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空に架かる橋  作者: 楓花
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第12章 空に架かる橋(1)

 松山市のガイドブックを片手に古い洋館風のアパートの二階に設けられたギャラリーの扉を開くと、柔らかな鐘の音がマドカを迎えた。

 額に収められた数点の絵画が懐かしい風景のようにじっと佇んでいる。窓辺に群れる新緑の風が木々の葉をさわさわと揺らし、建物の隙間から入り込む微風が肌を心地良く撫でていく。


「いらっしゃいませ」


 入り口のすぐ側に小さなカウンターがあり、年配の女性が椅子に座ってこちらを見て微笑んでいる。


「ゆっくりご覧になって下さいね」


 マドカは笑顔で軽く会釈をすると、表示された順路に沿ってゆっくりと歩き出した。他に来訪者の姿は見当たらず、建物内は閑散としている。年代を感じさせる木造の床が歩くたびにきしきしと鳴り、窓から差し込む光はくっきりとした影を落としていた。





故・桜田直義絵画展~失われた風景を見つめて~




 桜田直義の個展が松山で開かれるという記事をマドカが情報誌で見つけたのは二週間前のことだった。


 桜田直義――。


 彼の名前は今でも、マドカの記憶の中で鮮やかな熱を帯びて入り組んだ迷路を彷徨っている。

 そして、彼の名前は黒い影を残してあの人の面影を呼び起こさせる。


 それは、かつて私の恋人だった美しい人、ロラン――。


 彼は今、どこにいるのだろう。イギリスから帰国して半年経った今も、ロランの居場所を探す術をマドカは持たなかった。





 桜田直義の描いた風景画は、どれも写真みたいに精密でリアルな世界を表していた。その写実的な世界の中に、繊細な筆の使い方や独特の表現方法で彼は様々な表情を描き出すことに成功していた。

 どうしてロランは父親のことを「売れない画家」なんて言ったんだろう。こんなに美しい風景を自分のものにして、まるで映写機みたいに画面に映し出してしまうのに。


 どの作品にも彼の生命観が宿り、強い意思を感じさせる。マドカは桜田直義の魂が吹き込まれたそれぞれの絵に、鮮やかでいてほの暗い光と影の存在を見出しながら、額縁に収められた景色を眺めていた。


 もし、彼が画家として大成していたら、あらゆる出来事はもっと単純なものになっていたのかもしれない。

 桜田直義自身も、死んだ母親も。

 そして、ロランも――。





 それほど広くはないギャラリーをひと回りするのに、たいした時間は要さなかった。

 二十点近くの作品に描かれた、桜田直義が愛した風景。草木、山、花々、川、空、屋根、歩道、建造物…、見慣れない建物の並ぶ街並みは、彼がフランス留学中に見つめた景色なのかもしれない。


 不意に、マドカの足が止まる。これまで眺めたキャンバスとは比較にならないほど大きな画面に描かれた蒼い水面。新緑の山に囲まれた湖、そこに浮かぶ一艘のボート。


 マドカの身体を、内側から締め上げるような熱く苦い感情が貫いていく。




――「湖水」




 マドカの記憶の片隅に淡い陰影を残したその風景が今、ここにある。

 目の前に広がる空の青と緑水、揺れる水面に映る木々の枝葉。マドカは今でも、あの絵葉書を正確に思い出すことができる。桜田直義が母親に宛てた文面の裏で、ひっそりと息をしている湖水。いつまでも色褪せることのない母の記憶に混じって、ロランの歌声が耳元にこだまする。

 マドカは込み上げる想いをぐっとこらえてその場に踏み留まった。窓から差し込む日の光はだいぶ和らぎ、緑風に窓ガラスがカタカタと鳴っていた。


 深呼吸をして「湖水」から目を離し、隣の額に視線を向ける。

 これが最後の作品だった。

 しかし、そこにある絵を見てマドカは思わず言葉を失った。



――「マドカ」




 それが額縁の下に小さな文字で遠慮がちに書かれた、作品のタイトルだった。




   *



 マドカが声をかけると、受付の女性はチラシを整理する手を休め、ゆっくりと顔を上げた。彼女の口元には絶えず感じの良い微笑み浮かんでいて、マドカの顔を見るなりその小さな笑みは波紋のようにふっと広がっていった。


「すみません、あの最後の作品なんですけど…」


 マドカは後ろの壁にかかったあの絵を指差した。女性はマドカの言わんとするところの意味を薄々感じ取ったらしく、マドカの顔を見つめ返すと再びにっこりと微笑んだ。


「あぁ、あの絵ですね、女の人の寝顔でしょう?」


 マドカが小さく頷いて微笑むと、掛けていた薄いレンズの眼鏡を外して女性は静かな瞬きをした。


「やっぱり分かります?実は最後のあの絵だけは、桜田先生の描いた作品じゃないんですよ」


 彼女はそう言って血色の良い頬に手をあてて、唇をきゅっと結んだ。

 日差しが泉のように重なってマドカの足元に小さな陽だまりを作り、穏やかな時間が流れていた。どこからともなく聞こえてくる鳥のさえずりがギャラリー全体の雰囲気を明るくしてる。


