、いつのまにかロランの顔が鼻先のすぐそこにある。


「もう煙草の味なんてしないけど?」


 ロランはそう言って、マドカの笑顔に目を細めた。


「キス…もう煙草の味なんてしない」


「ロラン、煙草…やめたの?」


「ああ、ずいぶん前にやめた。街でマドカとすれ違っても、見えへんようになったら気付かんやろ?一分でも一秒でも…マドカの笑顔が傍にあったらええなってそう思ったから」





 ロランが私にくれる言葉は、いつもどこかくすぐったくて照れ臭い。だけど、私はあなたのことが大好きだから、あなたの声を一番近くで聞いていたい。切ないギターの音色でも、透明な歌声でもなく、ただあなたの声を一番近くで聞いていたい。


 だって、あなたのギターと歌声は、離れていても、どこにいても、この世界のどこかにいれば耳にすることができるでしょう?

 あなたはラ・ヴォワ・ラクテのボーカリストだから、あなたの歌声はこれからもずっと、誰かの心の中に響くでしょう?

 どんなに季節が流れても、あなたの歌声は色褪せることなく誰かの記憶に残るでしょう?


 だから私は、あなたが私に向けて放つ言葉だけを聞いていたい。

 いつの日も、耳元に響くあなたの柔らかな声を思い出していたい。





「なぁマドカ…、キス…してもいい?」





 ロラン…、私はいつも祈ってる――。

 あなたの瞳が、ずっと傍にありますように。あなたのその美しさが、永遠に色褪せることがありませんように。

 例え、あなたの瞳にある唯一の光を闇が覆い隠しても…、私があなたの目になって、あなたが私の勇気になれば、橋を渡れる――。


 星のない夜も、私たちは出会うことができる――。





「ロラン…」





 降り注ぐ光のベールをまとい、マドカは瞳を閉じた。











―END―


このお話は、2005年1月から5月まで携帯小説掲示板で連載していたものです。

今回投稿するにあたり、大幅に加筆修正いたしました。

関西出身ではないのでおかしな表現があるかと思いますが、

最後までお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。

お気軽に感想や評価をいただけると幸いです。



2007年月 作者

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