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空に架かる橋  作者: 楓花
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第11章 瞳に映るもの(3)

 ポストを開けると、見慣れた文字が目に入った。アサミが書いたアパートの住所とマドカの名前。封筒の膨らみを見ると、いつものようにCDが添えられている。

 七月七日、ラクテの最後となる楽曲かもしれない。タツはいつも発売前に真っ先に届けてくれる律儀な人だから、マドカの予想に間違いはないはずだった。


 タツの手紙を抱えて部屋へ向かおうとすると、足元に白い封筒が落ちた。

 決してお世辞でもバランスの取れた美しい字とは言えない、殴り書きされた宛名。裏面を見ても差出人の名前は書かれていない。

 送り主の分からない手紙にマドカは首を傾げて部屋へ戻り、ペーパーナイフで封を開けた。

 便箋に書かれた文字とその内容にざっと目を通すと、送り主はすぐに分かった。


ロランだった――。





   *



 マドカへ


 こうして手紙を書く相手は君が最初で最後になるだろう。君は編集者だから、文章の書き方とか、言葉の言い回しとか、そういうことに関してはプロなんだ。僕は一度も手紙を書いたことがない。職業柄、美しい言葉を並べただけの陳腐な詞は書けるけど、文章は書けない。これといって必死になって勉強した記憶もないから、夏休みの作文だって自分で書いたのかさえ疑いたくなるくらいだ。だけど、これは僕の人生で最初で最後の手紙なんだ。少しはまともな文章を書こうと思う。まともな言葉で君に話しておきたいことがある。まだ、僕がまともでいられるうちに君のために書いておきたいことがある。僕は君にすべてを打ち明けようと思う。それがこの手紙だ。


 いずれ君の耳にも入ることだろうから、先に言っておいたほうがいいだろう。僕の目は見えなくなる。僕の左目は、こうして書いた文字が見えるほどの視力は残っていない。微かに見える右目が、今の僕に残されたたったひとつの目だ。けれど、重度の緑内障を患った僕の右目もやがて視力を失う。人間の体はとてもよくできている。片目だけになっても不自由なく、充分な世界を見渡すことができる。瞳の中で、世界は様々な色に美しく変化していく。見えない部分があるからこそ、風の匂いや光の色、あらゆる景色に敏感になる。そういう世界も悪くはない。闇がこの視界をとらえるまでのわずかな時間を僕は微かな光の筋をたどりながら、そっと瞳を閉じている。鮮やかな色彩をまとった風景を、いつの日も取り出せるようにひとつひとつ心の額に入れて、ただ静かに暗闇が通り過ぎるのを待っているだけだ。


 僕の目はいつも闇と隣り合わせだった。それを君に打ち明けられなかったことを、どうか許して欲しい。君に出会う前の僕には、望みも何もない人生に、怖いものなどひとつもなかった。僕は幼い頃からすでに失うものはすべて失っていたから、何かを手に入れたいと強く願っても、何ひとつ叶いはしないものだと思っていた。僕の抱えるこの病気が再び発症し、例え視力が失われてしまったとしても構わないと思っていた。ものごとをひとつひとつ諦めて生きることに慣れていたせいかもしれない。それが君に出会う前の僕だった。


 君は絵本から抜け出してきたみたいな女の子だ。いつも何かを夢中で追いかけているような純粋無垢な女の子だ。小さな体に白い羽をつけて、僕の顔を覗く瞳は透き通る雫みたいだった。その柔らかな髪を撫でれば、優しい光がやってきて君を包み、君が笑えば世界が逆転してしまうほど、僕は君のことを大切に思っていたんだ。


 君に出会えたことは、僕の人生で唯一の救いだった。君はまるで春の嵐のようにやってきて僕を掴み、その純粋な笑顔に僕は恋に落ちた。今、この瞬間も、君に出会わなければ抱くことのできなかった感情が深い海のようにこの胸を支配している。僕は今でもリアルに思い出すことができる。君の幼い声や肌の匂い、黒目がちな瞳と長く細い髪が指に絡まる感触、頬を膨らませて怒った顔や無邪気な泣き顔、ヒールの踵を鳴らしながら歩く癖、僕の名前を呼んでにっこりと微笑む柔らかな表情や、恥ずかしそうにはにかんだ仕草を。君の面影は褪せることなく、いつの日も僕の隣にそっと佇んでいる。欠けてゆく視野の中で、記憶の中にある君の笑顔だけが確かな稜線を描いてまぶたの裏に浮かぶんだ。僕は君を愛していた。君以外のものはすべて放り出してしまってもいいくらいに。