「私はこのギャラリーを管理している篠田と申します。桜田先生とは生前、ちょっとしたお付き合いがありましてね。物静かでどこか掴めないような雰囲気をお持ちでしたけど、なかなか芯の強いしっかりした方でした。事故にさえ遭わなければ、今頃、日本画壇の第一線で活躍されていたでしょうに...」


 篠田さんは立ち上がって、マドカにパイプ椅子を差し出した。マドカは首を振ると、お礼を言ってにっこりと微笑んだ。


「あれは、桜田先生の息子さんがお描きになった絵なんですよ」


「息子さん?」


「ええ、今回先生の個展を開きたいとおっしゃったのも、息子さんなんですよ。私は息子さんに頼まれてこのギャラリーを管理しているだけなんです。桜田先生の作品も趣があって素晴らしいですけど、息子さんの絵もなかなか素敵でしょう?あの淡い色彩といい、線が柔らかくて…まるで羽みたいだわ」


 彼女は遠くを見るように目を細めて壁の絵画に焦点を当てると、絵の中の女性とマドカの顔を交互に見つめて首を傾げた。


「そういえば、あの絵の女性…なんだかあなたに少し似ているかもしれない。もしかして、先生の息子さんとお知り合いかしら?」


「いえ…」


 篠田さんの瞳に向かって、マドカは左右に首を振った。


「そうなの…残念ね、とても綺麗な女性よね。きっと、大切な恋人を描いたのかもしれないわね」


 再びマドカの顔を見つめて、彼女は目を伏せながらとても残念そうな表情をした。


 カウンターの上には、個展のチラシに混じって篠田さんが暇つぶしに読んでいるらしいブックカバーのかかった文庫本と、高そうな万年筆が転がっている。ギャラリーは暖かな古い木の匂いがした。


「息子さんも、絵を描いていらっしゃるんですか?」


「ええ、このアパートの三階をアトリエにしているらしくて。毎日、画材をどっさり買い込んで階段を上っていきますから」

 篠田さんはギャラリーの廊下に続く階段を指差した。


「いつも、このギャラリーにも顔を出すんですよ。ギターを抱えてね」

「ギター?」


「ええ、今日みたいに晴れた日の午後は近くの公園でギターを弾いているみたいですよ。そうだ、もし時間があるなら行ってみるといいわ。彼ね、絵も巧いけれど、ギターの腕もなかなかなのよ」





   *



 初夏の光線を浴びながら、篠田さんに書いてもらった地図を頼りに公園までの道順をたどる。家々の手入れされた庭を横目に坂道を上って行くと、午後の日差しのせいで額に薄っすらと汗が滲んだ。

 山間を縫って吹く風が運ぶ涼しげな空気が心地良い。長い階段を上り、並木道を抜けるとマドカはやがて綺麗に舗装された広場にたどり着いた。


 そこは松山の街が一望できる高台につくられた小さなテーマパークほどの広さを持つ公園だった。所々に人工芝が敷かれた舗道をあてもなく歩き、マドカは爽やかな緑の葉の匂いを吸い込んだ。

 広場には一定の距離を置いて白いベンチが並び、青々とした枝葉を伸ばした樹木がぽつぽつと植えられていた。


「わぁ…」


 眼下に広がる景色と、底抜けに青い空の下にいる開放感で思わず溜め息がこぼれる。

 民家の屋根と歴史を感じさせる建物のあいだを走る路面電車。遠くには美しい山々の峰が見えた。雲ひとつない水色の空が、今にも頭上に降り注いできそうなくらい近い距離にある。

 マドカは空を見上げ、眩しさに目を細めた。


 三年という月日は、私をどこまで運んでしまったのだろう。

 あなたが落とした影を引きずりながら、私が辿り着く場所はどこだろう。


 ロラン、あなたは今、ここにいるの――?

 あなたのギターの音が、今も私には聴こえるのかな...

 二人でいたあの頃みたいに、あなたの隣でその音色を抱くことができたなら――。


 ロラン、私はここにいるよ。

 いつの日も、あなたの傍にいるから…

 あなたがそこにいる限り、私はずっと祈り続けることができる。


 会いたい、ロラン――。





 瞳を閉じ、風の音を聴けば…耳元をくすぐる微かな風に乗って、切ない旋律が聞こえるはずだ。

 足元に溜まる光の束を追いながら、マドカはそっと耳を澄ましてみる。


 切ないギターの音…、コードを抑える指、ぴんと張った六本の弦を弾く三角形のピック…、あの美しい横顔…、彼の記憶が強い意識を放って蘇る。


 この胸の震えが消えないうちに、脆く透明な音をたどって――。


 マドカは彼の名前を呼んだ。



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