 いつからだろう、僕は君を失うのが怖かった。君が傍にいる時、僕は幸せを感じながらも絶望と背中合わせだった。君を失うかもしれないという不安の波が、毎日のように押し寄せては泡を残して消えていった。腕の中で無邪気に笑う君のことを想うたび、この胸が張り裂けそうだった。


 君に出会った時、闇と隣り合わせの左目はすでにその進行を止めることが不可能だった。僕は何度も打ち明けようとした。けれど、そのたびに君を傷つけてしまうかもしれないという恐怖と、君を失うかもしれないという絶望が目の前に横たわっていた。僕は君の未来を簡単に奪いたくなかった。大好きな君の笑顔を悲しみに変えてしまうことしかできないのかと思うと、僕は自分の人生というものを心底憎んだ。僕が君のためにできることなんてひとつもなかった。声を張り上げて歌うことしかできないボーカリストが、君にしてあげられることなんて何もなかった。だから君に別れを告げた。僕にとって視力を失うことより、君の笑顔を失うことのほうが怖かったんだ。君の笑顔を失うくらいなら、いっそのことこの世界の果てまでたった一人で生きていくことのほうがマシだった。君にどう思われてもいい、そして僕は別れを選んだ。


 君は僕を恨んでいるだろうか?それとも、淡い思い出として受け入れてくれるのだろうか?どちらにしろ、二年という歳月は僕たちを隔てるもののあいだを複雑にした。今でもふと思い出すことがある。都会の冷たい喧騒の中で、藍色の夜空を見上げる君のことを。


 君は今、何を考えているのだろう?今でも星の輝く夜には、願い事を放つことがあるだろうか?この先、人生で一度だけ後悔することがあるとすれば、羽のような君の体を抱きしめたあの夜のことを思い出すだろう。君の面影をひきずって生きるには、この世界は美しすぎる。僕に残されたのは、儚い眠りだけだ。もう、二度と君に会うことはないだろう。霞んでいく世界が消え失せるまで、浅い眠りに揺られて。





   *



 タツの手紙に添えられていたのは、ラクテのビデオクリップだった。

 テレビの電源を入れると青白い光が放たれ、液晶がマドカの顔を鮮やかに照らす。


 ラクテの三年間がこの一枚のディスクに刻み込まれている。


 ラ・ヴォワ・ラクテのボーカル

 ロラン…


 マドカは大きく深呼吸をしてから、プレイボタンを押した。





La Voie Lactee『Stars』


分厚い雲を突き抜けて/あの小さな星まで君をさらえたなら

まるで永遠のように感じられるだろう

幻想の彼方に浮かぶ/星々の影に隠れ

この銀河の世界の中/そっと瞳を閉じるまで





 悲しみは繰り返される――。

 マドカはふと、桜田直義を愛し、深い傷を負いながらも彼のあとを追って死んだ母親のことを思った。

 そして桜田直義とフランス人の恋人のあいだに生まれたロラン。

 ロランの心の中にはずっと、言いようのない哀しみが渦巻いていたのかもしれない。


 ロラン…私はあなたを救えなかった。

 あなたの抱える苦しみや寂しさの影に気づいてあげられなかった。

 あなたがくれた微笑みは、こんなにも愛しくて儚くて…今にも崩れ落ちてしまいそうなくらい脆くて――。


 本当は、愛も幸せも何もいらなかったんだよ、私はロランの傍にいられるだけで…ロランを想うだけで、それだけで幸せだったんだよ。


 ロランに出会えたこと――。

 それだけが私を支えるたったひとつの真実だったんだよ。


 ねぇロラン…、

 あなたの面影を抱きしめて生きる私は、間違っていると思う?

 薄れゆくあなたの記憶をたどりながら、あなたのために私にできることは、なんだろうって…今ならそう思えるのに…


 あなたを愛しているから…、

 私は今でも、あなたを愛しているから――。





 画面がふっと切り替わる。


La Voie Lactee『La Voie Lactee』


 ラクテが残した最後の曲――。

 流れるような優しいピアノの音。幻想的な月が薄暗い空に浮かび、アコースティックギターの音が聞こえてくる。

 切ない旋律はやがて透き通る歌声と重なり合い、麗しく哀しげな表情をまとって深い海の底へ沈む。


 シンのギターが緩やかなカーブを描きながらロランの歌声に抑揚をつけ、タツのベースがその曲調を支え、カオルのドラムは短くリズムを刻んでいる。

 白い月の下にロランがいる。

 ギターのコードを押さえ、軽やかに六本の弦を弾きながら独特の息継ぎをして、ラクテのボーカルがその歌詞を紡いでいる。





I play the guitar under the starlit sky.


(星空の下で君に一曲弾いてあげよう)





――「その曲、ロランが作ったの?」


――「まだ歌詞はないけどな。俺が初めて作った曲。バンドでメシ食って生きてこうって決めた頃だな…」





「この曲…、あの時の…」


 ロラン…、私たちはいつもあの公園のベンチに座って、オレンジ色の街灯の光と流れる噴水の音だけが二人だけの時間をそっと見つめていたんだね。

 ロランが煙草に火を点ける仕草や、ギターの弦を弾く横顔、ロランのブラウンの髪が風に吹かれて頬をくすぐる瞬間も、二人の肩が触れ合う時に感じた微かなあなたの体温も…今となってはすべて失われてしまった過去の断片でしかないけれど、あなたといた時間は、確かに私の胸に強く刻まれている。


 どんなに深い傷も、乾き切って枯れた涙も、あなたを思い出すたびに美しい風景に変わる。


 あなたが私に注いでくれたこの光を、絶やしてしまわないように、そっと瞳を閉じるから…


 私を許して――。

 あなたを救えなかった私を…許して――。

 ロラン――。





 どれくらい泣いていたんだろう。今はもう泣きつかれて、重くなった瞼をしっかりと開いていることだけで精一杯だ。


 枯れてしまった涙の海は、どこへ流れていくんだろう。深い森の小川を抜けて、いつの日かあの人の元へ届くのだろうか。


 もし届くのならあの人に伝えて欲しい。


 私は、あなたを救えますか――?





   *



「じゃあな、マドカ。気をつけて帰れよ」

「智樹も、元気で暮らしてね」

「なんだよ、永遠のお別れみたいな言い方すんなって」


 眉間に皺を寄せて、智樹が苦笑いを浮かべている。


 人影が交差する空港のロビー。マドカはカウンターで日本行きのチケットを受け取ると、見送りに来た智樹と一緒に搭乗時間を待った。


「手紙くらい書けよな。お前のことだから、俺が傍にいないと寂しくて泣いてばっかだろうから」

「はいはい、智樹がいなくても寂しくなんかありません。だって私、日本に帰るんだよ、北極に行くわけじゃないもん。毎日美味しいお米炊いて、おいしいご飯食べるんだもん。全然寂しくないんだから」


 マドカがそう言って照れ臭そうな笑顔を浮かべると、智樹は安堵の表情でマドカの顔を見下ろした。


 智樹…、いつ見てもあんたの顔は眩しい太陽みたいだね。


 マドカは心の中でそっと呟いた。


 アナウンスが忙しなく響き渡り、二人の周りを行き交う人々の乾いた足音が舞っていた。


「マドカ、俺…、待ってるから。辛くなったらいつでも俺のところに来ればいい。俺はずっとお前のもんだからさ」

「智樹、いつから私のものになったのよ?変なのっ」

「うるせーな、とにかく俺はお前のこと心配してんだよ!俺たち、ずっと親友だろ?世界でたった一人の、大切な友達だもんな」


 智樹の優しい瞳が切ないくらい痛い。

 智樹…、私はずっとずっと、智樹の背中を見て歩いてきた。その大きな広い背中はいつも私にほんの少しの勇気をくれた。


 智樹がいて、私がいる――。

 その優しさはきっとこれからも、見えない翼になって私を包んでくれるよね。

 マドカは智樹の顔を見上げていたずらに笑う。


「ねぇ智樹、目瞑って」

「なんで?」

「いいから、目閉じてよ」

 マドカの悪戯な瞳を疑いながら、智樹は言われるまましぶしぶ瞼を閉じた。


「なんだよ、おい…、まだかー?」


 瞳を閉じて不安気な表情を浮かべた智樹がなんだかとても可愛い。

 マドカはきょろきょろと辺りを見渡した。

 背の高い智樹の頬――、

 思いっきり背伸びをしてそっと口づける。


 静かに唇を離して智樹の顔を見ると、ぽかんと口を開けたまま右頬を大きな手で押さえてマドカを見下ろしている。


「ありがとう智樹。私、もう行くね」





 あらゆるものは吹き抜ける風のように通り過ぎていく。それは通り雨にも似ている。傘を持たずに歩いていると、それは突然やってきて大きな痣を残していく。だけど、いつか雨は上がり、そこに微かな光が差し込んでゆっくりとその傷を乾かしてくれる。


 私は日本に帰ってどうしようというのだろう。あの人が今どこで何をしているかも分からないのに。記憶は不確かになり、やがてあの人の面影も薄れてしまうのに…


 ロラン…、私はもう振り返らない。

 あなたを想う一筋の光が、いつの日もこの胸にありますように。


 時を打つ鼓動の針を、そっとあなたに向けて祈るから――。

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